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[政治・選挙・NHK219] ≪激ヤバ≫アパホテルの部屋に「南京大虐殺を否定する本」があることをバラされ大炎上!中国のSNSで6800万回再生(2日) 赤かぶ
56. 大和狼[684] keWYYZhU 2017年1月20日 10:41:14 : oEpiTYazy2 : 5xR29KLQpLE[1]
なんだ色々不浄中国の弱味を暴かれ中国公安にアクセス禁止措置がとられただろう。
南京は中国人のハイエナ兵どもがあやったんだよ。蒋介石も認め
外国の目撃者もあるわ、嘘つき中国人ども。

日本軍がやったなどと嘘を言い続けてみろよ。
中国人は嘘つきだと言う事が世界に広がる事になるだけだ。
今の日本人はもうお前らに騙されるような人間はいない事に気付け!

【南京大虐殺】南京を脱出した蒋介石は書き記した。「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。
 戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。 撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。
・中国の軍隊は共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というよりルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。司令官は、ある土地を占領すると最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。】

「この(中国軍の)元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(1938年1月3日NYT)
・安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとで匿われた。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。

Lie_of_Nanjing
【南京大虐殺】「私は(中国軍の)一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(NYT 1937年12月22日付・ダーディン記者)

」南京脱出用の列車に乗り込もうとした民衆に対して、国民党軍はこれを排除すべく銃撃した。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って一斉射撃を命じたの日本軍が危惧したように、安全区委員会が安全区の中立性を守るためにそこからの中国軍の撤退を繰り返し要求したにもかかわらず撤退しなかったばかりか、中国軍将兵の多くは市民に偽装し、武器を携行して安全区に逃げ込んだ。いわゆる「便衣兵」である。だ。

あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。(鳴霞) 督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型けん銃を構え、約4歩間隔で横に並んで中国兵の後ろにいました。中国兵の突撃部隊を日本軍の方向へと押し出すのが彼らの任務で、後ろへ逃げ出そうとする中国兵は容赦なく撃ち殺されていました。

(第6師団45連隊第11中隊山砲砲兵指揮官・高橋義彦)唐生智南京防衛軍司令長官の逃走後、残された国民党軍は十二日夜に主に3つに分かれて敗走した。1)城外東方向、これは第十六師団が追撃・掃討。2)城外西方の揚子江方向、これは第六師団第四十五聯隊が遭遇し、ほぼ全滅させた。3)残りは軍服を脱ぎ捨て、安全区に潜伏した。
 ・大砲の弾がある限り零距離射撃を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました(第6師団45連隊第11中隊山砲指揮官・高橋義彦)

「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(ジョン・ラーベ)
 しかし、中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵だった。
「この中には非戦闘員も含まれていたことと思うが、武器を持って退却する敵を攻撃することは当然の軍事行動である。住民が混在しておれば被害は免れ得ない。なぜ中国軍は整斉と組織を保ち、白旗を掲げて降伏しなかったのか。」(上海派遣軍参謀・大西一) 揚子江岸にあった数千の中国兵死体について。

 「その日(14日)の夕方から夜にかけて、掃蕩洩れの敗残兵が苦し紛れに放火しだした。これにはさすがの勇士たちも東奔西走、消火にヘトヘトになった。12時すぎ、やっと一段落して寝ようとしたところへ、また情報が入った。『敗残兵が薪炭倉庫に放火、燃焼中』」(歩兵三十五聯隊中隊長・清水貞信)

 ・京都の第9連隊の野田・向井の2人の少尉に、上官がどちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、と命じたというが全くのウソです。野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

「『当方面の戦闘はこれで終わった。日本軍は捕虜に対しては乱暴は加えぬ。生命は助けてやるから、揚子江を渡って郷里に帰れ』と言った。
 ところが、『大人は揚子江を渡って帰れと言われるが、船がないではないか。船はどうしてくれるか』と申し出たので大笑いとなった」(第二大隊長・成友藤夫)

 南京城陥落後、日本軍は紅卍字会に中国側遺体の埋葬事業を委託した。埋葬記録では手数料搾取のための数字水増しを含めて4万3千体(戦死を含む)。紅卍字会の埋葬能力と作業期間から算出すると実数1万体前後と推測される。この数字には中国側の戦死を含む。30万人とは桁違い。

Follow「南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12日〜13日)の人口は20万から25万であった」(南京地区における戦争被害1937年12月―1938年3月)

「日本兵の屍体は撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも撮りました。日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。
 この中には日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群がっている、そんなものもあります」(東京日日新聞・佐藤振寿)

 「日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません」(昭和12年8月、上海の難民区で30万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父) 】

「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」(東京日々新聞カメラマン・金沢善雄)】

「私の中隊、私の見た限りでは、残虐行為など一切なかったことを声を大にして申したい。光華門から北に通ずる道路、飛行場付近で、日本軍が不法な行動をしたかのように報道されているが、そのようなことはなかったと断言する」(独立軽装甲車第七中隊上等兵・渡辺末蔵)】

「掃蕩隊は残敵掃蕩を任とし、必ず将校(准尉を含む)の指揮する部隊をもって実施し、下士官以下各個の行動を絶対に禁ずる」「家屋内に侵入し掠奪に類する行動を厳に戒め、必要以外の物品を濫用廃棄してはならない」(城内進入に関する旅団命令/歩兵第六旅団)北山与・歩兵第20連隊第3機関銃中隊。


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