19. 新共産主義クラブ[4320] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2017年8月17日 18:02:56 : og3HXipPHI : 11PcKeFwUMU[1]
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と書かれていた、東條英機氏が陸軍大臣の時に示達した『戦陣訓』の方が間違っている。
東條英機氏が自殺に失敗し、東條英機氏が裁判で戦争のいきさつについて証言する機会ができたことは、良かったことだと思う。
連合国にとっては、日本側の戦争責任を明らかにするために、東條英機氏を生きたまま戦犯として捕らえて裁判にかける必要があった。
しかし、東京裁判の期間中に、東西冷戦が進んでいった。
西側諸国の首脳の中には、日本国民を反ソビエト連邦でまとめていくためには、天皇を最大限に活用する必要があると考える者が多かったのだろう。
東京裁判の判事の多数派が、天皇の戦争責任を回避するように、法定での尋問や根回しで、東條英機氏の証言を誘導していた可能性がある。
東條英機氏らA級戦犯が刑死したことにより、昭和天皇の戦争への関与が闇に葬られた。
岸信介氏のように、戦争に深く関与しながらも、戦中に昭和天皇の間近で仕事をしていなかった者は、死刑を免れた。
東條英機氏は、刑による死の直前に、巣鴨拘置所の教誨師であった花山信勝氏に、
「死ぬ時期は、いい時期だと思います。」
「絞首刑で死ぬことです。『自殺』でもしたら意味をなさんです。」
と述べていたという。
東條英機氏は、裁判で戦争が自衛のための戦争であると抗弁し、かつ、昭和天皇が戦争に関与していないと証言したことにより、戦争の正当性を述べる機会を与えられ、さらに昭和天皇に対する戦争犯罪の容疑を払拭させることができたという達成感があったのだろう。
A級戦犯を刑死させたことによって、昭和天皇の戦争責任が闇に葬られることになり、それは西側の戦勝国の利益にも適うものであった。
東條英機氏は、いわば、本人の望み通りに、西側の戦勝国によって口封じをされたのである。
私は、戦争のいきさつの全てが明らかになるまで、東條英機氏から証言を引き出し、東條英機氏の死刑を執行しない方が良かったと思う。
東條英機氏は、本人が望まなかった、終身刑に処すべきだった。
■ 仙頭 泰『ただ一人の目撃者』
処刑執行が本人に知らされた十二月二十二日、花山信勝師は最期の面談をした。
東條英機は、午後四時から四時五十分までであった。 東條英機は、遺品と遺書、手帳、入れ歯、眼鏡等をあずけ、最後の様子を妻にお伝え願いたい、と言った。そして最後の心境を次のように語っている。
「死ぬ時期は、いい時期だと思います。
一には、国民に対する謝罪。
二には、日本の再建の礎石「平和」の捨て石となり得るということ。
三には、陛下に累を及ぼさず、安心して死ねること。
四には、絞首刑で死ぬことです。「自殺」でもしたら意味をなさんです。
五には、私の体は子供の時から病弱であったが、少し生き過ぎました。歯も二、三本しかないし、目も見えない。頭も悪くなった。これでは長生きもできません。ちょうどよい時期です。
六には、金銭上に関する不名誉のこともなくて、安心して死ねます。
七には、病苦より一瞬間の死はよほど幸福です。「終身」にでもなったら、永久に煩悩につきまとわれて、たまったものではない。 一番大事なことは「弥陀の浄土」に往生させてくださって、喜んで死んでいけることです。今こそ死期だと思ったのです。昨夜「宣告」のとき、心が朗らかになりました。「大無量壽経」の中の法蔵菩薩が決定して「無上正覚」を得るといわれる、あのような気持ちになりました。」
と淡々と語ったという。
http://hikarinoshingun.giri.jp/03-aikoku/0301akk-sendou-ronbun/06tadahitori-no-mokugeki.htm
■ 鏑木清一(著)『日本政治家一00選』(秋田書店,1972年)
《東条英機(1884−1948)》 pp.147-149.
敗戦後、進駐してきたマッカーサー元帥の最初の命令は、「トウジョウ将軍を逮捕して監禁せよ」という厳しいものであった。
「日本における天皇神聖という概念は、軍部によって軍自体の目的のためにつくりあげた神話である。この神話を維持するのは、軍の不敗という伝説である。日本陸海軍が全勝を続けることができてのみ、天皇は神でいられる。したがって、日本の軍事力の完全な崩壊は、天皇神聖の概念の崩壊となりうる。要するに、牙を抜かれた狼は、もはや狼ではなくなる」
と、マッカーサー元帥は、敗北日本について見解を述べ、まず東条を戦争犯罪人の第一号にあげて、その逮捕を急がせた。
東条は、戦争犯罪について、すでに認識と覚悟をもっていた。
「こと茲にいたりたる道義上の責任は、死をもってお詫び申上ぐる一点だけ、余に残る。決して不覚の動作はせざる決心なり、戦争責任者として、いずれ捕えに来るべし。その際は日本的な方法によりて応ゆるべし。日本人として敵の法廷に立つごときは、とらざるところなり」
と、秘書に書き残した。
東条は、米将校の拘引命令に対し、しばらく待て、と自室に入るや拳銃で左胸部を射ち倒れたが、米軍の応急の処置で未遂におわってしまった。
東条の自決未遂の報告をうけたマッカーサー元帥は、
「トウジョウが助かったことは、対日政策を救ったことにもなる」
と、東条が生き残ったことを喜んだ。
やがて東京裁判のため巣鴨拘置所に移され、東条の記録カードには次のように書かれた。
「身長五尺四寸、体重百三十ポンド、眼の色茶、皮膚の色やや赤、髪の色黒、年齢六十三歳、宗教神道、外国語の知識なし、所持金九百七十円」
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001196368-00
http://www.asyura2.com/17/senkyo230/msg/773.html#c19