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(回答先: 天木レバノン大使は平成の大塩平八郎? 投稿者 外交官の鏡 日時 2003 年 10 月 09 日 06:16:55)
天保七年、米価が沸騰したため、多くの貧民が餓死した。それは天保二三年頃から気候不順の為めに穀物が出来なかつたからである。全国の貧民が殆んど餓死するのを見て、中斎は坐視するに忍びず、彼の子格之助を介して時の奉行跡部山城守に、倉庫を開いて貧民を救護するやうに進言した。山城守はそれに対して、四五日後に実行する旨を答へたので中斎は大いに喜んだ。ところが山城守は冷淡無責任で仲々それを実行しなかつた。それで中斎は再三、格之助を通して催促したが、一向要領を得ず、なお頻りに催促したところ、江戸へ米穀を廻送しなけれぱならないから救済することが出来ないとの答へであつた。中斎は憤慨して更に一策を講じた。それは富商を説き借金をして貧民を救済しやうとしたことである。ところが山城守がまた陰にこれを妨げたので、その策も不成功に終つた。
茲に至つて中斎は大いに怒り、今度は一切の蔵書を売却した。その部数一千二百、代価六百五十両であつた。かくて彼は一万枚の切手を作つて悉くこれを窮民に施与した。このことを聞いた山城守は名を売る行為であると称し、格之助を召して酷く叱責を加へたといふ。それは益々中斎を憤激せしめることになつた。
天保八年二月十九日中斎は山城守の非政を罵つて貧民に同情するの余り、遂に兵を挙げた。これより先き彼は檄を遠近に飛ぱした。その一節 *1 を掲げる。
「天子は足利家以来、別て御隠居同様、賞罰の柄を御失はれ候に付、下民の怨何方へ告 愬とて訴ふる方もなき様に乱れ候に付、人々の怨気、天に通じて年々地震火災、山も崩 れ水も溢れるより外の色々様々の天災流行、遂に五穀飢饉に相成候。是皆天上より深く 御誡の有難き御告に候へども、一向上たる人々心も付かず……天子御在所の帝都へは廻 し米世話も致さゞる而巳ならず、五升二斗位の米を買ひに下り候者共は召捕などいたし ……天照皇太神の時代に復しがたくとも中興の気象に恢復とて立戻し可申候」云々。
かくて集まるもの数百人、先づ豪商の家屋に火を放ち、倉庫を破壊し、金穀を四散して貧民に与へた。その結果は当然山城守の兵と戦ふ様になつたが勝利なく、黄昏に及んで或者は死亡し、或者は逃散し、余るもの僅か八十人となり、彼らも亦跡を晦ました。が厳重な逮捕の手は四方に張られたので、或者は捕はれ、或者は自殺し或は自首するなど全く失敗に終つた。然し中斎父子の踪跡丈は分らなかつた。ところが翌月下旬に至つて或商人がその隠れ場を訴へ出たので中斎は格之助とともに火を放つて焼死した。時に年四十四。
檄文の一節を見ても彼が如何に烈々たる尊皇家であつたかゞ分るであらう。彼は皇室を敬ひ、無法な幕府を攻め、貧民救済の犠牲となつたが、後世に与ヘる影響は大きい。実に彼は学者であると同時に救世の志士であつた。
近藤重蔵は中斎と意気投合した一人であるが、中斎の唯一の知己は頼山陽である。中斎の門人は甚だ多い。前後通じて千人に上るといふ。著書には「古本大学刮目」「洗心洞箚記」「儒門空虚聚語」「増補孝経彙註」とがあつて、以上を合称して「洗心洞四部書」といふ。
中斎は尋常の学者ではない。一種の英傑で、大臣たるべき器だつた。唯時勢が門閥中心主義であつたので、その適当の地位を得ず、加ふるに跡部の非政のため、非命に倒れた。が知行合一の精神を貧民救助の上に実行したことは、彼の博愛心が深かつたことを示した。唯過激の行動に出たのは、止むにやまれぬ勢であつたにせよ、惜しむべきである。