38. 2017年1月13日 22:15:32 : efipo3SElI : 4RrvA4ymjtk[1]
>37さん
明治初めに、神仏分離・排仏棄釈が行われ、宗教一揆ような暴動が起きている。 また、
寺社領の領地没収の上知令も出て、暴動の収拾は政府にとって都合がいい面もあった。
(物部氏は、聖徳太子の時代に遡る崇仏戦争での排仏派で、崇仏派の聖徳太子・蘇我氏に
敗れた豪族とされる。 抗争がおきれば歴史を持ち出すから、仏教側の敵になりますわね)
で、天津神(アマテラス)と国津神(オオクニヌシ)の二系統があって、神祇省を主導したのが
国津神系の復古神道、平田篤胤門下。 (平田は、霊魂の存在を主張した) のちに排除
され、天津神をもとにした近代社格制度(伊勢神宮を頂点とする)となっていく。 招魂社は
平田篤胤(国学者、本居宣長没後門人)の影響を受けたと思われる。 系譜は、津和野藩主
亀井滋監(国学を重んじ神仏分離を行った)のもとで、福羽美静は神葬祭や霊祭式を定めた
とされる。 岡熊臣や大国隆正に師事した。 また、明治初期の神祇省を主導した。
京都招魂社の始まりは、福羽美静らで執り行われた。 東京招魂社(靖国神社)は、大村
益次郎の建白、〈寛永寺(東叡山として、江戸城の鬼門を守る)が候補地とされたが、自ら
彰義隊を攻撃した場所で、亡魂の地として嫌った。 山主は歴代の天皇家〉、建築様式は
西洋風であったとされる。 靖国神社となって初代宮司が、長州の青山清。 長州の桜山
招魂場は、高杉晋作の建白とされ、青山清は招魂祭を行った。
宇部に靖国神社の原点(宇部日報社)
http://ubenippo.co.jp/2010/07/post-1153.html
長州は吉田松陰の尊皇攘夷に代表される? 吉田松陰は神葬の葬儀を望んだ。 これは
国学の書物が、広く普及し明倫館を通して高杉らも読んだと云われ、平田神学も新宗教と
して、庶民から知識人まで多くの門人を抱えたとされるから、吉田松陰も読んだのかも。
一方で、平田神学は水戸藩には受け入れられなかった。 尊皇攘夷は、(後期)水戸学が
主導しており、吉田松陰は尊皇攘夷論の会沢正志斎に面会している。 尊皇を宗教にした
のが国学で、尊皇は江戸官学・朱子学。 朱子学の忠孝の大義名分論から、江戸初期の
儒者により尊皇思想が産み出されたといえる。 この時代は、神道宗派は存在し、幕府は
吉田神道を正統とした。 宗教政策は、寺社奉行とあるように、キリシタン禁制(島原の乱)
の強化として、寺院に国民を帰属させる寺請制(戸籍)を敷いた。 寺院統制は、国家仏教
から朝廷と関係が深い京都や奈良の寺院や朝廷を含めた禁中並公家諸法度を制定。
統治を朱子学からとする身分制度(上下定分の理)や国史の本朝通鑑を林羅山が創った。
本朝通鑑は、資治通鑑と同様の国史として家光が命じた。 (黄門さま)の大日本史の編纂
から水戸学が始まった。 保科正之(初代会津藩主)は、朱子学以外を排斥した。 (家康の
孫たちが、朱子学から幕府公認の尊皇を広めたといえる) 歴史を古書に求めれば記紀で、
天皇史、征夷大将軍は令外官で、朱子学の大義名分の「忠」を突き詰めると天皇となる。
(忠義や忠誠が天皇に向かう思想が出ることは当然といえる) 慶喜も会津藩も尊皇だった。
記紀云々は、少し読めば面白いですよ(現代訳が読めます) 書籍で読むのとほぼ同じ
解釈説明は著者で違うと思いますが、〔古事記〕海幸彦山幸彦と神武天皇と母親。
日本武尊は、景行天皇紀にあり、兄殺しで親も恐れた。 日本武尊の子の仲哀天皇紀は
天皇が神に背き殺される。 聖徳太子は、推古天皇紀に名前。 日本書紀は、日本武尊、
神功皇后、聖徳太子の事績の記述が多い。 記紀の現代訳 日本神話・神社まとめ↓
http://nihonsinwa.com/column/novel/1.html
日本会議、生長の家といわれる宗教系譜は、大本教(開祖・出口なお)と金光教、大本教
(聖師・出口王仁三郎)と谷口雅春、生長の家。 大本教にも、国常立尊(くにのとこたちの
かみ)〔日本書紀〕、国之常立神〔古事記〕がでてくる。 大本教が、弾圧を受け、予言も
外れたこともあり、谷口雅春は脱退した。 出版宗教とも呼ばれ、人生相談や病気治癒の
経験などの「生長の家」誌で信者を増やしたとされる。 民衆の救済とする大本教と同じ
ような路線が、政府に同調し、戦後は戦前回帰。 生長の家の支援で玉置和郎が当選、
自民党の青嵐会に参加。 今は、青嵐会のメンバーの二世議員も多い。
朱子学の大義名分「忠」が尊皇となり、明治は「忠」を強制した。 そんな感じですね。
http://www.asyura2.com/16/senkyo218/msg/775.html#c38