★阿修羅♪ > 6EXp7VuuZ1U > 100000
 
g検索 6EXp7VuuZ1U  
 
6EXp7VuuZ1U コメント履歴 No: 100000
http://www.asyura2.com/acas/6/6e/6ex/6EXp7VuuZ1U/100000.html
[政治・選挙・NHK248] 首相が腐れば社会もこうなる コワモテ、鉄面皮がのさばる異常な国(日刊ゲンダイ)  赤かぶ
44. 2018年8月04日 22:26:33 : a5aZyd2CaI : 6EXp7VuuZ1U[1]
>>28さん 忠孝一致イデオロギーの歴史はどうだろうか?

明治初めに共産主義もナチスも無い。 しかし、明治から全体主義の国家となっていた。
その始まりは時代劇の黄門さまや忠臣蔵である。 黄門さまは、悪党の楠木正成を忠臣の鑑と
再評価した。 尊王攘夷は黄門さまこと水戸藩徳川光圀に起原をもつ。 幕末、諸藩は天子

(後醍醐天皇)に忠誠を尽くした楠木正成の霊を招く、招魂祭を執り行った。 高杉晋作建白
の桜山招魂場も同じ思想の流れであり、靖国神社の始まりも同じであろう。 この楠木正成を
明治政権は追贈し、湊川神社も創建した。 光圀は、墓碑と朱舜水の「楠公碑陰記」。
西郷隆盛らも、岳飛や秦檜とする歴史を学んだから、「精(誠)忠組」を使っている。

楠公碑陰記 「嗚呼忠臣楠子之墓」
http://www.geocities.jp/sybrma/208syusyunsui.nankouhiinki.htm

戦前は、児島高徳も忠臣とし教えられた。 今の高齢者は親世代から「桜井の別れ」などを
聞いていると思われる。 「七生報国」の言葉もここから出ている。 忠孝から出てくる言葉に 
「恭順」がある。 最期の将軍慶喜は「鳥羽伏見(京都)の戦い」で、大阪から側室と逃げた、

敵前逃亡をいわれる、 しかし、慶喜は水戸藩出自で、尊王攘夷や国体論まで藩主斉昭に
幼少から教えらた、ガチガチの尊皇。 弓を弾けないから「恭順」である。 この恭順は、長州
征討では、武備恭順と使われ、明治の長州閥となる。 この長州が利用したのが忠臣蔵。

300年近くも演じられ、今も国民の大半が知る「忠臣蔵」。 主君の無念を晴らす、仇討ち
を当然とするような創作でテレビ放映される。 この忠臣蔵の時代を文治政治と呼び、綱吉や
黄門さま(徳川光圀)の時代。 文治の前は武断政治と呼び、家光が代表される。

忠臣蔵は敵となる吉良を悪人、敵討ちの赤穂浪士を善人のように描く構成の物語。 発端は
松の廊下の刃傷事件、討ち入りを法治主義の視点で(ウィキの赤穂事件)読めば分かる通り
吉良は被害者である。 この被害者が人治主義、「忠」を基準に極悪人のようにされていく。

赤穂藩は、藩主浅野の傷害事件で改易(お家取り潰し)の幕命がくだる。 改易は武断政治
時代、圧倒的に多く300近くになる。 改易とは、藩士が牢人(浪人)になる、無職無収入
(年貢と仕官の収入)と身分地位を無くす。 (幕府は家来の雇用を義務化。 悪代官が大声
で「誰かおらぬか であえ」と叫び、かけつけるのが家来。 この家来も藩士と同様になる)

浪人でも、日雇い、傘張り、剣術、学問で生計を立てれば、良い方の浪人で、人斬りをやる
浪人が時代劇の定番。 江戸は、この辻斬りの横行で、防止抑止とし番屋(自身番)を町々
に設置した。 (町人地の番屋は町人が運営、この自身番が交番の原型となった) 倒産した

会社のサラリーマンのような浪人は、他社(他藩)への仕官(就職)は原則禁止。 浅野家再興
のため、兄弟や養子(江戸の養子は、儒教の血族を重んじてはいない。 浅野家を会社とする
と、浅野が本社社長で社員もおり、家臣大石も子会社の社長。 大石は本社浅野家の重役を

兼務。 そして、浅野や大石は家長であり、この家長の後継は、血族や血縁にこだわらない)を
藩主として届け、幕府に認めて貰うことができないと藩士全員が浪人へ没落となる。 浪人は、
百姓庶民の掟(五人組仕置)で、差別の対象、浪人を見れば役人への報告と仕置にある。

農村の郡部では逃げ込む場所がない、他藩の城下、中でも最大の城下は大消費地の江戸。
輸送業や建築業の二次産業や商人の護衛などサービス業に就く大都市江戸へ隠れた。
浪人となると底辺を這いずり回ることになる。 改易と浪人の他に、接待を受ける勅使の公家。

天皇の名代の勅使一行は強請りやタカリをやる。 下向(江戸)すると我儘放題で、接待役の
散財が大きく、吉良のような指南役に、接待役辞退の仕事料(賄:まいない 現代の賄賂と
意味が少し違う)を届けたという。 接待役は外様大名の役割で、浅野は2度も引き受けた。

接待費は年貢に繋がる、赤穂藩の百姓は、改易で年貢が少なると喜んだとも伝えられている。
勅使の公家が偉そうするのは、幕府の官位の統制による。 経済規模の石高では、赤穂藩
浅野は5万石、吉良はその10分の1、公家は更に10分の1の数百石。 官位は、逆になる。

浅野と吉良、浅野は外様で吉良は旗本。 吉良の官位が上。 公家はその上で大名も勅使
一行へは、勅使優先でお辞儀をして見送り通過させる。 時代劇の説明しない背景がある。


で、文治政治は、幕府官学となる朱子学(新儒教)を採用したことによる。 この朱子学は、李氏
朝鮮の捕虜から教えられた忠孝名分論をもとにした統治となる。 李氏朝鮮の政治体制と似た
形態になった。 黄門さまや忠臣蔵の時代は、儒教・朱子学から、国学(神道)が出てくる。

吉良の在宅は、国学者・荷田春満の情報、討ち入りと美化するが外国公館襲撃であり、藩主に
切腹を命じたのは綱吉、吉良を仇討ちとするには無理筋な話、それが三大仇討ちの一つとなる。
討ち入り後、浪士の一部を長州は預かり、その言い伝えも残る。 討ち入りの山鹿流陣太鼓の

山鹿が、山鹿素行で赤穂藩で教えた。 この素行の山鹿流兵学を吉田松陰も学び教えた。
仇討ちの日を吉田松陰は脱藩決行日、高杉晋作は挙兵、長州の宣伝冊子にも載せる。
そして、忠孝を吉田松陰は、「士規七則」において、君臣一体、忠孝一致とした。

士規七則
http://www.ncn-t.net/kunistok/8-13shoin.htm

(余談 松下村塾に身分上下は問わないといわれる。 これは、会読とする議論でのこと、
高杉晋作の奇兵隊も同様な平等がある。 これも、間違いで、今風なら正規と非正規であり。
正規兵が藩士、非正規兵(奇兵)も初期に武士格を与えられたが、高杉に平等思想はない)

儒教の五倫、父子の親と君臣の義は、「親は三度諫め聞き入れなければ号泣して従う」であり、
「君は三度諫めて身を退く」であったのが、松陰は、君(主人や上司も含む)と親を同じと教えた。
この考えは、上司のルール(法)破りも泣いて従えに繋がり、人治主義に陥る。 洋の東西を

問わず、親子の情は同じであり、忠誠は西洋にもある。 日本人は、往々にして忠誠を組織や
法律より、人物に尽くすような躾がされる。 300年来歴史伝統の思想遺伝子といえる。
仇討ちも、武士の私的制裁で、庶民は法治主義で縁はなかったが、時代劇や犯罪物で放映

されると肉親の感情が共有され死刑(公的制裁)の肯定につながる。 (現在は死刑制度あり)
この朱子学からの忠孝同一、忠孝一致が、戦前の全体主義に落ち込ませた思想といえる。
「忠孝」は、「教育勅語」にも書かれており、あたりまえとして話題にされないようである。

忠孝。 「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」、

『君主に対する忠義と親に対する孝行を結合して説かれた道徳思想。中国の儒教思想に
源流をもつ。日本では古くから人倫道徳の大本として重んじられたが,特に明治以後第2次
世界大戦の終りまでは,国民道徳を確立する観点から国の政策としても重視され,修身
教育の中核として位置づけられた』

忠孝よりも「和」が常識化した言葉で、憲法17条として権威付けされる。 解釈文を読むと
和(やわらぎ)の心構えを大切にし、諍いをおこさないようにして、議論をつくせば道理ある
結論を得ることができるで、前段を切り離すと話合いが抜け、付和雷同の和になってしまう。

聖徳太子と憲法利用したレトリックで、時代劇の武士も、武芸百般と自慢し、忠孝は隠されて
いる。 武士の憲法武家諸法度」の一条は『文武忠孝を励し可正礼儀事』。 文は朱子学・
儒教で、「徳」を学び「礼」儀にあらわれるとする倫理条文。 (今は、徳は得となり、聞く
耳を止める耻をなんとも思わない。 孔子廟を訪問した福田元首相の批判も理解できる)

武家諸法度 天和令 天和は綱吉の時代
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_hatto_main.html#h3

この江戸時代からの忠孝が、吉田松陰の忠孝一致となり、明治の長州閥が政権を担った。
長州閥は、明治の初めから司法妨害・汚職疑獄がつきまとう。 木戸孝允の「小野組事件」
山縣有朋の「山城屋事件」、井上馨の「尾去沢銅山汚職事件」はウィキにある。

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化
http://rekishi-club.com/?p=4987

山縣有朋は郡奉行所の下役人、年貢徴収の収穫予想と調達をやっていたとされる。 
松下村塾、奇兵隊の軍監で頭角を現す、2度首相を務めた。 明治6年の政変では
「有司専制」、山縣の時代は「超然主義」と呼ばれる。 山縣は「軍人勅諭」、「教育勅語」に

かかわった。 忠孝一致思想を教育勅語に探すと、忠孝は国体の清華、教育の淵源とあり、
『国法に遵ひ、一旦緩急あらば義勇公に奉じ』は、法の想定外が起きれば天皇の命令が
法になる、単純化では天皇の命令は絶対で、号泣しても従えとなる。 軍人勅諭は、軍人の

死は鴻毛よりも軽しが知られる、『上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ』
と教えられる。 軍事勅諭は先に出ているが、教育勅語を子供に教え、軍人になっていくと、
先輩・課長・上官の命令は、監督・社長・天皇の命令で、義(正しい)と心得よ。 法に則り

伝えれば正しいが、個人(監督)の意向を命令にすると、法を無視した人治主義となる。
体育会系は昔からいわれる、役人は「前例・無謬・忖度」で、忖度も昔からである。 これに
今は、「恭順」とする「忖度」をこえ、ルールを破ろうが、上司の命令と思いこむ風潮となった。

反民主主義の忠孝思想は、米国に命じられ民主主義で廃したはずが、今また忠孝に戻そう
としている。 吉田松陰の書簡『今の幕府も諸侯も最早や酔人なれば扶持の術なし。草莽
崛起の人を望む外頼みなし。されど、本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るるに方なし』

吉田松陰は、在野の人→長州藩主の恩→(✖諸候 ✖幕府)→天子の徳と論理展開する。
将軍は後継争いで、家茂(正室:和宮)、天皇は孝明。 忠は人につき、諸藩藩主や将軍を
飛び越え天皇。 260年続いた幕府も一夜で明治、錦の御旗はいわれるが、慶喜が尊皇で

あったことが大きいとと思われる。 敗戦で天皇が、マッカーサーと会い、忠誠を伝えれば、
これまた一夜にしてマッカーサーと民主主義!?。 戦後73年、個の権利、人権や自由を
教えないから(多数決は民主主義の原理ではない)、これまた、伝統の価値観に戻る。

烈公と慶喜公
問て曰、国体の本末とは如何。 答て曰、申迄ハ候ハねども大日本国ハ天照大御神・・・
http://komonsan.jp/kura/cat24/post_250.html

日本会議とか、自民党支持とか、いろいろあるんでしょうけど、民族の歴史伝統である
忠孝、吉田松陰のさらに強化した忠孝一致を意識しないといけないんじゃないんだろうか?

http://www.asyura2.com/18/senkyo248/msg/602.html#c44

   

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 6EXp7VuuZ1U > 100000  g検索 6EXp7VuuZ1U

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。