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[カルト18] (下)Nyの金持ちのユダヤ人たちが、トランプを突き上げるものだから、「しようがねえな」とダラダラとやる。やるふりをするだ 仁王像
1. 仁王像[1966] kG2JpJGc 2017年12月26日 20:09:55 : FKHdAwL83N : 2yYjzuoaNGo[1]
 (本文で省略した前半の長い歴史部分)

「2009番」に載せた、この問題の 続編(後編)を続けて話します。

さらに歴史の話をしますが、この「神殿の丘」の話はなかなか複雑だ。

 前編で説明したとおり、ちょうど紀元前1000年に 36年間ダビデ王の世(BC997-931の 36年間)だ。イスラエル(=ユダヤ)民族にとって最も聖なる礼拝所である、神殿の丘の至聖所(しせいじょ)の聖なる場所に納めたのは、「契約の箱 」( Ark of the Covenant アーク・オブ・ザ・コヴナント )だ。

 ここには、モーセが、シナイ山で、自分たちの民族神ヤハウエ(本当は、アメン神官団)から与えられた「十戒(テン・コマダメンツ)」の石版である。これがユダヤ人にとって最も大切な「神との約束=契約 」が入っていた聖なるお櫃(ひつ)(四角くて、上から蓋をする箱)だ。これが、映画「インディ(アナ)・ジョーンズ」の『(レーダース)失われたアーク / 聖櫃(せいひつ) 』(1981年制作 )の話だ。聖なる証文を入れた箱が、次のソロモン王の時代が過ぎて、そのあとの大混乱で、失われたという話だ。 

 今はもうこの箱、聖なるお櫃は、どこに行ったのか分からない。だから、ザ・ロスト・アーク「失われた聖櫃」だ。この櫃(ひつ)というのは、「飯櫃(めしびつ)」と言うと、漆(うるし)で塗った木製の箱で炊いたご飯を入れたので、古い日本語だが、今の日本人にも分かる。

 この契約の箱の中に、モーセがエホバ、ヤハウェ(Yahaweh , Jehovah)と約束したコトバが書かれた十戒と他の書物が安置されていた。そこ場所が、King Solomon's Temple =Mount Temple 「神殿の丘」の真ん中の至聖所 (礼拝所)だ。

そうすると、サウロ、ダビデ、ソロモン王たちは、どこで暮らしていたのか、というと、この至聖所の南の南側に神殿を作って、そこにいたのだ。今は、そこが、アル・アクサー・モスクだ。 そのときから2千年がたった、紀元後1000年代の、十字軍のエルサレム公国のときには、テンプル騎士団(彼らは主力軍)が、この神殿を自分たちの兵舎にした。 国王(西洋白人の ボールドウィン王は、どこにいたのかな? 

 紀元前721年と、紀元前587年 に、ユダヤ人の王国は、ふたつとも滅んでしまう。帝国(大国)に吸収され併合された。ソロモン王の死のすぐあと、紀元前931年に分裂していた、イスラエル国とユダ国が、順番に滅んだ。北のイスラエル国は、アッシリア帝国(サルゴン2世王)に滅ぼされた。

 滅ぼされた、というけれども、占領されて併合(へいごう)されたということだ。民衆が皆殺しになったわけではない。王族と、戦闘で戦った者たちは殺される。 そのあと134年後に、今度は、新バビロニア帝国(ネブカドネザル2世王) が、南のユダ(ヤ)国 (ここがエルサレムとその周辺)を併呑(へいどん)した。

 このとき、民族の神を祭った神殿は徹底的に壊された。そして、バビロン捕囚(ほしゅう)の目に合う。実は、バビロン捕囚は2回ある(BC597年にも)。国が滅びるということは、その中心の守るべき信念(信仰)が壊される、ということだ。

 だから日本の右翼、あるいは民族精神を大事にする人たちは、天皇家を護持して崇拝する伝統を守ろうとして必死になる。それなのに現実の目の前のアメリカ(海洋帝国だ)による支配には全く、何も言わない。それは、西側のユーラシア大陸の、チャンコロ、チョーセンジン、ロスケ(ロシア)がコワイからだ。

 バビロン捕囚すなわち、ユダヤ人の王家(と言っても、本当は、宗教指導者のラビ Rabbi たち、とその家族)が、帝都バビロンに連れて行かれた。捕虜として。 この時期の、「エゼキエル書」とか、「ダニエル書」とかが書かれているが、彼らは、新バビロニア帝国や そのあとの、アケメネス朝ペルシア帝国の、官僚(高官)になったりして、うまく、内部に入り込んでゆく。ここからが、ユダヤ人たちの、

本当の、優れた頭脳、ずば抜けた 王朝経営の財政家たち、金融業者(宮廷ユダヤ人)の伝統が、始まる。このことは重要だが、今回はもう話さない。

 モーせ5書すなわち、 Torah トーラ、これは、出エジプト記、創世記、レビ記(神=神官たちへのお供え、食事の提供の儀式を詳しく書いている) 、民数記、申命記の 5巻だ。 

このあと、の、ヨシュア記、サミュエル記、列王記、歴代誌、・・・などのそれぞれの時代と、意味、意義 については、そのうち、まとめて話します。

 このバビロン捕囚から、わずか、50年後に、なんと、新バビロニア帝国があっけなく滅んでしまった。帝都バビロンが陥落した。アケメネス朝ペルシア(キュロス2世) という遊牧民が強大になって、攻めてきて打ち負かした。ペルシアというのは、イラン高原のことだ。ここから、50万頭とかの馬で、西の方に、ドドドと、攻め下って、それで、「世界の中心地」である バビロン(バグダッド)を攻め落とすのだ。

この「 遊牧民(ノウマド nomad )による、もの凄い勢いの、馬による、ドドドの 攻め下り 」を理解すると、人類の世界史は、一番、大きいところで分かる。この世界中の大陸のどこででも起きた「ドドド」が分かるといいのだ。

 ただし、15世紀からは、「海の時代」「大航海時代」、西洋白人の時代になって、大陸の時代=馬の時代が終わる。

 こうして、イスラエルつまりパレスチナは、アケメネス朝ペルシア帝国の 皇帝(ネブカドネザル2世王)が、紀元前538年に、「もうお前たちユダヤ人は、バビロンから、自分の国に帰っていいぞ」となった。エホキアムという王族(ラビ Rabbi たちだ)と、ゼデキア王族(「エゼキエル書」のラビ)だ。

 バビロンというのは、今のバグダッドの南、100キロぐらいのところにある。イラクの首都バグダッドの外(はず)れだ。 「エデンの園(ガーデン)」もこのそばだ。「バベルの塔」も この近くの山だ。こういうことを、日本人は、世界地図を自分で開いて、みんなはっきり知るべきなのだ。今では、これらの場所もはっきりしていて、遺跡が発掘されてている。

 繰り返すが、バグダッドが、世界の中心であり、世界一栄えていたところで、すべての人類の文明の中心である。人類の5千年の歴史は、たったの5千年だ。この数字を覚えなさい。人類史は、それ以上には遡=さかのぼ=らない。本当だ。だから紀元前3000年が、人類史=世界史の 始まりだ 。そのまえは、100人から1000人ぐらいの血縁の原始共同体(ゲンス)があっただけだ。中国でも、インドでもそうだ。

だから世界のの中心は、バグダッド(メソポタミア文明)だ。ここが一番、ずっと3千年間、栄えていた。

 それを、欧米白人の歴史学者たちが、ギリシア・ローマ文明(=西洋白人文明)を中心とする世界観=世界史に、作り替えて、決めつけて、歴史を書き換えて、世界中に教えてきた。16世紀からは西洋白人が、近代学問(サイエンス)と近代資本主義で、ものすごく強く、優秀になったからだ。

 日本人も、イギリス、そしてアメリカに支配、征服されて、この150年間、そのように教えられる(学校教育で)から、それで、私たちの脳(思考力)も、それに支配されている。

 チグリス川とユーフラテス川が、かなり接近したところがバグダッド、すなわちバビロンだ。ここが一番、由緒がある文明であるメソポタミア文明だ。他の文明は、すべて、これの真似で、あれこれと、文物(ぶんぶつ)や、知識や、制度の作り方を、バグダッドから輸入したのだ。

 エジプト文明も同じぐらい、古い(紀元前3000年からだから)のだが、エジプトも メソポタミア文明(バグダッドが中心)の亜流だと、考えるべきだ。

それでも、さらに真実は、エジプト古王国 のセソトリス王が、メソポタミアにまで遠征(エクスペディソナリー)して攻めてきて(当時は、中東は、森林が茂った緑の地帯が多かったのだ)バビロンを征服した、征服王朝があった。シュメール人たちは、支配された。この事実は、ヘロドトスの「歴史」の始めに書いてある。しかし、欧米の白人の歴史学者たちは今も認めていない。

 世界史(人類史)が始まった時(紀元前3000年)から、ぐっと時代が3000年間、下がって、紀元前168年ごろローマが、フェニキア=ポエニ=カルタゴ と ギリシアの盟主アテネの同盟 を  まとめて制圧して打ち壊した。そしてローマが帝国になった(紀元前27年に)。 

 歴代の ローマ皇帝( 本当は、貧乏貴族で、軍隊を指揮した軍人たちが次々となった )は、西のゲルマン人 と、東の パルティア帝国( アッシリア帝国の再来のような国)と戦うために、ローマ皇帝たちは遠征、進撃して、そして、パルティアとの戦いで、何人かの皇帝が捕まったり戦死したしている。
 
 紀元前538年に、バビロンから、ユダヤの王(本当はラビたち)が、もう帰っていいぞと言われて、ユダヤ人たちがイスラエル=パレスチナ(=カナンの地、エルサレムが中心)に帰ってきた、そして、神殿を作り直した(再興した)話が、歌劇(オペラ)「ナブッコ」だ。

 ナブッコとは、ネブカドネザル2世という残酷な王様のことで、彼が悔い改めて、ユダヤ教に改宗した、という作り話(ウソ)で出来ているオペラだ。本当は、ナブッコ王の息子が、ユダヤ教に、少しだけ、共感、改宗したという歴史事実があるようだ。 

 それでも、もう帰っていいぞと言われたのでBC538年に、王族(ラビたち)が帰ってきた。そして、よかった、よかった、で、再び至聖所とソロモン神殿をつくった。

 でも、もうユダヤ人には国家はない。ただハスモン家という一族などがいた。日本語では「士師(しし)の時代」とユダヤ学者が説明するから、訳が分からない。士師(しし)というのは、ラビ rabbiのことだ。律法学者とも訳す。 ユダヤ教の宗教指導者で、聖職者たちだ。ユダヤ人は、王さまを持てなくなったが、自分たちの自治組織があってこれがずっと続いたのだ。

ラビ(ラーバイ)では、ハスモン家というのが一番有名で、この人たちを中心に国のようなものを持った。これがずっと続く。ラビ(宗教指導者)たちによる自治組織だ。これが、ずるずると、紀元前400年、300年、200年と続いた。そして紀元前200年ぐらいからローマ帝国が強くなる。

 だが、その時期よりも、少し前の、BC333年からのアレキサンダー大王(ヘレニズムの思想を作った人)と、そのあと、ギリシア人たちの支配がある。それが、150年刊続く。つまり、イスラエル(パレスチナ)の次の支配者はギリシアだったのだ。 

この目まぐるしい歴史の転変に、ついて行けないので、自分の目(と頭が、ぐるぐる回ってしまって)ほとんどに人は、歴史の勉強を放り投げる。「私は、バカだから、もう、ついて行けんわー」となる。

 ギリシア(ヘレニズム)の時代から、150年経(た)って、強大になったローマ帝国が攻めてきた、というより、も当然のように、のしのしと行進してきた。BC63年から、ローマ帝国(有力将軍ポンペイウス)の属国、属州(ぞくしゅう。プロヴァンキア)になった。

その前、紀元前183年に、ローマ軍は、あの、”カルタゴの英雄” ハンニバルを、追いかけて来て、彼を匿(かくま)っていたセレウコス朝シリア( セレウコスは、アレキサンダーの幕僚のひとりで、帝国を引き継いだ)を滅ぼしている。

 だから、ギリシアを滅ぼしたのは、ローマだ。BC(紀元前)168年に、ローマ軍が、ギリシアの盟主(アカイア同盟)のアテネを制圧して陥落させたのだ。そして、あの世界史的に、有名なパルテノン神殿を燃やした。この事実を、欧米白人の歴史学者たちが、書きたがらない。あの壮麗なパルテノン神殿を見るも無惨に破壊した、そして、今もそのときの残骸のままだ。円柱(エンタシス)だけは何とか立てている。この破壊をやったのはローマ(軍)なのだ。

 パルテノン神殿は、この紀元前168年の「アテネ陥落」のときから、そのままの残骸だ。西洋白人たちは、今も、このことをあまり言いたがらない。だから「アテネ陥落」が、世界史の年表に載っていない。

だから、日本人は、ボーッとなって、何が何やら、ここでも世界史が分からなくなる。

 ギリシアが、フエニキニア(=ポエニ Phoenicia 人 Phoenicans フェニシアンズ。今のレバノンのレバノン人だ。このように決めつけることが、何よりも大事なのだ !  副島歴史学! カルタゴ、さらには、何と、ベネチアも、フェニキア人の一部)と 同盟を組んで、ローマの地中海支配と激突した。 

 フェニキア人というのは、ユダヤ商人とそっくりだ。後生(こうせい)、あくどい、銭の亡者のユダヤ商人というイメッジは、フェニキア商人から受け継いだものである。 フェニキアとギリシアは、同じ文明だ。私、副島隆彦は、ニーチェを研究していて、ディオニュソス神の享楽の精神の 研究で、このことに鋭く気づいた。

 フエニキア人とは、今のレバノン国の レバノンたちだ。土地も人間も、2000年間、今のままだ。中東人なのに、まるで西洋白人のような立派な顔立ちの人たちが多い。シリア人は、アレキサンダー=ヘレニズムの影響か? 西洋白人のような人が多い。フェニキア=レバノンなのだ、ということを日本人が誰も知らない、分かろうともしない(歴史学者たちまでが)から、ここでも、頭がぼーっとなる。

 日本人は、ポエニ戦争というと、北アフリカの、にっくきカルタゴを攻め滅ばした戦争だ、とばかり思っている。そればっかり習う。 本当は、カルタゴの本国であるフェニキア( Phoenicia はポエニとも読めるでしょ )との戦争だったのだ。

 のちの中世のベネチア国 のベネチア人たちも、実は、フェニキア人だ。ロンバルデイア平原に入り込んだ、船に乗ってきたフェニキアからの海洋性の 商業民族と融合してベネチア国(共和国、王さまがいない)を作った。 塩野七生(しおのななみ)の、「海の都の物語」は、こういう、根本、土台の研究が出来ていない。

 ビザンチン帝国(=東ローマ帝国。 1453年、オスマン帝国に滅ぼされた。首都コンスタンチノープルが、壮麗に陥落した )にも、船をたくさんもっていた大きなフェニキア商人地区があって栄えていた。

これより200年前に、1258年に、「自然な感覚で」世界征服を目指した、モンゴル軍(イル・ハン国を作る)が、当時の中東世界を支配していた アッバース朝(セルジュク朝トルコを家来にしてた)のカリフが、バグダッドの城門を開いて、上から目線で、迎え入れて、折伏(しゃくぶく)しようとしたら、

モンゴル(チンギス・ハーン 大可汗=大ハーンの 息子)は、「なに、こいつ。何を威張っているんだ」で、そのまま馬で蹴り殺した。 そして、バグダッドで、80万人を虐殺して、征服した。

当時は、文明度の高さで、西洋さえも見下していた、イスラム帝国(=サラセン帝国)といっても、こういう、びっくりするような 目に遭っているのだ。おもしろいでしょう、歴史の勉強というのは。

でも、このあと、モンゴル軍は、ダマスカスまでは攻略(攻め落とすこと)出来ずに、引き返した。

これと、話は、急に飛びますが、 西暦(紀元)751年の、「タラス河の戦い」が重要だ。今の、キルギス国のイシククル湖 から流れ出ている、タラス河で、隆盛していたイスラム軍と、大唐帝国(タン・ダイナスティ)の、唐の遠征軍が、ぶつかった。そして、唐(中国人)が負けた。この時以来、中国人(漢人、ハン・レイス)は、それよりも西には、二度と侵攻できなかった。これは、世界史の上では、ものすごく重要な事実だ。

 だから紀元前の2世紀には、フェニキアとギリシアが同盟を組んでいたのだ。イスラエル(パレスチナ)は、その支配下にあった。そして全地中海(スペインにまで)に、ギリシアの植民都市がたくさんあった。 だから、憎きカルタゴだけでなく、ギリシア本国をも ローマ軍が攻撃して崩壊させたのだ。このことを、日本の世界史の教師たちが知らないから教えない。

 以後、ギリシアは立ち直れなかった。スペインとか、シシリア島のギリシアの植民地(コロニー)は、ローマ式に作り替えられていった。ここにアルキメデスとか、ピタゴラス教団とがいたのだ。

ギリシア語、のすばらしさは、今日は、もう話さない。 ギリシア語が、実は、ローマ帝国の 高級語で、官僚語で、公式、正式の言語だったのだ。 これを、Linga Franka リンガ・フランカ 普遍言語、といって、ローマ帝国の 貴族や、僧侶や、官僚たちは、みな、ギリシア語で文書を書いたのだ。

このことの凄(すご)さを、私たちは、知るべきだ。400年代ぐらいまで、ずっと、ギリシア語が、公用語だった。いや、もっと本当のことを書くと、15世紀の イタリア・ルネサンスは、ギリシア語の文献を読むことから、始まったのだ。ギリシア語が、ラテン語(ローマ語)よりも、ずっと格が高かったのだ。

「新約聖書」すなわち、イエス・キリスト(という変な男)の物語、弟子たちによる言行録は、ギリシア語で書かれていたらしい。イエスたちが話していたのは、現地語のアラム語だ。それと、エルサレレムのヘブライ語が、どういう関係だったのか、私、副島隆彦も、まだ、よく分からない。

アラム語は、今のシリア人たちが(今のアラビア語とは別に)知っているコトバのようだ。

 アテネの陥落(西暦168年)のあと、ローマ人によって、ギリシアの知識人たちは、ローマに連れて行かれて、奴隷身分としてローマの貴族たちのお屋敷で、子供たちの教育に当たった。それで、文学(ぶんがく)なるものが生まれたという重要な文学理論がある。 自分たちの国を失った誇り高い、ギリシア知識人たちが、脳の中に、妄想の自由の国を作った。それが、文学(リテラリュア)なるものの誕生だ。

 イスラエルは、アテネ(ギリシア)陥落(紀元前168年)の4年後の、紀元前164年に、ギリシアの支配から脱出している。

 なぜなら、だから、ギリシアの地中海覇権が、ローマによって崩壊させられ、奪い取られたからだ。このときイスラエル(ユダヤ人)は、大幅な自治権を獲得した。やれやれ、だ。しかし、だが、このすぐあとにローマ軍がやってきた。

 あ、そうだ。この時よりも320年前に、あの「ペルシア戦争」があった。このペルシア戦争、というコトバがおかしいのであって、「本当は、ペルシア帝国による、ギリシア侵略(侵攻)戦争」だ。こう教えないから、日本人は、訳が分からない。

 BC490年に、バビロン(バグダッド)を治めて強大になったペルシア(ドドドの、アケメネス王朝)が、ギリシアに攻め込んできた。このアケメネス朝ペルシア帝国と戦って、それでもギリシアは、何とか負けなかった。BC480年にも再度攻めてきた。 

 前述した、ユダ王国を支配していた新バビロニア帝国を滅ぼした、アケメネス朝ペルシアが、イスラエル(パレスチナ)を制圧して支配した。そのあとギリシアにまで攻め込んだのだ。それが「ペルシア・ギリシア戦争」だ。ギリシアはかろうじて負けなかった(紀元前490年、マラソンの戦い)。

 そのあと、それに対する激しい反動として、150年後の、紀元前333年に、たったの 20歳?のアレキサンダー大王が逆襲して、ペルシア帝国に攻め込んで圧勝した(イッソスの戦い)。そしてこのあと、ペルシア高原(今のイラン)の全部を占領して、ペルシア帝国の領土全部を、10年かけて、アレキサンダーは、ずっと、うろうろして回った。

 彼が何を求めたのか。財宝なのか、不死の薬なのか、分かりません。アレキサンダー大王という男は、本当に神がかりの人物だったようだ。自分を “ 不死身の神 ”、だと本当に信じたようだ。戦争になると、自分が真っ先に突っ込んでいって斬り合いをやったようだ。彼は、ギリシア人の一種だが、ギリシアの北のほうのマケドニア国の王だ。

フィリッポ2世の息子。マケドニアに征服されて、ギリシア人たちは、相当に不愉快だったようだ。それでも、アレキサンダーは、自分が一緒に育った将軍たち(幕僚)によって、「私たちは、もう、自分の国に帰りたいよー。こんな神がかりの変なやつの命令は、もう十分だ 」で、彼らに毒殺された(BC323年)。

 その将軍の1人のプトレマイオスが、「俺は帰らないよ」と、エジプトのほうに行き、プトレマイオス王朝をつくった。そして、今のエジプトのアレキサンドリアに首都をつくった。それがプトレマイオス王朝だ。その18代目の国王が、あの クレオパトラだ。だから、クレオパトラは、自分(たち)のことを、ギリシア人だと思い、ギリシア語を話していたようだ。 顔は白かったようだ。

そうでなければ、カエサル(シーザー)が、コロッとクレオパトラに参らない。ギリシア語で、話している人間に、リーマ人は、劣等感が激しい。 今の、アメリカの支配階級が、イギリスの貴族階級が話す、オックス・ブリッジ英語に、劣等感を感じて複雑な気持ちに、今でもなる、という。人類の歴史は、そういうものだ。

 絶世の美女(7カ国語を話したという)クレオパトラは、紀元前48年に、ローマ(帝国)” ゼロ代皇帝 ” のカエサル(シーザー)と愛し合った。そのシーザーが殺された(BC44年)後に、シーザーの幕僚(弟子)のアントニウス(アントニー)がローマの権力を握るが、このアントニウスとも、クレオパトラは愛し合った。1950年代の大繁栄のハリウッドの、アメリカ映画の「アントニーとクレオパトラ」(・・作)のとおりだ。 ふたりは12年間、愛し合った。そのあと、ふたりで紀元前30年に自殺して死んだ。オクタビアヌスとの戦いに負けたからだ(アクチウムの海戦。首都アレキサンドリアの目の前の海で。紀元前30年)。

 オクタビアヌスという悪賢い男が出てきて、彼は、アウグストゥス(さらにプリンケピア)という称号をローマ議会からもらっている。紀元前27年、この男が、“ 初代 ” ローマ皇帝となった。だから、

この年が、ローマが帝国(エンパイア)になった年だ。そのまえは、共和政(リパブリーク。王さまがいてはいけない政治体制のこと。日本は、天皇がいるから、共和制にはなれない )という。

 紀元前30年のイスラエル(パレスチナ)は、だから、初代ローマ皇帝のオクタビアヌス(アウグストゥス)が、自分の家来の ピラトを派遣して、ユダヤ王のヘロデを、上手に操(あやつ)って、イスラエルを属州(ぞくしゅう)にして、大繁栄させたのだ。 その次が、ヘロデの息子(ヘロデ・アンティパス王と、イエスの時代だ。

 イエス・キリストがエルサレムで刑死したのは、紀元後30年だ。このときのローマ皇帝は、もう、2代皇帝の、ティベリウスだ。それから、紀元37年から3代皇帝は、残虐で知られたカリギュラだ。 そして、54年から、これも残虐な5代皇帝ネロだ。

 こういう風に縦(たて)と横に、どんどん広げて、広い視野で、ものごとを見る(考える)ということが、なかなかみんな出来ない。 イスラエル国のヘロデ王と、ほとんど同じ時代に、ローマに初代皇帝アウグストゥス(オクタビアヌス)がいるのである。そしてその次の時代(60年後に)、イエスが殺された。

 カエサル(シーザー)のことを、初代ローマ皇帝だと、思い込んでいる日本がは多い。しかし、皇帝(エンペラー、インペラトーレ Imperatore )の 「インペラトーレ」とは、「王の階段=きざはし=」にいる 私たち臣下、兵士たちが、「 陛下=これがまさしく王のきざはし= から、その上にいるあなた様に申し上げます」という意味から、生まれた言葉で、中国語(日本語)でも、陛下=皇帝 と言うコトバが、こうして、生まれたのだ 。分かるかね?

 カエサル(シーザー)は、そうなる前にローマ議会(元老院。げんろういん Seneta セネタ)の議場で殺された。だから、“ ゼロ代皇帝”(皇帝の始まりの前の人)だ と、副島隆彦が決めた。だから、その跡継ぎだったが、オクタビアヌス(アウグストゥス)に敗れたアントニウスは、 差し詰め ”0.5代皇帝“ だろう。私のこの歴史判定は、十分に根拠のある。日本国内では、誰も反対できないだろう。

 2代ローマ皇帝 ティベリウス(AD14年から。初代オクタビアヌス=アウグストゥス が死んだので)の時代に、イスラエル(パレスチナ)に ローマから派遣されてきたプロウコンサル pro- consul 軍事総督と言うが、こいつがピラト(Pilate パイラット)だ。

 そのときの傀儡(かいらい)の王様が、へロデ・アンティパス(ヘロデ王の息子、後継ぎ。BC4からAD40年まで)だ。

 ローマ帝国はイスラエルを、一応、国として認めていた。だから、直轄地や植民地(コロニー)ではなくて、属国(=朝貢国。トリビュータリー・ステイト)だ。 当時のコトバでは、ローマの属州(プロバンキア provancia )だ。 本当は、ローマ帝国自身が大変なお金をかけて、エルサレムにきれいな神殿(至聖所。千年前のソロモン神殿)を再興してくれたのだ。

 そのとき、紀元前40年ぐらいで、ヘロデ王というユダヤ(イスラエル)の王がいた。ヘロデ王は、大王と言っていいくらい優れたイスラエルの王だった。 彼は、ローマ帝国のアウグストゥスと、ものすごく仲良くして、へこへこしながら、言うことを聞きながら、上手に取り入って、国土開発をやり、国の大繁栄を実現した。 それなのに、イエスたちは、一体、何が気に入らなかったのだろう?

私、副島隆彦が、大国(帝国)に へこへこする 安倍晋三が大嫌いなのと、同じことなのかな?

 イスラエル全土のあちこちに、大土木事業すなわち、灌漑 や、水を引く水道橋をずっと建設したり、要塞を作った。 このヘロデ王の立派な業績の跡が今もたくさん残っている。これらはイスラエルを本当に研究したい人たちのディープな観光名所だ。 

 ローマの属州(プロヴァンキア)に甘んじながら、国の中心に立派な神殿をつくった。あるいは作ってもらった。だから、当時の、世界中の 王宮、宮殿のことを、まわり市場や劇場も併せて、バジリカという。 ローマ式の大都市だ。バジリカ というコトバは、世界史を勉強する上で、重要なのだ。

 歴代中国王朝(中華帝国)からしたら、自分たちをグルリと取り巻く、チベットの王たちや、モンゴルや、ベトナムや、満州や、日本や、朝鮮の王たちに、自分たちの進んだ技術と文物で、作ってあげた、属国の首都は、それぞれが、バジリカなのだ。このことは、もう説明しない。

 BC4年にヘロデ王は死んでいる。このあと、ユダヤ国は、混乱しててゆく。

  ここで注意しておきます。このヘロデ王の時代=紀元ゼロ年 の前 =と、その丁度、千年前(紀元前1000年ごろ)のダビデ、ソロモン王の時代を、ごっちゃにしないで下さい。それから ずっと、こっちかわに2000年来た、紀元(後)1000年(西暦1000年)ごろの十字軍 のアラブ、イスラム世界への西洋白人たちの侵略戦争(=国際義勇軍運動)とも 混同しないで下さい。 それのさらに1000年後が、今の私たちの紀元後2000年ちょっと、の世界だ。

 この 3つの千年(1000年)を、じっくりと、自分の脳の中で、常に大きく区別をつけるようにしてください。そうすれば、あなたは、世界史(=人類史)というものが、が分かります。大事なことは、 大きく、大きく、理解することだ。 

 
 このヘロデ王の息子の、ヘロデ・アンティパス Herodes Antipas というのが、まさしくイエスがいたときの王だ。 このヘロデ・アンティパス王のことを、その父親のヘロデ王と、区別がつかない日本人のインテリがほとんだ。大学の文学部を出て、聖書やら、聖書小説を読むのが好き、という人たちでも、このことを考えない(さらにヘロデ・・・1世と2世は、この後の王で、また別の人)。

 文学部出の人たちは、政治問題である、権力者や支配者たちがやる、血みどろの権力闘争、殺し合いのことが分からない。手弱女(たおやめぶり)と言って、文学(=小説)好きは、男と女の愛の世界が大好きだ。文学というのは、男と女のちまちました細かい世界だ。 それ以上の大きな話としての、権力や体制、支配、王朝交代史(政治闘争、権力闘争)のことが分からない。それは大きな、知能(思考力、知恵)の足りなさ、および人間的な欠陥だ。

自分もまた父親と同じく、ローマ帝国の言いなりだった、ヘロデ・アンティパス王は、イエスを殺したくなかったと言われている。本当かどうか分からない。 イエスは、勝手に「自分こそがユダヤの王だ」と言ったとされている。そうだったかも。 

 これを、 I.N.R.I.  といいます。世界中のイエスの十字架の絵の上に、柱の上の方に I.N.R.I. と描かれているものが多い。イエスは、勝手に、「自分こそは、ユダヤの王だ。ハスモン家なんかに握られている今の王権は、贋せ物だ。ローマの子分だ 」とイエスは言ったらしい。

 「ヘロデ、おまえなんかローマの言いなりの、傀儡(かいらい。puppet パペット、操られ人形) じゃないか」と。「ローマで育てられて、連れて帰ってこられて王にされた、ユダヤ民族の裏切り者だ」と。それに対して、イエスは、「俺が、本物のユダヤ人の代表だ」と言った。民族解放闘争をした政治活動家だったらしい、イエスという人は。そういう人だったから、ローマ兵に殺された。 

I.N.R.I. は、“ Iesus Nazarenus ,Rex Iudaeorum “ 「イエズズ・ナザレヌス・レクス・インダエオルム」 で、「ナザレのイエス、ユダヤの王」という称号だ。

エルサレム旧市街の北側(キリスト教徒地区)に、「ヴィア・ドロローサ」 Via Dolorosa 哀しみの道 という道が、800メートル? ぐらいあって一番の観光名所になっている。その道を、イエス自身が重い十字架を背負わされて、躓(つまず)いてばたっと倒れ込んだりしながら、歩かされた道が観光スポットになっている。そして、到着した先の金持ちの家の庭で処刑された。

 私は、イエスが、自分で十字架を背負って、ずっと歩かされた、というのはあり得ないと判定する。当時、そんなことをするのは不可能だ。しかも、多くの人が居る街路でそれをやらされた、など、有るわけがない。 イエスの逮捕、処刑の命令を出したには、総督のピラト(パイラト)だろうが、彼は、ヤッフォ? か、カイザリヤという軍港のローマ軍の司令部に居たはずだ。 

 このビア・ドロローサ の出発点になっている、神殿の丘の北側に、壁にべたっとローマ軍の前線司令部の建物があったとして(今は、学校のようだ)、そこから、何のために、イエスを引き立てていったのか、分からない。

 イエスが処刑されたのが、今の聖墳墓教会(せうふんぼきょうかい Church of the holy Sepulchre チャーチ・オブ・ザ・ホウリー・セパルカー )だ、そこからイエスは、昇天した、ではなかった、復活(ふっかつ)した、ということになっている。この復活(レザレクション)のことを、日本人は、ほとんど、誰からも説明、解説して貰(もら)っていない。キリスト教にどっぷりつかった人しか、知らない。

 この教会の中心に、おそらく イエスの死骸(なきがら)を入れた棺桶を、土を掘っていれたお墓があって、教会内で、そこから10メートルぐらいのところが、ゴルゴダ(の丘)で、ここで十字架に架けられたのだ。

 十字架は、ローマ兵たちが粗い丸太を組んだだけの粗末なものだったろう。イエスの両方の脇腹の横隔膜の下から、槍で、ぐっと突き上げて、心臓を突き刺す。これは、江戸時代までの日本の刑場での処刑と全く同じだ。

 「復活」というコトバに関して、日本人はおかしな国民だ。何にも知らないのだ。何にも誰かえらも、教えて貰っていない。 トルストイの「復活」という、シベリア流刑(るけい)囚(しゅう)になった政治活動家たちを描いた、小説の題名になっている、ものだけは、名前だけ知っている。それだけだ、何が復活なのか、誰もさっぱり分からん。 一体、イエスの復活とは何なのか?

 ローマ兵の中でも、賤民(せんみん)というか、穢多・非人(えた・ひにん)の処刑人と死体片付け係の、ローマ兵の中でも一番下の、日本にも隠亡(おんぼう)と呼ばれた者に相当する者たちに、お金を払って、イエスの死体を十字架から降ろしてもらった。それが、お母様のマリアと妹のマリア、そして本当のイエスの奥様であるマクダラのマリア(マッダレーナ・マリア)だ。

 どうも処刑された場所の、すぐそばに穴を掘って貰って、粗末な棺(ひつぎ)を買って来て、イエスの死体を入れたらしい。これをイエスのお墓としたのだ。だからそこが聖墳墓教会の祭壇の場所だ。恐らくまだ土をかぶせていなかった。

 本当の史実(歴史の真実)は、アルマティア?のヨハネという、当時のエルサレムの有力者で、イエスの支持者だった男が、総督ピラトに掛け合って(大金のおカネを払ってだろう)、イエスの死体をもらい受けて、墓を作ったようだ。 その墓が、聖墳墓教会なのか、今の私には判定がつかない。 

 そして、処刑から4日目に、マクダラのマリアがひとりで、また見に来た。そしたら、棺の中から死体が消えていた、と。棺の中の腐った体をどうやって処理したのかは、今の感覚では分からないけれど、4日目に行ったら無かった。

 これがキリストの resurrection(レザーレクション、復活)だ。イエスの霊、霊魂は、復活してどうしたかというと、このあと、40 日間の間、自分の知っている人たちや、弟子たちのところにぼーぼーと現(あらわ)れたのだ。遠く、ガリラヤ湖のあたりで、30歳の頃、布教していたあたりの信者たちの処にも現れた、とされる。それがイエスの復活だ。

 死んで、4日目に死体が消えて、魂が、復活した。イエスは、霊魂となって、あたりをさ迷い、あちこちの知人のところに出没して、それから40日目に、ようやく天に昇天(ascension アセンション)した。あの世に行ってしまった。イエスが昇天したとされる昇天教会という小さな遺跡も、エルサレムの旧市街の外の東の方にある。ここがイエスの何なのか分からない。

 ここで妙なことを、私は言いますが、キリストが死んで復活して、それから43日目? に、本当に昇天した。これは、日本は仏教の国と言うけれども、日本の仏式の葬式の 「初七日と四十九日」の死者への弔い方は、まさしくエイスの死に方の、ここから来ている。副島隆彦が、そう見抜いた。この私の発見を、誰にも邪魔はさせない。ぼーぼーと、主に弟子たちの処(ところ)にあらわれた、ということを、みんな、わかりなさい。これをキリスト教というんだ。

日本にまで、その制度と感覚が伝わっている。それぐらい世界中に広がったのだ。そしてイエスが死んだ後、キリスト教が生まれたんですよ。

 このあとの原始キリスト教団を率いたのは、ヤコブという男だ。 ヤコブも殉教している。

 ローマ教会を、作った、創業者の、 ペテロとパウロ の2人は、決して、イエス・キリストの12人の使徒(アポストル)ではない。ペテロが使徒とされるが、別人だ。計算すると、時間と、時代が合わない。それなのに、ペテロがローマに向かって布教の旅に出た、とされる。 別人なのだ。ということは、ローマ教会(ヴァチカン)は、大嘘つきの集団だと言うことだ。 この問題は、別の機会に、私、副島隆彦は徹底的に追求する。

 イエスの弟子たち(使徒。アポストル)は、自分は殺されたくないと言って逃げた。女だったら、ローマ兵に殺されないだろうから、お母さんと奥さんのマリアが、ローマ兵の処刑人及び見張り番たちに、お金を握らせて、死体をおろしてくださいと頼んだ、ことになっている。 このことを、ピエタ pieta  敬信、敬虔 、パイアティ( ピエティ piety)、真剣に敬う気持ち という。

 自分の死を恐れないで、イエスの死体をおろしに行って、抱きかかえる行為のことをピエテートという。 ピエタ像という絵や像 が世界中にあるけれど、一番有名なのはローマのバチカンにあるミケランジェロが24歳のときにつくったピエタ像だ(丁度、西暦1500年に完成)。

ローマのサン・ピエトロ大聖堂(セイント・ピーターズ・カシードラル)に入って、すぐ右にある

 このピエタ像は、イエスの亡骸を抱きかかえている女が、あまりにも若過ぎて、とてもお母さんに見えないとか、わあわあ言われたけど、イエスを抱きかかえたのは、奥様のマクダラのマリアなのだと、ミケランジェロは自覚的に知っていた。しかし、そのことは、当時、口で言えない。

 もっと言うと、ローマ・カトリック教会の、くそ坊主(政治警察、宗教警察でもある)の極悪人の僧侶たちに、自分が狙われるからだ。イエスを抱いているのは、母親の、聖母マリアでなければいけないことになっているから。イエスに奥さんがいたら、ローマ教会の くそ坊主、悪魔の坊主( 司教、大司教、教皇 たち)は、「イエスはただの男だった」ということになると、自分たちの教義(ドクトリン)大が崩壊して、自分たちが積み上げた、巨大なあれこれの大ウソの数々が、バレてしまうからだ。 

 みんな、私、副島隆彦が 書いた、『隠された ヨーロッパ 血の秘密』(ベストセラーズ刊、2012年)を、今から真剣に読みなさい。大きな真実をたくさん暴き立てています。

 イエスとマクダラのマリアには、サラという女の子がいた。サラは母親たちと、伝説によると、イエスが殺された後、船で地中海を渡って、フランスのアルル地方にたどり着き、そこからマクダラのマリアの血筋であるサラの血が、フランス王家の、メロヴィング朝、カロリング朝 に伝わったという説が今もある。それが、今でも極めて重要な小説である『ダヴインチ・コード(ダヴィンチの暗号)』だ。 世界規模での大きな話だ。

 ダ・ヴィンチの、ミラノに今もある、あの「最後の晩餐」の絵を、見た、当時の人たちは、「あ、女がいる」 「あれは、女だ」 " Oh, It's woman . " 「イエスの右側にいるのは、ヨハネじゃないぞ。女だ。マグダラのマリアだ」と、 このあと全ヨーロッパに、大きな噂、となって、ドカーンと広がった。ザワザワと広がった。

 このヨーロッパ人たちへの真実の噂の怒濤の広がりを、 ローマ・カトリック教会は、阻止して食い止めることは出来なかった。 だが、「主イエスの横に女がいる。奥様のマッダレーナ・マリアだ」と、公然と口にしたら、ローマ教会の岡っ引き、思想警察(今の公安警察、刑事警察)たちに、捕まって、拷問ににかけられ、ひどい場合は殺される。

 だから、2017年の今からでも、「フォレンツエのルネサンス(リナシメント)運動から、500年間、遅れた」今、でもいいいから、私たちの、極東(東アジア)の一国の日本で、「ダヴィンチ・コード(暗号)」の暗号とは、何だったのか。真実は、何で有ったのかを、ザワザワと、日本人は、噂を広げなければいけない。 この「副島隆彦の学問道場」から、全国に広げなければいけない。

なぜなら、2003年に、この炎が、欧米白人の本物のリベラル派の若者、知識人たちに、沸き起こったのに、そのあと、また鎮火して、この炎の広がりが、パタと止まってしまったからだ。もう一回、この炎を起こすぞ。

 ダ・ヴィンチのコード「暗号」とは、イエスには、弟子であり奥様のマグダラのマリアがいた、という

巨大な事実 を、 ダヴィンチが「最後の晩餐」(1495 制作)で描いて、公表したと言う事実だ。

こら、日本土人ども、土人の知識人ども !  私、副島隆彦が、何を、必死になって、この30年間、金切り声を上げながら、日本で、たった一人で、あれこれの真実を叫んできたのかを、分かれ。分かってくれ。

 レオナルド・ダヴィンチ(1452−1519)は、このあと、大名士(だいめいし)となって、故郷のフィレンツエに、栄誉で迎えられ、帰って来た。

 ダヴィンチが、なぜ、ミケルアンジェロと並ぶ、当時の 天才であり、ヨーロッパ最級大の 知識人の一人であり、たとえば、ガリレオ・ガリレイと同じぐらいの 近代学問(サイエンス、スシャンス、スキエンザ)の人であるのか、皆、そろそろ分かりなさい。 イエスという 自分たちの偉大な人物(ただの普通の人間だ・神ではない。神にしたから神になったのだ)の真実を描いたからだ。 

 ダ・ヴィンチのことを、日本人は、ルネサンス期の万能人間(ホモ・ウニベルシア)だとか、大作「モナリザ」(1503年作)のことばかりで、褒め称える。だが、本当は、小説「ダヴィンチ・コード」

ダン・ブラウン著、2003年刊。日本語版、角川書店、2004年刊。映画化 2006年)

で、満天下に(世界中に)暴かれた、巨大な、そしてたった一つの大重要な真実である、「イエスのは、マグダラのマリアという 奥さんがいた」という真実を描いたことの衝撃なのだ。

バカみたいに、「モナリザ」のことばっかり話しているんじゃない! それ自体が、欺(だま)しであり、騙(だま)しであり、瞞(だま)しなのだ。人類を瞞し続けて、自分たちの奴隷にしたままに、したいのだ、あいつらは。

 真実が、当時の全ヨーロッパに広がった。それが、ヨーロッパの、いや、人類の近代(モダーン)の始まりだ。ローマ教会の巨大な偽善(ヒポクリシー)と虚偽(フォールス)に対する、人類の戦いが、このとき(1495年)にミラノで始まったのだ。

私、副島隆彦は、2004年に、ダ・ヴィンチ・コードを、知人の英米人たちが、深刻な顔をして読んでいることに気づいた。この本は、世界中で2000万部以上売れた。日本では、角川文庫の上下巻で、1000万部売れたという。ああ、それなのに、それなのに、だ。この時、日本人の知識人で、上記の大きな真実を、書いた、語った人はいない。ひとりもいない。 私、副島隆彦は、このことを奇っ怪なことだと思う。 

 私の友人の彼ら英米人でも、そのときは、、私に、あそこに書かれた巨大な真実を教えてくれなかった。あまり頭のいい英米人は、日本(東京)に流れ着いてきていなかったからだ。 私が、この巨大な真実に、気づいたのは2年後だ。さらに2年かかったのだ。私は,はっと気づいて、そのとき、少し震えたことを覚えている。しかし、そのあとは、まだ三〇代の私は、自分の生活費をかせぐ生活に、埋没していった。誰も、日本人としては、初めて気づいた大きな真実に耳を傾けてくれなかった。  " Oh, It's woman . " 「あ、女だ。イエスの横にいるのは、女だ」という 真実に。

  ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(1495年)が、ミラノの教会に飾られて、真実の火が付いた。この22年後の、1517年の、北ドイツ(ヴィッテンブルグ)で、マルチン・ルターの反乱(プロテスタント運動)が起きて、つながったのだ。

 話を元に戻す。紀元前538年に、ユダヤ人の指導者たちは、バビロン捕囚から帰ってきて、壊された神殿をまた作り直した。これから500年後ぐらいにイエスの時代が来た。イエスも殺されて(紀元30年)、その36年あとの、紀元66年に、「ユダヤ戦争」が起きます。これは、激しい戦争で、ユダヤ人がローマ軍に対して立ち向かった。民族解放戦争だ。ものすごく激しかったらしい。

 イスラエル(パレスチナ)の東部に死海(The Dead Sea)という塩分が強い大きな湖がある。そばに、映画にもなった「マサダの砦」の戦いというのがあった(陥落、AD74年)。そのマサダの砦の戦いで、ユダヤ人970人が最後の抵抗をして全滅した。

 このユダヤ独立戦争で捕虜になったひとりのインテリのユダヤ人が、降参して、この優れたユダヤ人のフラウィウス・ヨセフスという人が、『ユダヤ戦記』を書いた。ローマに呼ばれて、ラテン語あるいは、ギリシア語で書いた。これが今も残っている。超一級の歴史資料だ。キリストが死んでから 40年がたっている。

 神殿の丘(至聖所、ソロモン神殿 )は、陥落して丸焼けになり、ローマ軍によって徹底的に破壊された。この戦争が終わった、紀元70年からを、大離散(だいりさん)という。いや、このあとの紀元135年を大離散とするかで、私は、まだ決めかねている。

 ところが、紀元後132年に、もう一回、ユダヤ人たちは、第2次ユダヤ戦争を起こしている。第1次の戦いに敗れて、ユダヤ人たちは、ローマ軍(皇帝ハドリアヌス)に、神殿を完全に破壊されて(AD70年)から、さらに、55年後に再び蜂起したのだ。これは、指導者の名から、バル・コクバ Bar Kochoba

の反乱とも呼ばれる。 ここには、当時のユダヤ人たちから深く尊敬されていた、ラビの アキバ Akibaの一族も加わっていて、彼らは、AD135年までに戦って全員、死んだ。

 紀元後70年あるいは、この135年からを「ディアスポラ」 Diaspora 「 大離散」という。このときから、世界中にユダヤ人が流れ出していった、というのが歴史上の事実だ。もうユダヤ人は、ほとんど、エルサレム周辺から消えたとされる。

 パレスチナ、その中心の、エルサレムにはユダヤ人はいないことになってしまった。ローマ軍に、皆殺しにされるから。それでもおそらく、5万人か10万人はずっとひっそりと現地にとどまっていたはずなのだ。人間は、どんな困難な中でも、ずっと生きている。それがエルサレムに残ったユダヤ人たちだ。紀元後135年に、神殿丘はそれこそ、全部破壊されていたようだ。

 その後は、そこに誰が住みついたか、というと、パレスチナ人( Philistine フィリスタイン)がいた。ずっとパレスチナ人が原住民でいたのだ。彼らはアラブ人の一種だ。 

 考えてみれば、それよりももっと古い、大離散よりも、1100年まえの、紀元前1250年 (もうこの年号を覚えましたか?)に、モーセがエジプトから、カナーンの地へ、約束の地(Promised Land プロミスド・ランド )とも言い、ヤハウェ( Yahwae 、Jehovah)の神に約束してもらった、豊かな恵みの緑あふれる土地に、今から私たちは、行くんだと言って出発して、着いたところがパレスチナだ。

 ところが、ここには、原住民がもともとそこにいた。紀元前2200年ぐらいからの住民である、アッカド人という人たちも来ていた。彼らを、北に追い払ったらしい。アッカド人は、「世界の中心」のバビロンの都にいたバビロニア人のことで、彼らが植民者として来ていたのだろう。このアッカド人(バビロニア人)たちを追い払い、それでも、パレスチナ人は、土着の民として、ここにずっと、原住民として住んでいて、百姓(農業)をやっている。それが、そのまま、今のパレスチナ人だ。

それが、旧約聖書に出てくる 「ペリシテ人」(フィリスタイン Philistines ) でそれと、、新約聖書の中によく出てくる 「パリサイ人」(Pharisee 、ファラシー )も 同じなのだ。

そして、そのまま、 だから、今のパレスチナ ( Palestein パレスタイン)の パレスチナ人 (   Palestinians パレスティニアンズ)だ。だから、パレスティニア人 = ペリシテ人=パリサイ人(ファラシー) なのだ。  この大きくて簡単な真実を知ってしまえば、今の「イスラエル、パレスチナ問題」は、何なのかが、歴史の厚みを伴って分るのだ。

 この他に、新約聖書には、もう一つ神官の一族というか、サドカイ人( Sadducee サデューシー)という人たちが出てくる。このサドカイ人とパイサイ人(ペリシテ人)がイエスに石を投げて、こいつを処刑をしろ、と騒いだということに、聖書ではなっている。

 重要なことだから再度、書く。このペリシテ人とは何か。だから、そのまま今のパレスチナ人だ。ペリシテ人(フィリスタイン Philistine )はそのまま =「パリサイ人」(Pharisee ファラシー)で、パレスチナ人 だ。 この考え(学説)は、テルアビブ大学のイスラエル人(ユダヤ人)歴史学者の ・・・・・が10年ぐらい前に、発表して世界を驚かせた学説だ。

(あとで、この新聞記事を探して載せます)

 この学者が、勇気を持って、当たり前の簡潔な真実を、満天下に、明らかにしてしまった。簡単に真実をバラしてしまった。「そう言えば、そうなんだよなー」なのである。 大きな真実は、いつも、太陽のように私たちの前で輝いているものなのだ。 この新聞記事を読んで、日本では、おそらく、私、副島隆彦だけが、驚愕した。そして、この大きな真実を知った。

 パレスチナ人は、モーセの子分たちがパレスチナに到着する前から、その前からずっと、この地の原住民としてずっとここに居た。今も居る。だからここをパレスチナという。同時にイスラエルでもある(笑い)。 そして、パレスティナ人は、紀元700年代からイスラム教徒化した。

 紀元622年にイスラム教が成立した(ヘジュラ元年)。ムハンマドという男が、今のサウジアラビアの

ヒジャーズ地方に出てきた。彼はそんなに戦争が強かったわけではないのだけれど、預言者、神の言葉を人々に繋(つな)ぐ人、メッセンジャー messenger として、徐々に認められた。まずアラビヤ人(その中心をベドウィン=砂漠の民=と考えていいだろう)たちの間で、このムハンマドの教えが、大爆発現象として、、もの凄い勢いで、そこらじゅう一帯にわーっと広がった。ムハンマドが、メッカからメジナに逃げたときが、聖遷=ヒジュラ 元年 といい、この西暦622年に、イスラム教が成立した。そのように決められている。この年号も、一度、紙に書いて覚えなさい。

それで、ムハンマドは、その10年後のAD632年には、死んで、だから、エルサレムの、後に作られた岩のドームから昇天した、と。

 そして、イスラム教は、何と、それからたったの100年もたたないうちに、わーっとものすごい勢いで中東(ミドル・イースト)どころか、中央アジア一帯、北アフリカのほう、そして、インド、インドネシアにまで広がっていった(900年代にはインドの、仏教の学問の中心地のナーランダ学院を破壊した)。

 このイスラム教の大爆発現象は今も続いていると言われている。他の世界的な大宗教は、あまり人気が無くなって、衰退しているのに、イスラム教はまだ増殖、拡大中らしい。その秘密は、私にもまだ、分からない。

 何でムハンマドの教えであるイスラム思想(教)が、こんなに今も広がるか、を、副島隆彦は真剣に研究しなければいけないと思っています。その際は、ローマ・キリスト教会の思想で、1700年間ぐらい(325年のニケーア信条、宗教会議で、三位一体という愚劣な教義を作った時から。イエスをただの男だ、とした、アリウス派を追放したとき )から、1700年だ。

ローマン・カトリックの、たかが、1300年の支配( 325年の ニケーア会議。ニケーア信条から)で、すっかり汚れきって、脳(頭、思考力)汚染された欧米白人たち(ヨーロッパ、アメリカの白人知識人)には、私は、頼らないようにしよう。欧米白人のイスラム研究学者たちは、何かわけのわからないことを言って、大きな真実を 教えない。本に書いていない。だから私は、直接、アラビア世界に行き、何でそんなにイスラム教がすごいのかを、アラブ人たちから、一所懸命にこれから勉強しなければいけない。

 ムハンマド Muhammad 、 Mohammed ( 西暦570年−632年) は、ヘジュラ元年から10年後の632年に死んでいる。 どこから昇天して天に上ったかというと、だから、岩のドームからということになっている。だけどムハンマドはエルサレムに来て、ここで死んだのか、というと、そんなことはない。

 だけどイスラム教徒(ムスリム)の当時の親分たち(ムハンマドの後継者をカリフという) が、ここからムハンマドは昇天した、だから、ここがメッカ、ネジナに次ぐ3番目の自分たちの聖地だ、ということに決めた。これじゃ、ユダヤ人たちが怒るはずだ。私たちの神聖なる至聖所 の上に、あいつらは、自分たちの勝手な理屈で、モスクを建てやがって、ということになる。

イスラム教という宗教は、キリスト教のまねだ。ものすごく真似してしまった。イエスよりも600年後に出来たのですから、当然だ。

 同時にユダヤ教がもっと古くからあるわけだから。ユダヤ教の一番最大の聖地が、このエルサレムの至聖所、すなわちKing Solomon's Templeだとわかっていた。だから、そこを自分たちの聖地にもしようとして、ムハンマドの娘婿の正統カリフ、3代目カリフ、アリー(スンニー派に対抗する、シーア派の創業者)が、692年にイスラム教の寺院をつくったらしいのが今の「岩のドーム」だ。

 イスラム教徒にも言い分はある。パレスチナ人が、ずっと居たところに、エジプトから、やってきて、土地を取り上げて、自分たちの国を作って、それから3200年もたった。

 それから、いろいろなことがあって、この3200年の間には、神殿の丘(至聖所とソロモン王の宮殿がある)も、何度か壊されて、何も残らないぐらい破壊されて、そのあと、数百年も、荒れ果てて、誰も寄り付かず、放置されていた時代もかなりある。それを、何で、今頃になって、おまえらユダヤ人に渡さなければいけないんだ、という争いだ。

 さらに時代が下がって、歴史上の大事件がある。 中東アラブ世界では、10世紀には、イスラム教がすでにものすごく強くなっていたのだけれども。ところが、何と、それよりも、もっと西洋白人たちの方が元気になった時代が来た。 元気な方が、攻め込んでゆく。これは歴史の法則だ。

 それが、紀元後1096年から始まった、十字軍(クルセイダーズ)運動だ。西ヨーロッパ諸国の王子様たちの中の、暴れ者で 元気なやつらが、「我こそは英雄にならん」と、猛り狂うような騎士道(きしどう、シュバリエ)精神で、「自分たちは、キリスト教の聖地であるエルサレムを、イスラム教徒から奪還するぞ 」 と動き出した。これは、今で言う国際的な軍事活動だ。北朝鮮の核保有を「危ないじゃないか。許さん」と言って、世界各国が協調して、来年2018年に、北朝鮮に軍事行動の強制執行の行動を取るというのと、よく似ている。

 十字軍は、中東アラブ世界への、西欧からの侵略戦争でもあった。

西ヨーロッパ人の王様やその息子たちが、何千人も兵隊を引き連れて、エルサレムに船で向かい上陸してさらに進撃した。そして、3年後の1099年には、エルサレムを制圧して占拠した。

 そして、西欧白人たちの「エルサレム王国」(ボールドウィン国王)という王国をエルサレムに作った。ところが、このエルサレム王国は、それから88年後の、1187年に、全イスラム軍を率いた、すさまじく統率力のある英雄、サラディーン(サラーフ・アッディーン)に敗北して、エルサレムは陥落した。

 このあとは、もう 西洋白人は、2度と、軍事力でエルサレムには戻ってこなかった。十字軍は、海岸線の 港にまで撤退した。強固な要塞をたくさん築いた。その跡が観光地になっている。それから、100年後の、1291年に、十字軍は、「Akko (n)( Acre 、アッコン(港))の陥落」で惨めに、アラブ世界から撤退していった。十字軍(クルセーダース)運動とは、、300年間に渡る、西洋白人による、アラブ世界への干渉戦争だった。

 十字軍が強かったエルサレム王国の時代には、エルサレムは主イエス・キリストが死んだ、聖なる場所だから、イエスが生まれた「聖墳墓教会」を中心につくった。そして、その隣りにある、立派な「ダビデの砦」というところを、西洋白人たちは、自分たちの宮殿にしていたのではないか。

 エルサレムのまわりには、敵意に満ちたイスラム教徒がいっぱいいた。1200年代からは、遠征軍で来ている西洋軍の方がぼろ負けで、ローマ教皇の命令とお墨付きで動いているだけだから、自分たちのやっていることに、あまり正義感がない。略奪戦争でもあったのだ。だから西洋のキリスト教の国王たちが負けた。

 すぐに、テンプル騎士団というのが出来た。彼らは、第1次十字軍の時から従軍して来て、1119年に、ソロモン王の神殿(今のアルアクサ・モスク)で、テンプル騎士団 The Knights Templers (ザ・ナイト・テンプラース)を 結成して、ここを自分たちの兵舎にした。彼らが、神殿の丘とエルサレムの都市を守る義務を負った。彼らが十字軍の主力だ。

 だが、このテンプル騎士団は、第4回十字軍戦争、1291年の「アッコンの陥落」(今のアッコ港)で、イスラム軍に大敗する。負けてしまう。そしてヨーロッパにぞろぞろ帰って行った。

 テンプル騎士団の騎士、というのは従者(じゅうしゃ)の階級で、貴族や高級軍人ではありません。ずっと下の従者階級だ。日本のサムライ階級だ。この人たちが荷物運びから、病院船(マルタ騎士団や聖ヨハネ騎士団も )から、巡礼者たちの保護をするということでローマ法王から特別に許されていた。しかし、本当は、そのための軍資金を確保することから始まって、 金貸し業、や為替業をやって、海運業で、自分たちの船もたくさん持っていた。

 これが、中世のヨーロッパのお金のネットワークをつくった。これが、のちの、フリーメイソン(石工=いしく=組合)の秘密組織 の雛形(ひながた)、原型(アーキタイプ)になった、と言われている。テンプル騎士団は、ヨーロッパ中の王様たちにお金を貸して、商人活動、両替商(初期の銀行業)から、武器弾薬の輸送、販売までやった。

 このあと、1307年、フランス国王フイリップ4世が、自分の借金の多さに耐えかねて、怒り心頭に発して、ついにテンプル騎士団の幹部たちを、突如、全員逮捕して、拷問にかけ、火あぶりの刑にした。これが「13日の金曜日」だ。他のヨーロッパの王たちも、これに習った。ここから地下に潜ったテンプル騎士団の残党が作ったものが秘密結社という考え方になって生まれたのだ。

 1240年ぐらいに、第5次十字軍を、「行け、行け」と教皇にせっつかれて実行した、神聖ローマ帝国の皇帝(ドイツ王でもある)の フリードリヒ2世(念のため。この王は、500年後の、1770年ぐらいの 隆盛するプロイセン国の国王の フリードリヒ大王とは別人)は、もの凄く、優秀な人物で、彼は、何と、

イスラム教徒と仲良くして、平和的に、エルサレムに入城している。 殺し愛の戦争なんかしていない。

このフリードリヒ2世は、すばらしい王で、彼のことを、思想家ニーチェが褒(ほ)めている。彼は、

ローマ教会(ヴァチカン)の腐敗と堕落を、 よく知っていて、イスラム教の優れた点にに、深い理解があったらしい。この王のことは、これ以上はここは書かない。

 1300年ぐらいからは、イスラム教徒の世界では、トルコのオスマン家が強大になる。

モンゴル帝国、これが、実は、世界史上の唯一の世界帝国だった。 このモンゴル帝国の力が衰えだしたあとだ。そして、1453年に、東ローマ帝国(ビザンツイン帝国)の首都、コンスタンチノープルを陥落させた。

 この頃から、イスラム世界全部をオスマン・トルコ帝国(その皇帝は、スルタンを名乗った。カリフは、ムハンマド家の血筋の者が名乗る) が支配した。 このとき、

 パレスチナ(イスラエル)は、紀元300年代からが、西ローマ軍に替わって、東ローマ(ビザンティンン帝国)の軍隊が来て、そのあと、ウマイヤ朝とアッバース朝の イスラム帝国の支配下にあった。それが、1516年ぐらいからは、オスマン・トルコに支配されるようになった。

 だから、このあと、例の、ずっと話に出てきている、岩のドームが、1522年に、オスマン・トルコのスレイマン大帝(スルタン)によって、壁が美しいトルコ式の青いタイル張りになって、金ピカの丸屋根になった。そして現在に至る。だから、丁度この400年間は、今のまま「神殿の丘」は、イスラム勢力の支配下で続いてきてる。だから、これを、ユダヤ人たちが、俺たちに返せ、と言っても受け入れない。それで、今、アラブ人たちとイスラム教国が、「米の トランプのエルサレム首都 、承認は、許せない」と抗議している。

 しかし、前述した、今から120年前の、1898 年からの(本当は、もっと早く、1800年ぐらいから始まっていた)、ヨーロッパの、「エルサレムに還(かえ)ろう。我らがイスラエル国を建国しよう」運動が盛んになって、このシオニズム 運動によって、エルサレムも、ユダヤ教徒によって、奪還される、というトレンド(趨勢、勢い)が、続いている。 だが、イスラム教徒 18億人の力も、負けるわけがない。この闘いは、がっぷり四つだ。

 オスマン・トルコというのは、紀元1000年ぐらいから出てきた一族だけど、1918年までのこの、1000年間、アラブ・イスラム教世界をずっと支配してきた。日本人は、オスマン・トルコ帝国の話を、あまり知らない。 形上は、エジプトであっても、この1000年間、ずっと、実はオスマン・トルコ帝国の家来で属国だ。しかし、英国が、“大英帝国”、になってから、1750年ぐらいから、じわじわと、エジプトを自分の属国にしていった。イギリスとフランスが、オスマン・トルコを「ロシアの攻撃から守ってあげよう、支援しよう」という感じで、19世紀(1800年代)には徐々に屈服させた。

 オスマン・トルコ帝国は、最強の時には、東ヨーロッパまで攻め込み、1530年と1683年の2回、ヨーロッパの本当の中心である、ヨーロッパ全体の帝国である神聖ローマ帝国の首都であったウィーンを包囲することまでした。オスマン・トルコがウイーンを陥落寸前まで追い詰めた。 だけど勝てなかった。だが、このあと、ハンガリーやポーランド、ルーマニア辺(あた)りはずっと、オスマン・トルコに300年ぐらい支配されている。

 ハンガリーの南側の地方に、ドラキュラ伯爵という、強烈な将軍(ワラキア公国。小さな国王)がいいた。もとはオスマン・トルコの家来だった将軍で、「俺はキリスト教徒だ」と言い出して、ヨーロッパ人側についてイスラム教徒と戦った。イスラム軍の將兵の死体を串刺しにして、お城の周りにずらっと並べたりして残酷な戦争をした男だ。

 この男がドラキュラ伯爵になった。トランシルヴァニアというハンガリーの南側で、今はルーマニアのはずだ。ここらは、東ヨーロッパだ。この辺の国民は、みんな「南スラブ人」といって、旧ユーゴスラビアのセルビア、ボスニア、スロバキア、クロアチア、メラニア夫人の出身のスロベニアもそうです。あの辺はみんな南スラブ人だ。それに対して、北スラブ人が、ポーランド人とロシア人、バルト3国もそうだ。しかしここらは、ドイツ人の血も混じっている。

 1522年から、今の岩のドームがきれいに作られて、また500年がたった。これはイスラム教徒のモスクだ。それを、俺たちユダヤ人が、世界一の帝国をつくったアメリカで、一番力のある人間たちだ、と言って、3000年前の King David と King Solomonの時代の至聖所(しせいじょ)に戻してやる、と言い、神殿の丘を取り戻すという運動を今やっているということだ。

 それは前述した、強硬なユダヤ人たちによる、密かなる、「第3神殿 建設 運動」だ。

第1神殿は、イスラエル国の歴史教科書では、「第1神殿時代」 は、 「ダビデ王が建てたBC1006年から、バビロン捕囚の時に起きた神殿崩壊 のBC586年まで」だ。 そして、「第2神殿時代」 は、「このバビロン捕囚のBC586年から、ユダヤ戦争で、ローマ軍と戦って、神殿が完全に破壊された AD131年まで 」とする。

 だから、今、強硬派のユダヤ人たちは、この「第3神殿 建設 運動」を 密かに始めているのである。

この知識、情報は、日本では、私、副島隆彦から始まって、これから、チラチラと、多くの人が書き始めるだろう。なぜ、私が、こんなに気合いを入れて、いまこそ歴史の勉強をして、大きく、ものごとを理解すべきだ、と躍起(やっき)になっているのか、が、これで分かってくれるだろう。頭のいい人たちから順番に。私の本をじっくり読まないような、バカは、放(ほう)っておくしかない。

 だからイスラエル人(ユダヤ人)とパレスチナ人の両者に、言い分がそれぞれある。歴史に学べば、このことが分かる。この複雑骨折を起こしている、複雑な過去の大きな流れを、分かりましたか。言っておきますが、私が、ここまで説明したことを、なんとか大きく分かるのは、大変なことですよよ。 それぞれの人の、知能に合わせて、分かって貰(もら)うしかない。分かったふり、知ったかぶりは、ナシだ。 

  大きな歴史の理解がないから、日本に優れた知識人層が成立しないのだ。いつまでたっても「わからない、区別がつかない、歴史年表や、地図帳を開くのは、いい年になったら、もう面倒(めんどう)だ」と言われたら、私は不愉快なだけだ。

 私は自力で、たった一人で、こういうことをずっと、50年間、新聞記事や雑誌記事と本を読み漁(あさ)って、それらを、頭の中に、大きく整理して、コツコツとまとめてきた人間だ。その際には、自分の厳しい判断力で、「これはウソだ。こう書いている人たちは、どうも、怪しい。大きな勢力に操(あやつ)られている。あるいは、日本国民を洗脳(マインド・コントロールあるいは、ブレイン・ウオッシング)しようとして、虚偽の知識、情報を、故意に(ワザと)流す人たちだ」と、グサリと見抜く。 そして、さらに大きな真実を抉(えぐ)り出す。表(おもて)に出す。

 だから副島隆彦が、仕方なく、日本に出現した理由がここにある。私は、大きな大きな全体像で、物事を見る。だから、こうして大きな全体像で人類の歴史を語っている。 「そんなこと知らなくても自分の生活に関係ないよ 」 と言う人たちを私は、じっと辛抱して、少しずつ、少しずつ、我慢に我慢を重ねて、説得してきた。それでも、時々は、我慢できなくなって、「おまえら、日本土人をいつまでもやっていろ」と怒鳴り出す。これでまた、嫌(きら)われる。

 トランプがエルサレムをイスラエル国の首都と、アメリカは認める、と宣言した(2017年12月6日)。そして、アメリカ大使館を、これから、ちょろちょろと西エルサレム(こっちはキレイな都市だ)に移す、からと言ったぐらいで、どうにもならないのだ。世界はこのままだ。実情は、イスラエル全土(すなわちパレスチナ)にいるパレスチナ人たちを消し去ることは出来ない。それこそ、ナチス・ドイツがやったことを、自分たちユダヤ人がやることになる。

 ただし、ナチス・ドイツが、強制収容所で、餓死させたのは、合計15万人だ(他のヨーロッパ諸国の分を合わせても、20万人ぐらいだ)。このうちユダヤ人は、半分の7万人だ。この数字には文献の証拠がある。私たちのこの学問道場の過去の記録に、はっきりと在る。 私は、もう一度、それらを引っ張り出してもいい。

「ナチスの 収容所で、600万人が、死んだ、虐殺された」とイスラエル政府が、どんどん、数を増やして、ついに、600万人までしてしまった。 バカじゃないか。そんなに戦前、西ヨーロッパにユダヤ人はいない。私は、彼ら、ユダヤ人の逆(ぎゃく)人種差別主義者たちとの、闘いも続ける。 大きな真実、以外に、私が、恐れるものは何もない。大ウソを付き続ける者たちとの闘いは、ずっと続く。私、副島隆彦を「副島よ、それはお前の間違いだ」と、説得できる者が居たら、出てきて、私を説得しなさい。私はその人の話をじっと聞く。

 (この後、本文冒頭に続く)
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