<■1061行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> <主張>建国記念の日 政府主催の式典を求める 社説 2025/2/11 5:00 https://www.sankei.com/article/20250211-65IWX64UJVIILIJYEIGWU27XPY/ 建国記念の日を迎えた。 祝日法は、 「建国をしのび、国を愛する心を養う 日と定めている。 今年2025年は戦後80年に当たる。 祖国日本の建国を祝うと共に、歴史を顧み、国の行く末にも思いを巡らす日としたい。 先の大戦後、日本を再び強国にさせないという連合国軍総司令部(GHQ)の方針の下、国民の愛国心や団結心を養う制度やしきたりが次々に廃止されていった。 占領が終わってからの日本は、大切な幾つかの制度やしきたりを取り戻してきた。 建国記念の日はその1つと言える。 元々は 「紀元節」 と言い、建国を祝う式典が各地で開かれていたが、昭和23年、GHQの圧力で廃止された。 国民の多くは存続を望んだ。 昭和27年に日本が主権を回復すると祝日法改正の動きが起こり、昭和41年に国民の祝日として復活したのである。 建国の由来を語り継ぐ意義は大きい。 日本書紀によれば、新暦の紀元前660年2月11日に初代の神武天皇が橿原宮(奈良県)で即位し、国づくりが始まった。 以来、第126代の今上天皇に至るまで、一系の天皇を戴(いただ)く国として歩んできた。 日本は、世界で最も古くから続く国だが、その出発点がこの日であると言い伝えられてきたわけだ。 欧米列強がアジアに進出して独立が脅かされるようになると、日本人は明治維新を成し遂げ、明治天皇を中心に国民が団結して国難を乗り越えた。 その一環として、明治6年、政府は2月11日を 「紀元節」 と定め、国民こぞって国の肇(はじ)まりを祝うようになった。 ただ、 「建国記念の日」 になってからは、祝日としての意義が国民の間に十分浸透しているとは言い難い。 政府主催の式典も開かれておらず、学校教育でもきちんと教えられていないのは残念である。 占領期に紀元節が廃止されたことを理由に、建国記念の日を敵視したり、蔑ろにする声が未だに存在しているのは信じ難いことだ。 日本はれっきとした独立国であり、占領政策を批判してもはじまらない。 政府は、盛大な式典を主催し、国民が建国を祝い、力を合わせよりよき日本を作る契機にしてほしい。満州事変 世界恐慌の少し前の昭和3年(1928)、満州を実効支配していた張作霖が列車ごと爆殺されるという事件が起きたのです。 元は馬賊だった張作霖は権謀術数に長けた人物で、日露戦争後に日本陸軍の関東軍と手を結び、軍閥を組織して満州を実効支配し、徴収した金を全て自分の物としていました。 当初、張作霖と関東軍の関係は良好でしたが、大正の終わり頃から、物資の買い占め、紙幣の乱発、増税などを行い、関東軍と利害が対立するようになっていきます。 更に欧米の資本を入れて、日本の南満州鉄道(満鉄)と並行する鉄道を敷設したことで、両者の衝突は避けられなくなりました。 満鉄は鉄道事業が中心として満州全域に広範な事業を展開する会社で、日本軍による満州経営の中核たる存在であっただけに、関東軍としても見過ごすわけにはいかなかったのです。 張作霖爆殺事件はそんな状況下で起こりました。 事件の首謀者は関東軍参謀と言われてきましたが、ソ連の関与があったとする説もあり、現在も論争が続いています。 ただ、この時、 「張作霖爆殺」 に関しての陸軍の調査と、彼らを庇うかのように二転三転する内閣の報告に関して、昭和天皇は不快感を顕にし、田中義一首相(元陸軍大臣)の内閣は総辞職しました。 天皇は自分の言葉(それを首相に伝えたのは鈴木貫太郎侍従長)が内閣に影響を与えてしまったことを反省し、以後は内閣の決定には拒否権を発動するなどの 「親裁」 は行わないようになりました。 それをやれば日本は専制君主国家になってしまうという思いからです。 張作霖の跡を継いだ息子の張学良はこの後、満州に入植してきた日本人と朝鮮人の権利を侵害する様々な法律を作ります。 また父の張作霖が満鉄に並行して敷いた鉄道の運賃を異常に安くすることで満鉄を経営難に陥れました。 そのため満鉄は昭和5年(1930)後半から深刻な赤字が続き、社員2000人の解雇を余儀なくされたのです。 日露戦争でロシア軍を追い出して以降、日本は満鉄をはじめとする投資により、満州のインフラを整え、産業を興してきました。 そのお陰で満州は大発展したのです。 この頃、清では戦乱が相次ぎ、日本は満州の治安を守るためにを置いていました。 そのため清から大量の難民が押し寄せることとなります。 そうしたこともあって日露戦争が始まった明治37年(1904)頃には約1000万人だった満州の人口は、20数年の間に3000万人にも増えていました。 同じ頃、蒋介石率いる中国国民党政権と中国共産党による反日宣伝工作が進められ、排日運動や日本人への脅迫やイジメが日常的に行われるようになりました。 日本人に対する暴力事件も多数発生しました。 代表的な事件は 「南京事件」 と呼ばれるもので、これは昭和2年(1927)3月に、蒋介石率いる中国国民党が南京を占領した際、中華民国の軍人と民衆の一部が、日本を含む外国領事館と居留民に対して行った襲撃事件です。 暴徒は外国人に対して、暴行・略奪・破壊などを行い、日本人、イギリス人、アメリカ人、イタリア人、デンマーク人、フランス人が殺害されました(この時、多くの女性が凌辱された)。 この暴挙に対して、列強は怒り、イギリスとアメリカの艦艇は直ちに南京を砲撃しましたが、中華民国への協調路線(及び内政不干渉政策)を取る幣原喜重郎外務大臣(「日英同盟」を破棄して「4カ国条約」を結んだ全権大使)は、中華民国への報復措置を取らないばかりか、逆に列強への説得に努めました。 更に日本政府は国内の世論を刺激しないように、 「我が在留婦女にして凌辱を受けたる者1名もなし」 と嘘の発表をしたため、現状を知る南京の日本人居留民を憤慨させたのです(政府は居留民たちが事実を知らせようとする集会さえも禁じている)。 この時、報復攻撃をしなかった日本に対し、中国民衆は感謝するどころか、逆に 「日本の軍艦は弾丸がない」 「張子の虎だ」 と嘲笑したと言われています。 事実、これ以降、中国全域で、日本人に対するテロ事件や殺人事件が急増します。 満州でも、中国共産党に通じたテロ組織が、日本人居留民や入植者を標的にしたテロ事件を起こすようにもなりました。 しかし被害を受けた日本人居留民が領事館に訴えても、前述の通り、時の日本政府は、第2次幣原喜重郎外交の 「善隣の誼(よしみ)を淳(あつ)くするは刻下の一大急務に属す」(中国人と仲良くするのが何より大事) という対支外交方針を取っていたため、訴えを黙殺しました。 それどころか幣原喜重郎外務大臣は、 「日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう」 という理由で、応援警官引き揚げを決定します。 そのため入植者たちは、満州の治安維持をしている関東軍を頼り、直接、被害を訴えるようになっていきます。 それでもテロ事件は収まらず、昭和5年(1930)後半だけで、81件、死者44人を数える事態となりました(負傷者は数えきれない)。 この時、中国人による嫌がらせの一番の標的になっていたのが朝鮮人入植者でした。 これは多分に両者の長年の確執と性格による所もあったと考えられます。 韓国併合により当時は 「日本人」 だった朝鮮人は、何かにつけて中国人を見下す横柄な態度を取っていたと言われ、中国人にしてみれば、長い間、自分たちの属国の民のような存在と思っていた朝鮮人にそのように扱われのが我慢ならなかったものと考えられます。 中国人から執拗な嫌がらせを受けた朝鮮人入植者は、日本政府に対して 「日本名を名乗らせてほしい」 と訴えます。 最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなります。 日本政府の無為無策では南満州鉄道や入植者を守れないという意見が強まる中、関東軍は昭和6年(1931)9月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満州の治安を守るという名目で軍事行動を起こしました。 政府は不拡大方針を取りましたが、関東軍は昭和7年(1932)7月までに満州をほぼ制圧し、張学良を追放しました。 いわゆる 「満州事変」 です。 「事変」 とは、大規模な騒乱状態ではあるが、宣戦布告がなされていない国家間の軍事的衝突を意味します。 以後、日本は中国大陸での泥沼の戦いに突入していくこととなります。 盧溝橋事件から支那事変 昭和12年(1937)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍が、中華民国軍が占領している後方の陣地から射撃を受けたことがきっかけで、日本軍と中華民国軍が戦闘状態となります。 ただこれは小競り合いで、4日後の昭和12年(1937)7月11日には現地で停戦協定が結ばれました。 しかし東京の陸軍本部は派兵を望んでいて、最初は不拡大方針だった近衛文麿首相はそれに押し切られるように、昭和12年(1937)7月11日の臨時閣議で派兵を決めます。 盧溝橋の発砲事件に関しては、中国共産党が引き起こしたという説もありますが、真相は不明です。 異常な緊張状態の中、その月昭和12年(1937)7月の29日、北京東方で、 「通州事件」 通州事件(2) Sさんの体験談 https://nezu3344.com/blog-entry-6033.html が起きます。 この事件は、 「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」(昭和10年【1935】から昭和13年【1938】まで河北省に存在した自治政府であるが、その実体は日本の傀儡政権であるとされる) の中国人部隊が反乱を起こし(中国国民党や中国共産党が使嗾【しそう:そそのかすこと】したとも言われる)、通州にある日本人居留地を襲い、女性や子供、老人や乳児を含む民間人233人を虐殺した事件です。 その殺害方法は猟奇的とも言うべき残虐なもので、遺体のほとんどが生前に激しく傷付けられた跡があり、女性は子供から老人までほぼ全員強姦された上、性器を著しく損壊されていました。 これらの記録や写真は大量に残っていますが、まともな人間なら正視に耐えないものです。 この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、日本国内に反中感情が高まりました。 また昭和12年(1937)8月に上海の租界で2人の日本の軍人が射殺された(大山事件)こともあり、日本人居留地を守っていた日本軍と中華民国軍が戦闘状態に入りました(第2次上海事変)。 この時、ドイツの指導と武器援助を受けていた中華民国軍は屈強で、日本軍は思わぬ苦戦を強いられます。 当時、上海の租界には約2万8000人の日本人が住んでいましたが、実は大山事件前にも、日本人を標的にした中国人によるテロ事件や挑発的行為が頻発していました。 昭和6年(1931)、商社や商店、個人が受けた暴行や略奪は200件以上。 通学児童に対する暴行や嫌がらせは約700件。 殺害事件だけでも、昭和7年(1932)から昭和12年(1937)までの間に何件も起きています。 犠牲者も軍人だけでなく、托鉢僧や商社員、新聞社の記者など民間人が多数含まれていました。 第2次上海事変は中華民国の各地に飛び火し、やがて全国的な戦闘となりました。 ただ、日本がこの戦闘を行ったのは、そもそもは自国民に対する暴挙への対抗のためでした。 「暴支膺懲」(ぼうしようちょう) というスローガンが示すように 「暴れる支那を懲らしめる(膺懲)」 という形で行った戦闘がいつの間にか全面戦争に発展したというのが実情です。 当時、日本は中華民国との戦闘状態を総称して 「支那事変」(あるいは「日華事変」) と呼んでいました。 支那事変は大東亜戦争が始まるまでの4年間、両国とも宣戦布告を行わずに戦い続けた奇妙な戦争でした。 その理由は、 「戦争」 となれば、第3国に中立義務が生じ、交戦国との交易が中立義務に反する敵対行為となるからです。 従って両国が共に 「事変」 扱いとして戦い続けたため、国際的にも 「戦争」 とは見做されませんでした(実質は戦争)。 装備に優る日本軍は僅か3カ月で上海戦線を突破し、その年昭和12年(1937)の12月には首都南京を占領しました。 日本軍は、首都さえ落とせば、中華民国は講和に応じるだろうと見ていたのですが、蒋介石は首都を奥地の重慶に移して抵抗します。 中華民国には、ソ連とアメリカが積極的な軍事援助を行っていて、最早戦争の早期終結は望めないこととなっていました。 全面戦争へ 「支那事変」 は確固たる目的がないままに行われた戦争でした。 乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるという世論に押される形で戦闘行為に入ったものの、気が付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものでした。 名称だけは 「事変」 となっていましたが、最早完全な戦争でした。 しかもこの戦いは現地の軍の主導で行われ、政府がそれを止めることが出来ないでいるという異常なものでもありました。 そこには5・15事件や2・26事件の影響があるのは明らかです。 支那事変が始まった翌年の昭和13年(1938)には、 「国家総動員法」(昭和13年(1938)4月1日に公布、5月5日に施行) が成立しました。 これは 「戦時に際して、労働力や物資割り当てなどの統制・運用を、議会の審議を経ずに勅令で行うことが出来るようにした法律」 です。 具体的には、国家は国民を自由に徴用でき、あらゆる物資や価格を統制し、言論を制限し得るといった恐るべき法律でした。 ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了陸軍中佐の余りに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議の声が上がったところで、佐藤が 「黙れ!」 と一喝したことがありました。 この時、議員たちの脳裏に2年前1936年の2・26事件が浮かんだことは容易に想像できます。 佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂気の法案は僅か1カ月で成立しました。 国力の全てを中国との戦争に注ぎ込もうと考えていた日本は、この年昭和13年(1938)、2年後に東京で開催予定であった 「オリンピック」 と 「万国博覧会」(万博) を返上します。 これは、最早世界の国々と仲良く手を結んでいこうという意思がないことを内外に宣言したに等しい決断でした。 このオリンピックと万博の返上は陸軍の強い希望であったと言われています。 第二次世界大戦 第二次世界大戦の始まりは奇妙なものでした。 イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告したものの、実際にドイツに攻め込むことはしなかったからです。 大西洋でのドイツ潜水艦による通商破壊戦の攻防はありましたが、8カ月間、陸上での戦いはほとんどありませんでした。 そのためイギリスでは 「まやかし戦争」(Phoney War)、 フランスでは 「奇妙な戦争」(Drole de guerre) と呼ばれました。 つまりイギリスもフランスも、建前上、ドイツに宣戦布告したものの、本心は戦争をする気などなかったのです。 イギリス国民の多くは、その年昭和15年(1940)暮れには戦争が終るだろうと考えていました。 当時、ドイツ軍は主力を東部戦線に移しており、イギリス軍とフランス軍が一挙に攻め込めば、ドイツ軍は総崩れになったであろうと言われています。 ドイツ軍首脳は、フランスとの国境線に大軍を配備しおくべきと主張しましたが、英仏のそれまでの宥和的態度から、戦う意思がないと見抜いていたヒトラーは、西部戦線をがら空きにして主力をポーランドに集中させます。 ドイツはポーランドを完全に制圧すると、今度は主力を西武戦線に移し、昭和15年(1940)5月、英仏軍に一気に襲い掛かりました。 両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はヨーロッパ大陸から駆逐され、フランスは首都パリと国土の5分の3を占領されました。 ドイツ軍の破竹の進撃を見たイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告しました。 驚異的な軍事力によってあっという間に西ヨーロッパを席巻したドイツの勢いを目の当たりにした日本陸軍内に、 「バスに乗り遅れるな」 という声が生まれ、一種の流行語となりました。 このことを深く憂慮した昭和天皇は、親英米派で日独伊三国同盟には反対の立場を取っていた海軍大将米内光政を内閣総理大臣に推挙しました(形式上は湯浅倉平内大臣の推挙)。 昭和天皇が個人名を挙げて首相に推挙するのは例のないことです。 如何に昭和天皇がドイツやイタリアとの同盟に反対していたかの証左です。 しかし昭和15年(1940)6月にドイツがフランスを降伏させると、陸軍は倒閣運動を行い、同年昭和15年(1940)7月に米内内閣を総辞職に追い込みました。 新たに誕生した第2次近衛内閣は同年昭和15年(1940)9月に 「日独伊三国同盟」 を締結します。 朝日新聞は、これを一大慶事のように報じました。 しかしこの同盟は、実質的には日本に特段のメリットはなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな選択だったと言わざるを得ません。 もっともアメリカのルーズベルト民主党政権はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力を掛けていました。 前年の昭和14年(1939)には、日米通商航海条約破棄を通告し、航空機用ガソリン製造設備と技術の輸出を禁止していました。 また、アメリカやイギリスは、日本と戦闘状態にあった中華民国を支援しており、 「援蒋ルート」 を使って軍需物資などを送り続けていました。 「援蒋ルート」 は主に4つありましたが、最大は 「仏印(フランス領インドシナ)ルート」 と呼ばれたもので、ハノイと昆明を結んでいました。 日本は仏印ルートの遮断を目的として、昭和15年(1940)、北部仏印(現在のベトナム北部)に軍を進出させました。 これはフランスのヴィシー政権(昭和15年【1940】)にドイツに降伏した後、中部フランスの町ヴィシーに成立させた政府)と条約を結んで行ったものでしたが、アメリカとイギリスは、ヴィシー政権はドイツの傀儡であり日本との条約は無効だと抗議しました。 しかし日本はそれを無視して駐留を続けたのです。 「援蒋ルート」 を潰されたアメリカは、日本への敵意を露わにし、同年昭和15年(1940)、特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、更に航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止しました。 アメリカから 「対日経済制裁」 の宣告を受けた日本は、石油が禁輸された場合を考え、オランダ領インドシナの油田権益の獲得を目論みます。 当時、オランダ本国は既にドイツに占領されていましたが、植民地のインドシナはロンドンのオランダ亡命政府の統治下にありました。 翌昭和16年(1941)、日本軍は更に南部仏印(現在のベトナム南部)へと進出しました。 アメリカのルーズベルト政権はこれを対米戦争の準備行動と見做し、在米日本資産凍結令を発布します。 イギリスとオランダもこれに倣いました。 そして同年昭和16年(1941)8月、アメリカは遂に日本への石油輸出を全面的に禁止したのです。 当時、日本は石油消費量の約8割をアメリカから輸入していました。 それを止められるということは、息の根を止められるのに等しいことでした。 日本はオランダ領のインドネシアから石油を輸入しようとしましたが、オランダ亡命政府(当時はイギリスからカナダに拠点を移していた)は、アメリカとイギリスの意向を汲んで日本には石油を売りませんでした。 この時、日本の石油備蓄は約半年分だったと言われています。 つまり半年後に日本は軍艦も飛行機も満足に動かせない状況に陥るということでした。 もちろん国民生活も成り立たなくなります。 まさに国家と国民の死活問題でした。 日本は必死で戦争回避の道を探りますが、ルーズベルト政権には妥協するつもりはありませんでした。 それどころかルーズベルト政権は日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたと指摘する歴史家もいます。 アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としませんが、大正10〜11年(1921〜1922)のワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられます。 その底意を見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りの平和を謳った 「四カ国条約」 を締結して良しとした日本政府の行動は、国際感覚が致命的に欠如していたとしか言いようがありません。 それから約20年後の昭和14年(1939)には、アメリカははっきりと日米開戦を想定していたと言えます。 ただルーズベルト大統領は、第二次世界大戦が始まっていた昭和15年(1940)の大統領選(慣例を破っての3期目の選挙)で、 「自分が選ばれれば、外国との戦争はしない」 という公約を掲げて当選していただけに、自分から戦争を始めるわけにはいかなかったのです。 彼は 「日本から戦争を仕掛けさせる方法」 を探っていたはずで、日本への石油の全面禁輸はそのための策の1つだったのでしょう。 開戦前夜 日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策しました。 アメリカと戦って勝てないことは政府も軍も分かっていたからです。 しかし日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難しました。 満州事変【1931年(昭和6年、民国20年)9月18日〜1933年(昭和8年)5月31日】以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わすことが常となっていました。 中には荒唐無稽な創作記事も数多くありました。 東京日日新聞(現在の毎日新聞)の 「百人斬り」 の記事などはその典型です。 これは支那事変【1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端とする日本と中華民国の間で起こった武力衝突】で陸軍の2人の少尉が、 「どちらが先に敵を100人斬るかという競争をした」 という事実誤認に満ちた根拠薄弱な内容でした。 しかし戦後、この記事が原因で、2人の少尉は南京軍事法廷で死刑判決を受け、銃殺刑に処されています(毎日新聞は現在も記事の内容は真実であったと主張している)。 ちなみに 「日独伊三国同盟」 を積極的に推したのも新聞社でした。 そんな中、昭和16年(1941)11月27日、アメリカのルーズベルト政権はそれまでの交渉を無視するかのように、日本に対して強硬な文書を突き付けてきました。 この文書は当時の国務長官コーデル・ハルの名前をとって 「ハル・ノート」 と呼ばれていますが、最も重要な部分は、 「日本が仏印と中国から全面撤退する」 という項目でした。 これは日本としては絶対に呑めない条件でした。 この時点で、日米開戦は不可避になったと言えます。 実はこのハル・ノートを見た日本軍首脳部の開戦派は、 「天祐」(天の加護。天の助け。天助。) と言ったとされています。 つまり 「戦争をするしかない」 状況になったからです。 それまで戦争を回避したいと考えていた閣僚らも開戦に強く反対しなくなり、アメリカとの戦争には消極的な立場を取っていた海軍もここで開戦の決意を固めたと言われています。 とは言っても、ハル・ノート受領の前日には、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)から聯合艦隊の空母部隊がハワイに向けて出撃しています(攻撃決定は【昭和16年(1941)12月2日】。 艦隊が単冠湾に集結したのが【昭和16年(1941)11月22日】、真珠湾攻撃のための猛訓練を始めたのが【昭和16年(1941)5月】であったことを見れば、日本政府が戦争回避を試みる一方、軍は戦争開始の準備を着々と進めていたことが分かります。 ただし、ハル・ノートの解釈については後年議論の的になっている点があります。 「日本が中国から撤退」 という要求の文章の 「中国」 についてです。 原文は 「China」 となっていますが、この 「China」 が中華民国を指すのか、それとも満州まで含めた地域を指すのかが明確にされていなかったのです。 日本側は 「満州」 を含めた地域と解釈しましたが、実はアメリカ側は、満州は考慮に入れていなかったとも言われています。 戦後、この経緯を調べたピューリッツァー賞受賞作家のジョン・トーランドは、当時の日本の閣僚らに、もし満州を含まないと知っていたら開戦していたかと訊ねています。 すると多くの人は、 「それならハル・ノートを受諾した」 「開戦を急がなかったであろう」 と答えています。 もっとも、何としても日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたルーズベルトは、別の手段で日本を追い込んだに違いありません。 とまれ賽は投げられました。 真珠湾攻撃 昭和16年(1941)12月8日未明、聯合艦隊の空母から飛び立った日本海軍の航空隊はハワイの真珠湾に停泊するアメリカ艦隊を攻撃しました。 日本軍は戦艦4隻を撃沈し、基地航空部隊をほぼ全滅させます。 ただ、この時、在アメリカ日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまいました。 同日、台湾から海軍の航空隊が出撃し、フィリピンのクラーク基地のアメリカ航空部隊を全滅させています。 更に同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍をも打ち破っています。 日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためでした。 そのためにはシンガポールのイギリス軍を撃破しなければならず、また手に入れた石油を日本に送るのに東シナ海を通るため、その航路を遮る位置にあるアメリカのクラーク基地を無力化する必要がありました。 真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのも同じ理由からです。 同日、日本はアメリカとイギリスに対して宣戦布告を行いました。 同時に支那事変も正式に戦争となりました。 ここに至りインドシナ半島や太平洋を含めた史上最大規模の大戦争の火蓋が切られたのです。 日本軍は緒戦だけは用意周到に作戦を練っていましたが、大局的な見通しは全くありませんでした。 そもそも工業力が10倍以上も違うアメリカとの長期戦では100%勝ち目はありません。 しかしハル・ノートを受け入れれば、日本は座して死を待つことになりかねません。 そうなれば、70年前の幕末の悪夢が再びやって来る恐れがありました。 欧米の植民地にされてしまうという恐怖です。 当時の世界は、現代とは比べ物にならないほど、露骨な弱肉強食の原理で動いていました。 アジア、アフリカ、南米に有色人種の独立国はほとんどなく、多くの有色人種たちがひたすら搾取され、奴隷のような扱いを受けていました。 ヨーロッパの白人種の国でも弱小国はソ連やドイツに次々に解体されていきました。 何しろ国際連盟で 「人種差別撤廃」 の規約が否決された時代です。 国力を失った有色人種の極東の島国の運命は暗澹たるものになると、日本の政府や軍人たちが危惧したのも無理はありません。 後の話になりますが、戦後、アメリカ軍の南西太平洋司令長官であり、日本占領軍の最高司令官でもあったダグラス・マッカーサーは、昭和26年(1951)、アメリカ上院軍事外交合同委員会の場において、 「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのものだった」 と述べています。 つまり敵将さえもが、先の大戦は日本の侵略ではなく自衛のための戦争であったと明言したのです。 日本の真珠湾攻撃はルーズベルト大統領にとっては願ったり叶ったりでした。 彼は 「日本軍は宣戦布告なしの卑怯な攻撃を行った」 と、アメリカ国民に強く訴えます。 ここで戦争反対だったアメリカの世論が一夜にして 「リメンバー・パール・ハーバー」 の合言葉と共に変じ、一気に戦争へと向かっていったのです。 ところで、現代のアメリカ人の中にも、広島・長崎への原爆投下と東京大空襲は日本の汚い攻撃に対する報復だと言う人は少なくありませんし、日本人の中にも真珠湾攻撃は騙し討ちだったと言う人がいます。 しかし有史以来、宣戦布告をしてから戦争を行ったケースは実はほとんどないのです。 第一次世界大戦と第二次世界大戦がむしろ例外的と言っていいでしょう。 当のアメリカも幾度も戦争をしていますが、そのほとんどの場合、宣戦布告なしに攻撃を行っています。 つまり真珠湾攻撃を卑怯なやり口と言い募ったのは、完全なプロパガンダなのです。 ちなみに戦争終結間際にソ連は 「日ソ中立条約」 を一方的に破棄して、日本に対して戦闘を開始しましたが、モスクワの駐ソ大使に宣戦布告文を手渡したのは攻撃の1時間前でした。 しかも駐ソ大使から日本本国への電報はソ連の電信局が送信しなかったため、実質的には奇襲攻撃となっています。 ただ残念なのは、そうした事態になることを恐れた聯合艦隊司令長官の山本五十六が、くれぐれも真珠湾攻撃の前に宣戦布告文書をアメリカに手渡すようにと言っていたにもかかわらず、ワシントンの日本大使館員らがそのことを重く受け止めていなかったことです。 日本の攻撃を喜んだ人物がもう1人いました。 イギリス首相のウィンストン・チャーチルです。 日米開戦の報告を受けたチャーチルは大喜びし、すぐにルーズベルトに電話しました。 ルーズベルトの 「今や我々は同じ船に乗ったわけです」 という言葉を聞いたチャーチルは、これで戦争に勝てると確信しました。 彼はこの時の興奮と喜びを後に回顧録『第二次大戦』で次のように書いています。 「感激と興奮とに満たされ、満足して私は床に就き、救われた気持ちで感謝しながら眠りに就いた」 更にこうも書いています。 「ヒトラーの運命は決まった」 「ムッソリーニの運命も決まったのだ」 「日本人について言うなら、彼らは粉々に打ち砕かれるだろう」 ドイツとイタリアに関しては個人の滅亡にのみ言及していますが、日本に対しては民族全体の運命に言及しています。 たまたまの表現なのかもしれませんが、私はチャーチルの白人種以外への差別意識が表われたと見ています。 ちなみに彼は昭和28年(1953)にこの回顧録でノーベル文学賞を受賞しています。 マッカーサー「自衛戦争」証言 http://tadashiirekishi.web.fc2.com/1951-60/1951_makasa_shogen.html 昭和26(1951)年5月、アメリカ上院の軍事外交合同委員会で、ダグラス・マッカーサーは以下の2つの重大な発言を行なった。 1.日本の戦争は自衛戦争であった 2.アメリカが過去100年に太平洋で犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである 1.「日本の戦争は自衛戦争であった」 原文と和訳は以下の通り "There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was karagely dictated by security." 和訳: 日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。 彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い、それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。 もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。 したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです。 マッカーサーは実際に朝鮮戦争を戦って、ロシア(ソ連)、共産主義の脅威(明治維新以来ずっと日本が恐れていたもの)をやっと悟った。 マッカーサーは日本が戦争をせざるを得なかった理由をやっと理解できたのである。 しかし、呆れたことにこれほど重大な証言を報じた日本の大新聞は当時も今も皆無である。 NHK、民放などのテレビ局も完璧に無視している。 何を恐れているのだろうか。 報道するとまずいことになると考えていることだけは事実だろう。 アメリカに対する気兼ねか、それとも支那に対する気兼ねか? 東條英機は宣誓供述書で 「断じて日本は侵略戦争をしたのではない」 「自衛戦争をしたのである」 「国家自衛のために起つという事がただ1つ残された途であった」 と語ったが、それはこのマッカーサーの米議会証言録と重なるもので、最終的に東條とマッカーサーは同じ見解を披露したことになる。 2.「アメリカが過去100年に太平洋で犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである」 アメリカは日本の勢力を支那大陸、満州、朝鮮から駆逐したことで自分たちの目標を達成したかに見える。 しかしその結果アメリカは過去半世紀にこの地域で日本が直面し、対処してきた問題と責任を日本に代わって引き受けなくてはならなくなっただけだ、と述べたアメリカ外交官ジョージ・ケナンと同じ後悔を述べたわけである。 フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。 後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやって来た時、彼はその恨みを晴らすべく、 「日本は悪いものだ」 と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法を作らせて日本を骨抜きにした。 ところが朝鮮戦争が起こって事態は一変する。 その時、彼は初めて東京裁判で弁護側が言った事が全て本当だったのだと気付く。 そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。 しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。 その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、何とか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。 そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。 マッカーサーは前年に東京裁判が誤りだったと発言している。 戦争目的を失った日本 開戦4日後の昭和16年(1941)12月12日、日本はこの戦争を 「大東亜戦争」 と名付けると閣議決定しました。 従って、この戦争の正式名称は 「大東亜戦争」 です。 現代、一般に使われている 「太平洋戦争」 という名称は、実は戦後に占領軍が強制したものです。 「大東亜戦争」 は前述したように緒戦は日本軍の連戦連勝でした。 開戦と同時にアメリカの真珠湾とフィリピンのクラーク基地を叩き、3日目にはイギリスの東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという2隻の戦艦を航空攻撃で沈めました。 更に難攻不落と言われていたイギリスのシンガポール要塞を陥落させました。 そしてこの戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功します。 日本軍がパレンバンの油田を占領したと聞いた東条英機首相は、 「これで石油問題は解決した」 と言いましたが、彼も政府(そして軍)も、油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていませんでした。 結論を言えば、日本はせっかく奪った油田から、多くの石油を日本国内に輸送することができなかったのです。 開戦前、日本政府はインドネシアの石油やボーキサイト(アルミニウムの原料)を日本に送り届けるための輸送船を民間から徴用することに決めていました。 しかし軍が必要とするだけの数を徴用すると、日本国内の流通に支障を来すため、軍は 「半年だけ」 という条件で無理矢理に民間船を徴用したのです。 ところが、インドネシアからの石油などの物資を運ぶ輸送船や油槽船が、アメリカの潜水艦によって次々と沈められる事態となります。 それでも海軍は、輸送船の護衛など一顧だにせず、聯合艦隊の誇る優秀な駆逐艦が護衛に付くことは一切ありませんでした。 「聯合艦隊はアメリカの太平洋艦隊を撃破するためのもので、鈍足の輸送船を護衛するためのものではない」 というのが上層部の考えだったからです。 海軍は、かつて日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させて日露戦争に勝利したように、大東亜戦争もアメリカの太平洋艦隊を壊滅させれば終結すると考えていました。 そのため艦隊決戦こそが何よりも優先されるという思い込みを持っており、輸送船の護衛などは考えもしなかったのです。 海軍では船舶の護衛任務を 「くされ士官の捨て所」 と呼んで軽侮していましたし、陸軍にも 「輜重輸卒(しちょうゆそつ:物資の輸送をする兵)が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」 と輜重兵を馬鹿にしたざれ歌がありました。 戦争が、輸送や生産も含めた総力戦であるという理解が欠如していたのです。 身を守る手段のない輸送船は大量に撃沈されました。 それで 「半年だけ」 という約束は反故にされ、軍は更に民間船を徴用することになります。 そのため戦場では勝利を収めながらも、国内経済は行き詰まっていくという矛盾した状況に陥りました。 石油を含む物資の不足が、工業生産力の低下を招き、戦争継続が困難な状況になったにもかかわらず、軍はその辺りを全く把握・理解出来ていませんでした。 驚くべきデータがあります。 公益財団法人「日本殉職者船員顕彰会」の調べによれば大東亜戦争で失われた徴用船は、商船3575隻、機帆船2070隻、魚船1595隻、戦没した船員と漁民は6万人以上に上ります。 その損耗率は何と約43%です。 これは陸軍兵士の損耗率約20%、海軍兵士の損耗率約16%を遥かに超えています。 彼ら民間の船員たちは、海外から石油を含む貴重な物資を命懸けで運んだにもかかわらず、石油は軍に優先的に回され、国民には満足に行き渡りませんでした。 それでも軍需物資の不足に悩む政府は、昭和17年(1942)5月に、金属類回収令を発動し、寺の梵鐘、橋の欄干、銅像、更に一般家庭にある余った鍋釜や鉄瓶、火箸に至るまで強制的に供出させたのです。 これにより国民生活は一層逼迫しました。 この時点で、戦争継続は不可能な状況と言えました。 ミッドウェー海戦と言霊主義 昭和17年(1942)6月、聯合艦隊はミッドウェー海戦で、主力空母4隻を失うという致命的な大敗を喫しました。 この戦いは運に見放された面もありましたが、日本海軍の驕りと油断が多分にあったことも確かです。 例えば開戦前のシミュレーションの際、日本の空母に爆弾が命中して攻撃能力を失う事態に陥った時、参謀の1人が空母の被害を低めに修正させて図上演習を続けています。 また作戦前に 「もし敵空母がやってきたら」 と問われた航空参謀は、 「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)です」 とこともなげに答えていたという話もあります。 「鎧袖一触」 とは 「刀を抜くまでもなく、鎧の袖を当てただけで相手を倒してしまう」 という意味の言葉です。 ここには具体的な対策案はありません。 単なる思い込みです。 その発言が事実であったかどうかは不明ですが、ミッドウェー海戦全体を改めて眺めると、そこには上層部の油断や傲慢が随所に見られます。 そして私はここに 「言霊主義」 の悪しき面を見ます。 つまり 「悪い結果は口にしないし、想定もしない」 で、 「良い事だけを言う」 という日本人に特有の精神です。 この後も、日本軍は 「言霊主義」 に囚われ、太平洋の各戦場で独りよがりの作戦を立てて敗北を重ねていきます。 もう1つ日本軍の大きな欠点は情報を軽視したことです。 その典型が昭和17年(1942)8月に始まったガダルカナル島攻防戦でした。 この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営は直ちに奪回を試みますが、アメリカ軍の兵力を2000人くらいと根拠もなく見積もり、それなら900人ほどで勝てるだろうと一木支隊を送り込みました。 敵の半分の兵力で勝てると考えるのも大いに問題ですが、実際にはアメリカ軍は1万3000人もいたのです。 また日本軍が持っていない重砲などを装備していました。 アメリカ軍陣地に突撃した800人の兵士のうち777人が一夜にして死亡しました。 その報を受けた大本営は、それではと今度は5000人を送り込みます。 しかしアメリカ軍は更に1万8000人まで増強していました。 結局、ガダルカナル島を巡る攻防戦は半年近くに渡って行われ、日本軍は夥しい人的被害を出し、大量の航空機と艦艇を失って敗退します。 しかもガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死でした。 この戦いでは、日本の誇る世界最強の戦艦である大和と武蔵は1度も出撃していません。 兵力を温存したかったという理由もありますが、石油不足のために動かせなかった(大和型戦艦は大量に重油を消費する)という面もありました。 輸送船を護衛しなかったツケが開戦後1年も経たないうちに回ってきたのです。 無意味な戦い 昭和18年(1943)の時点で、日本の国内経済は既にガタガタになっており、生産力は著しく低下していました。 アメリカとの戦争継続の見通しはかなり厳しくなっていましたが、アメリカの本格的な反攻がなかったためか、講和の画策をした形跡がありません。 一方、中国大陸に限っては戦いを有利に進めていました。 ただアメリカはその1年を間休んでいたわけでは決してありませんでした。 ヨーロッパ戦線を戦いながら、日本への反攻準備を着々と整えていたのです。 一番の武器は大型空母でした。 真珠湾攻撃を見て空母の有効性を確認したアメリカは、大型空母(エセックス級と呼ばれるもので、第二次世界大戦中の最強の空母)の建造を大幅に増やしたのです。 その結果、アメリカが終戦までの間に18隻ものエセックス級空母を就役させたのに対し、日本が戦争中に就役させて実戦に投入できた正規空母は1隻のみでした。 ちなみに開戦時、アメリカが保有していた中型以上の空母は7隻、日本は6隻でしたが、アメリカは大西洋にも空母を展開していたので、太平洋側では日本が優勢でした。 しかし僅か3年で大逆転しました。 昭和19年(1944)6月に行われたマリアナ沖海戦で、新型空母をずらりと揃えたアメリカの機動部隊の前に、日本の聯合艦隊は完敗を喫します。 その戦力差は最早圧倒的と言えるほど開いていました。 この戦いで大本営が掲げていた絶対国防圏が破られ、サイパン島が奪われました。 これは日本の命運を握られたとも言える事態でした。 というのも、サイパンからは大型爆撃機B-29が直接日本を空襲することが可能だったからです。 この時、国務大臣でもあった岸信介(戦後、首相になる)らは 「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産出来ず、軍需次官としての責任を全う出来ないから講和すべし」 と首相の東條英機に進言しました。 東條は 「ならば辞職せよ」 と言いましたが、岸は断固拒絶しました。 東條の腹心だった東京憲兵隊長が岸の私邸を訪れ、軍刀をがちゃつかせて恫喝しても岸は動じませんでした。 結果、閣内不一致となり、同年昭和19年(1944)7月、東條内閣はサイパン失陥の責任を取る形で総辞職となります。 現代でもメディアや文化人などが、東條英機をヒトラーやムッソリーニなどの独裁者と同列に並べることがありますが、この一事を見てもそうではないことが分かります。 日本は戦争中であっても議院内閣制を堅持していたのです。 後の評論家の多くは、この時に不利な条件でも講和すべきだったと言いますが、既にこの時点ではアメリカは無条件降伏に近いものしか認めなかったでしょうし、大本営と陸軍がそれを呑んだとは考えられません。 つまるところ、行き着く所まで行く運命にあったと言えるのです。 神風特攻隊 日本は中国大陸での戦いでは常に優勢でしたが、昭和19年(1944)秋の時点で、アメリカを相手にした太平洋での戦いは最早絶望的でした。 聯合艦隊はほとんどの空母を失っており、強大な空母部隊を擁するアメリカ艦隊に対抗できる力などあるはずもなかったのですが、それでも降伏しない限りは戦い続けなくてはなりませんでした。 同年昭和19年(1944)10月、日本はフィリピンでアメリカ軍を迎え撃ちます。 追い詰められた日本海軍は、人類史上初めて航空機による自爆攻撃を作戦として行いました。 神風特攻隊です。 神風特攻隊は最初はフィリピンでの戦いの限定的作戦でしたが、予想外の戦果を挙げたことから、なし崩し的に通常作戦の中に組み入れられました。 しかし陸海軍の必死の攻撃の甲斐も無く、フィリピンはアメリカに奪われ、日本陸軍兵士51万8000人が戦病死します。 フィリピンを奪われたことで、南方と日本を繋ぐシーレーンは完全に途絶え、遂に石油は1滴も入って来ない状態となりました。 もっともその前から護衛の無い日本の油槽船はアメリカの潜水艦の餌食となっていて、昭和19年(1944)には、インドネシアから国内へ送られた原油は僅か79万リットルでした(戦前、アメリカから輸入していた原油は年間500万リットル)。 最早戦争どころか国民生活さえ維持できない状況となっていたのです。 翌昭和20年(1945)、アメリカ軍は遂に沖縄にやってきました。 日本軍は沖縄を守るために、沖縄本島を中心とした南西諸島に7万以上の兵士を配置しました。 更に陸軍と海軍合わせて約2000機の特攻機が出撃しました。 また聯合艦隊で唯一残った戦力と言える戦艦大和も出撃しましたが、延べ400機近いアメリカ空母艦載機の攻撃により、坊ノ岬沖であえなく沈められました。 戦後の今日、 「日本は沖縄を捨て石にした」 と言う人がいますが、これは完全な誤りです。 日本は、沖縄を守るために最後の力を振り絞って戦ったのです。 もし捨て石にするつもりだったなら、飛行機も大和もガソリンも重油も本土防空及び本土決戦のために温存したでしょう。 沖縄は不幸なことに地上戦となり、約9万4000人もの民間人が亡くなりました。 沖縄出身の兵士は2万8000人以上がなくなっていますが、沖縄以外の出身の兵士も約6万6000人が亡くなっています。 決して沖縄を捨て石になどしていなかったのです。 悪魔の如きアメリカ軍 アメリカ軍は沖縄を攻略する前に、昭和20年(1945)3月に東京大空襲を行っています。 これはアメリカが日本の戦意を挫くために、一般市民の大量虐殺を狙って行われたものでした。 この作戦を成功させるために、アメリカ軍は関東大震災や江戸時代の明暦の大火についてまで調べ、どこを燃やせば日本人を効果的に焼き殺せるかを事前に研究し尽くして、空襲場所を浅草区、深川区、本所区などを中心とする民家密集地帯に決めました。 またどのような焼夷弾が有効かを確かめるために、ユタ州の砂漠に日本の民家を建てて作り、実験まで行っています。 その家の中には、ハワイから呼び寄せた日系人の職人に、布団、畳、障子、卓袱台までしつらえさせるという徹底ぶりでした。 そしてサイパン基地から300機のB-29に爆弾を積めるだけ積んで出撃し(そのため機銃まで降ろしていた)、昭和20年(1945)3月9日の深夜から10日の未明にかけて、2000メートルという低空から東京都民に爆弾の雨を降らせたのです。 その結果、一夜にして老人、女性、子供などの非戦闘員が10万人以上殺されました。 これはハーグ陸戦条約に違反した明白な戦争犯罪行為です。 昭和20年(1945)5月にドイツが無条件降伏し、世界を相手に戦っているのは日本のみとなりました。 東京はその後も何度か大空襲に遭い、全土が焼け野原となりました。 アメリカ軍は昭和20年(1945)5月に東京を爆撃目標リストから外したほどです。 被害に遭ったのは東京だけではありません。 大阪、名古屋、福岡など、日本の主要都市は軒並み焦土にされ、全国の道府県、430の市町村が空襲に遭いました。 アメリカ軍の戦闘機は逃げ惑う市民を、動物をハンティングするように銃撃しました。 空襲による死者数は、調査によってバラツキがありますが、数十万人と言われています。 アメリカ軍による最も残虐な空襲は、昭和20年(1945)8月に、広島と長崎に落とした2発の原子爆弾(原爆)でした。 これも無辜の一般市民の大量虐殺を意図したもので、明白な戦争犯罪です。 この時点では日本の降伏は目前だったにもかかわらず、人類史上最悪の非道な行為に及んだことは許し難いものがあります。 しかし今もアメリカ人の多くは 「原爆投下は正しかった」 と考えています。 その理由は原爆のお陰で戦争が早期に集結し、多くのアメリカ兵の命が救われたからというものです。 実に利己的な考え方ですが、広島と長崎に原爆を投下した本当の目的はそれではありません。 もし原爆の威力を見せつけることで日本に戦争終結を迫りたいなら、人口密集地に投下しなくてもよかったはずですし、仮に都市に投下するなら事前に告知して住民が退避する時間を与えるということも出来たはずです。 これは何も私の考えではありません。 実際に、アメリカ国内で原爆の関係者(原爆に関する諮問機関である暫定委員会のメンバー)が政府に提言していた内容です。 しかし残念なことに、それらの提言は取り上げられることはなく、広島と長崎に原爆は投下されました(長崎は当初の目的地である小倉上空が雲で覆われていたため、第2候補地であった長崎に投下された)。 原爆投下の目的の第1は、原爆の効果を知るためであったと言っていいでしょう。 その根拠は、原爆投下候補地には通常の空爆を行っていなかったことが挙げられます。 ちなみに京都がほとんど空襲されなかったのも候補地の1つであったからです。 アメリカ軍が文化財を守るため、京都、奈良などの古都を空爆しなかったという話がありますが、これは完全な誤りです。 この誤解に便乗し、中国人の建築家がアメリカに対して 「京都、奈良を空爆しないように進言した」 という話がありますが、これは悪質な捏造です。 何より忘れてはならないのは、原爆投下には有色人種に対する差別が根底に見えるということです。 仮にドイツが徹底抗戦していたとしても、アメリカはドイツには落とさなかったでしょう。 大東亜戦争が始まった途端、アメリカは約8割の日系アメリカ人(アメリカ市民)の財産を剥奪し、強制キャンプに送りましたが、第二次世界大戦中もドイツ系アメリカ人に対しては特に制約をしていません(ナチスへの協力者は除く)。 昭和19年(1944)9月にニューヨークのハイドパークで行われたルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の 「核に関する秘密協定」 において、原爆はドイツではなく、日本へ投下することを確認し合っています。 原爆投下のもう1つの目的は、ソ連に対しての示威行為です。 アメリカは戦後の対ソ外交を有利に運ぶために原爆投下を昭和20年(1945)の5月には決定していました。 原爆はソ連に対して何よりの軍事的威圧になると見ていたからです。 2発目の原爆が落とされた昭和20年(1945)8月9日、ソ連が 「日ソ中立条約」 を破って参戦しました。 最早日本が戦争を継続するのは不可能でした。 5日後の昭和20年(1945)8月14日、日本は 「ポツダム宣言」 を受諾すると連合軍に通達します。 ここに日本が3年9カ月戦った大東亜戦争の終わりが決定しました(同時に8年続いた支那事変も終結)。 古代以来、1度も敗れることがなかった日本にとって初めての敗北でした。 同時に、16世紀より続いていた欧米列強による植民地支配を跳ね返し、唯一独立を保った最後の有色人種が、遂に白人種に屈した瞬間でもありました。 「大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった」 と言う人がいますが、この見方は誤りです。 というより、正確な意味での侵略ではありません。 日本は中国以外のアジア諸国とは戦争をしていないからです。 日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスでした。 日本が 「大東亜共栄圏」 という理想を抱いていたのは確かです。 「大東亜共栄圏」 とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満州、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策でした。 昭和18年(1943)には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて 「大東亜会議」 を開催しています。 また同年昭和18年(1943)8月1日にビルマを、昭和18年(1943)10月14日にフィリピンの独立を承認しています(ただし、アメリカとイギリスは認めなかった)。 残念ながら日本の敗戦により、 「大東亜共栄圏」 が実現されることはありませんでしたが、戦後、アメリカやイギリスなど旧宗主国は再びアジアの国々を支配することはできず、アジア諸国の多くが独立を果たしました。 この世界史上における画期的な事実を踏まえることなく、短絡的に 「日本はアジアを侵略した」 と言うのは典型的な自虐史観による見方です。 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム GHQが行った対日占領政策の中で問題にしたいのが、日本国民に 「戦争責任」 を徹底的に伝える 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) でした。 分かり易く言えば、 「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」 です。 これは日本人の精神を粉々にし、2度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものでした。 「極東軍事裁判」(東京裁判) もその1つと言えます。 そして、これらの施策は結果的に日本人の精神を見事に破壊しました。 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」 という言葉は、文芸評論家の江藤淳が昭和58年(1983)から月刊誌「諸君!」に連載した『閉ざされた空間』で使った呼称ですが、彼はGHQの内部文書から、占領軍がそうした意図を持っていたことを明らかにしました。 同連載は平成元年(1989)に書籍化されましたが、言論史を塗り替える画期的な本となりました。 その後、教育学者の高橋史郎や翻訳家の関野通夫らが多くの1次資料を発掘し、江藤の説を裏付けています。 同書が明らかにした事は紛れもない事実で、実際、昭和20年(1945)10月2日に発せられたGHQの一般命令書の中に、 「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在及び将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」 と明記されています。 GHQはその方針に従って、自分たちの意に添わぬ新聞や書物を発行した新聞社や出版社を厳しく処罰しました。 江藤がアメリカ国立公文書館分室で見付けた前述の文書には、禁止項目は全部で30もありました。 禁止事項の第1は 「GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部及び最高司令官)に対する批判」 です。 2番目は 「東京裁判に対する批判」、 3番目は 「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」 でした。 アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中華民国、その他の連合国に対する批判も禁じられていました。 更に何故か朝鮮人に対する批判も禁止事項に含まれていました。 占領軍兵士による犯罪の報道も禁じられ、またナショナリズムや大東亜共栄圏を評価すること、日本の戦争や戦犯を擁護することも禁じられました。 新聞や雑誌にこうした記事が載れば、全面的に書き換えを命じられました。 GHQの検閲は個人の手紙や電話にまで及びました。 進駐軍の残虐行為を手紙に書いたことで、逮捕された者もいます。 スターリン時代のソ連ほどではありませんでしたが、戦後の日本に言論の自由は全くありませんでした。 こうした厳しい検閲を、日本語が堪能でないGHQのメンバーだけで行えたはずがありません。 多くの日本人協力者がいたことは公然の秘密でした。 一説には4000人の日本人が関わったと言われています。 更にGHQは戦前に出版されていた書物を7000点以上も焚書しました。 焚書とは、支配者や政府が自分たちの意に添わぬ、あるいは都合の悪い書物を焼却することで、最悪の文化破壊の1つです。 歴史上では秦の始皇帝とナチスが行った焚書が知られていますが、GHQの焚書も悪質さにおいてそれに勝るとも劣らないものでした。 驚くべきは、これに抵抗する者には警察力の行使が認められており、違反者には10年以下の懲役もしくは罰金という重罰が科せられていたことです。 もちろん、この焚書にも多くの日本人協力者がいました。 特に大きく関与したのは、日本政府から協力要請を受けた東京大学の文学部だと言われています。 東京大学の文学部内には戦犯調査のための委員会もあったとされていますが、この問題を占領の終了後もマスメディアが全く取り上げようとしないのは実に不可解です。 検閲や焚書を含むこれらの言論弾圧は 「ポツダム宣言」 に違反する行為でした。 「ポツダム宣言」 の第10項には 「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権は確立されるべきである」 と記されています。 つまりGHQは明白な 「ポツダム宣言」 違反を犯しているにもかかわらず、当時の日本人は一言の抵抗すらできなかったのです。 「大東亜戦争」 という言葉も使用を禁止されました。 GHQは 「太平洋戦争」 という名称を使うよう命じ、出版物に 「大東亜戦争」 という言葉を使えば処罰されたのです。 これは事実認識の点で非常に問題のある措置でした。 というのも、日本政府が閣議決定した 「大東亜戦争」 という呼称は、日中戦争から対米戦、ポツダム宣言受諾までの一連の戦争の総称ですが、 「太平洋戦争」 と言うと、中国大陸や東南アジアでの戦いが含まれないことになります。 しかも、 「太平洋戦争」 という呼称は、世界史で言えば、19世紀終盤に南米で起きたボリビア、ペルー、チリの戦争を指すのが一般的です。 GHQが 「大東亜戦争」 という呼称を禁じたのは、日本が欧米諸国に支配されていたアジアの解放を謳う意味で使った 「大東亜共栄圏」 を構築するための戦争であったというイメージを払拭させるためです。 GHQはたとえ大義名分であったとしても 「アジアの解放」 のための戦争であったと言われるのを嫌ったのです。 この検閲は7年間続きましたが、この時の国民の恐怖が国民の心の中に深く残ったためか、現在でも、マスメディアは決して 「大東亜戦争」 とは表記せず、国民の多くにも 「大東亜戦争」 と言うのを躊躇する空気があります。 如何にGHQの検閲と処罰が恐ろしかったかが想像できます。 『眞相はかうだ』による洗脳 GHQの 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) は新聞とラジオ放送によっても行われました。 昭和20年(1945)12月8日(この日は真珠湾攻撃からちょうど4年目の日)より、全国の新聞に 「太平洋戦争史」 というタイトルでGHQによる宣伝工作記事が連載され、その翌日からNHKラジオで 『眞相はかうだ』 という番組の放送が始まりました。 いずれも大東亜戦争中の政府や軍の腐敗・非道を暴くドキュメンタリーをドラマ風に描いたもので、国民は初めて知らされる 「真相」 に驚きました。 新聞連載もラジオ放送も、その目的は日本国民に 「太平洋戦争は中国をはじめとするアジアに対する侵略戦争であった」 ということを徹底的に刷り込むためのものでした。 『眞相はかうだ』 はGHQが全て台本を書いており(そのことは国民に知らされていなかった)、放送される内容も占領政策に都合のいいものでした。 GHQは翌年昭和21年(1946)も 『眞相箱』 『質問箱』 というタイトルで、約1年に渡り洗脳番組を放送し続けました(依然、GHQが制作していることは伏せられていた)。 GHQが巧妙だったのは、番組の中に時折、日本人の良い面を織り交ぜたことでした。 そうすることで内容に真実味を持たせたのです。 しかし戦前の政府や軍を批判する内容には、多くの虚偽が含まれていました。 当時も、これらの番組内容は真実ではないのではないかと疑義を抱く人はいました。 ところが、彼らが声を上げても、そうした記事は 「占領政策全般に対する破壊的批判」 と見做され、全文削除されていたのです。 かくの如く言論を完全に統制され、ラジオ放送によって(当時はインターネットもテレビもない)洗脳プログラムを流され続ければ、国民が 「戦前の日本」 を徹底的に否定し嫌悪するようになるのも無理からぬことです。 ただ、何より恐ろしいのは、この洗脳の深さです。 GHQの占領は7年間でしたが、それが終わって70年以上経った現在でも、 「歴史教科書」 などの影響もあり、多くの日本人が 「戦前の政府と軍部は最悪」 な存在で、 「大東亜戦争は悪辣非道な侵略戦争であった」 と無条件に思い込んでいます。 もちろん戦前の政府や軍部に過ちはありました。 しかし連合国にも過ちはあり、また大東亜戦争は決していわゆる 「侵略戦争」 ではありませんでした。 繰り返しますが、日本には中国を占領する意思はなく(人口と領土を考えても不可能であるし、またそうした作戦は取っていない)、またそれ以外のアジアの人々と戦争をしたわけではありません。 戦後、日本は僅か数年占領下においたアジア諸国に賠償金を支払いましたが、その国々を数十年から300年に渡って支配していたオランダ、イギリス、フランス、アメリカは、賠償金など一切払っていないばかりか、植民地支配を責められることも、少数の例を除いてはほとんどありません。 それは何故かー日本だけが誠意をもって謝罪したからです。 日本人には、自らの非を認めるにやぶさかでない、むしろ非を進んで認めることを潔しとする特有の性格があります。 他の国の人々と違って、謝罪を厭わないのです。 こうした民族性があるところへ、GHQの 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) によって贖罪意識を強く植え付けられたことで、当然のようにアジア諸国に深い謝罪の意を表したのです(もちろん連合国が謝罪させた面もある)。 現代においても歴史学者や評論家の中には 「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program)など存在しない」 「WGIPは妄想の産物」 と断定する人が少なくありません。 しかしWGIPは陰謀論ではなく、厳然と存在するものです。 なぜならGHQの公式文書には、 「日本人にWGIPを植え付ける」 という文言が入った書類が多数残されているからです。 例えば、GHQの民間情報教育局(CIE)が昭和23年(1948)3月3日に出した文書のタイトルは、そのものずばり 「WGIPについて」 です。 そこには次のような文章があります。 「その任務を果たすためにCIEは1945年10月から1946年6月までの期間に第1段階のWGIPを開始した」 「このプログラムは日本の全ての公衆情報メディア、即ち新聞、書籍、雑誌、ラジオ、映画を通じて実施された」 (有馬哲夫著『日本人はなぜ自虐的になったのか』より) ここにはGHQ自身がはっきりとWGIPを開始したと書いています。 これほど明白な証拠はありません。 これはあくまで一例で、GHQが日本人にWGIPを植え付けようとしていたことが書かれている文書はいくらでも残っています。 WGIPを否定する人たちは、こうした1次資料を無視します。 あるいは 「ウォー・ギルトとは『戦争の有罪性』を説くもの」 という風に論理の摩り替えを行います。 ところで、このGHQの文書で注目すべきは、 「日本の全ての公衆情報メディア、即ち新聞、書籍、雑誌、ラジオ、映画を通じて実施された」 というくだりです。 実はWGIPを試みたのはGHQですが、その後、それを積極的に推し進めたのは、他ならぬ私たちの国のメディアだったのです。 更にそれを後押しした組織に 「教育界」 があります。 教職追放の後、大学やその他の教育機関にGHQに阿る教授や教諭が大量に入り、若者や子供たちに自虐思想を植え付けていきました。 メディアと教育による 「洗脳工作」 は、連合軍の占領期間中に弛まず行われました。 その結果、日本の若年層の間に、過剰に自己を否定する、いわゆる自虐史観が蔓延していきました。 そして後に彼らの中から、 「君が代」 や 「日の丸」 を否定する人々が大量に生まれました。 実に悔しいながら、日本人をマインドコントロールするGHQの占領政策は見事に成功したと言わざるを得ません。 ちなみに戦後、GHQに最も忠実な報道機関となったのが朝日新聞と毎日新聞です。 特に朝日新聞は自ら進んでGHQの政策を肯定し、マッカーサーを称賛しました。 昭和26年(1951)に彼が連合国軍最高司令官を解任され、アメリカに帰国する際にはこう書きました。 「我々に民主主義、平和主義の良さを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった」(昭和26年【1951】4月12日) まるで毛沢東か金日成を礼賛する共産主義国の機関紙のようです。 呆れたことに、この時、マッカーサーを顕彰する 「マッカーサー記念館」 を作ろうという提案がなされ、その発起人に当時の朝日新聞社長の長谷部忠が名を連ねています(毎日新聞社社長、本田親男の名前もある)。 朝日新聞社や毎日新聞社にとって、ダグラス・マッカーサーはそれほど偉大な人物であったということでしょう。 昭和天皇 「ポツダム宣言受諾」 は、昭和20年(1945)8月9日の御前会議で決定されました。 場所は宮中御文庫附属庫の地下10メートルの防空壕内の15坪ほどの一室でした。 時刻は午後11時50分。 列席者は鈴木貫太郎首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、枢密院議長の7人でした(他に陪席4人)。 司会の首相を除く6人は、 「ポツダム宣言受諾派」(外務大臣・海軍大臣・枢密院議長) と 「徹底抗戦派」(陸軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長) の真っ二つに分かれました。 日本政府が 「ポツダム宣言」 を受諾すれば、昭和天皇は戦犯として処刑される可能性もありましたが、会議中、昭和天皇は一切発言しませんでした。 時に昭和天皇は44歳でした。 昭和天皇は、その生涯に渡って、 「君臨すれども親裁(君主自らが政治的な採決を下すこと)せず」 という姿勢を貫いていました。 「親裁」 とは、君主自らが政治的な採決を下すことです。 従って国民が選んだ内閣の決定には口を挟まないという原則を自らに課していたのです。 それを行えば専制君主となり、日本は立憲国ではなくなるという考えを持っていたからです。 昭和3年(1928)の 「張作霖爆殺」 に関する田中義一首相の報告に対して不満を述べたことで内閣が総辞職したことを反省し、以後は 「拒否権」 も含めて、 「親裁」(君主自らが政治的な採決を下すこと) は行いませんでした。 唯一の例外が、軍事クーデターである 「2・26事件」 の際に制圧せよと命じた時です。 大東亜戦争の開戦には反対だったにもかかわらず(開戦回避のため、水面下で努力していた)、開戦が決まった御前会議においては、内閣の決定に対して一言も異議を唱えませんでした。 「ポツダム宣言」 を巡っての会議は、 「徹底抗戦派」 と 「ポツダム宣言受諾派」 が共に譲らず、完全に膠着状態になりました。 日付が変わって昭和20年(1945)8月10日の午前2時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が、 「事態は一刻の遷延も許されません」 「誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います」 と言いました。 ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、 「それならば、自分の意見を言おう」 と、初めて口を開きました。 一同が緊張して見守る中、昭和天皇は言いました。 「自分は外務大臣の意見に賛成できる」 日本の敗戦が決まった瞬間でした。 恐ろしいまでの静寂の後、部屋にいた全員がすすり泣き、やがてそれは号泣に変わりました。 薄暗い地下壕で、11人の男たちが号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言いました。 「大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきた事を見ると、予定と結果が大いに違う」 「今も陸軍大臣、陸軍参謀長と海軍軍令部総長は本土決戦で勝つ自信があると言っているが、自分は心配している」 「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまうのではないか」 「そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来ようか」 「自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである」 「今日となっては、1人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人たちが将来再び起ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」 「そのためなら、自分はどうなっても構わない」 この時の御前会議の様子は、陪席した迫水久常書記官長(現在の内閣官房長官)が戦後に詳細を語ったテープが残っています(国立国会図書館所蔵)。 この録音を文字起こしした文章を読めば、当夜の異様な緊迫感がこれ以上はないくらいの臨場感をもって迫ってきます。 日本政府はその日昭和20年(1945)8月10日の朝、連合国軍に 「ポツダム宣言受諾」 を伝えますが、この時、 「国体護持」(天皇を中心とした秩序【政体】の護持) を条件に付けました。 連合国軍からの回答は昭和20年(1945)8月13日に来ましたが、その中に 「国体護持」 を保証する文言がなかったため(昭和天皇の処刑の可能性もあった)、政府は昭和20年(1945)8月14日正午に再び御前会議を開きます。 この時の列席者は、昭和20年(1945)8月9日の時の7人に加え、全閣僚を含む計23人でした。 この席上で 「(陛下を守れないなら)本土決戦やむなし」 という声が上がりますが、昭和天皇は静かに立ち上がって言いました。 「私の意見は変わらない」 「私自身は如何になろうとも、国民の生命を助けたいと思う」 最早列席者一同は慟哭するのみでした。 そして昭和天皇は最後にこう言いました。 「これから日本は再建しなくてはならない」 「それは難しい事であり、時間も長くかかるだろうが、国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう」 「自分も国民と共に努力する」 (迫水久常内閣書記官長の証言録より) 同日昭和20年(1945)8月14日、 「ポツダム宣言受諾」 は閣議決定され、午後11時、連合国側へ通達されました。 こうして大東亜戦争は終結しました。 この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇のお言葉が、今日、文科省が選定したどの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いようがありません。 従ってこの事を知っている日本人はほとんどいないのが実情です。 しかし、日本人であるならば、この事は永久に忘れてはならない事だと思います。 戦後、昭和天皇の戦争責任について様々な意見が出されてきました。 もちろん法的には責任は発生しませんが、この問題を語る前に、昭和天皇の政治に対するモットーについて述べたいと思います。 大日本帝国憲法の基本原則は、統治権は天皇が総覧( 全体に渡って目を通すこと)するが、実際の政治は政府が行うというものでした。 よって昭和天皇は、 「君臨すれども親裁(君主自らが政治的な採決を下すこと)せず」 という政治姿勢を貫いていました。 つまり昭和天皇は立憲君主であって、専制君主ではなかったのです。 昭和天皇は御前会議の場でも基本的に閣僚たちの意見を聞いているだけで、自らの意見を口にすることはありませんでした。 戦争中も、軍部が天皇大権である 「統帥権」【大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)】 を盾に、全ては天皇陛下の命令であるという体で国民を動かして戦争に突き進んだというのが実態でした。 昭和天皇がその生涯において、政治的な決断(親裁)を下したのは、2・26事件と終戦の時だけでした。 厳密に言えば、昭和3年(1928)の 「張作霖爆殺事件」 に対して不快感を露わにしたケースがありましたが、そのことで内閣が総辞職した結果を見て、昭和天皇は内閣の決定には拒否権を発動しない旨を自らに課していました(その後の昭和11年【1936】の「2・26事件」は軍の統帥権者として反乱軍の鎮圧を命じたもの)。 昭和20年(1945)9月27日、昭和天皇がアメリカ大使館でマッカーサーと初めて会談した時、マッカーサーは昭和天皇が命乞いをしに来たと思っていました。 ところが、そうではありませんでした。 昭和天皇はマッカーサーにこう言ったのです。 「私は、国民が戦争遂行に当たって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」 (『マッカーサー大戦回顧録』より) この時、同行していた通訳がまとめた昭和天皇の発言のメモに、後日、藤田尚徳侍従長が目を通し、回想録に次のように記しています。 「陛下は次の意味のことを元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、色々の責任が追及されているが、責任は全て私にある』 『文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない』 『私の一身は、どうなろうと構わない』 『私はあなたにお任せする』 『この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』」 (『侍従長の回想』) マッカーサーは昭和天皇のこの言葉に深い感銘を受けます。 「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした」 「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」 (『マッカーサー大戦回顧録』より) この時の会談の際、車で訪問した昭和天皇をマッカーサーは出迎えませんでした。 昭和天皇は戦犯候補に挙げられていたので、これは当然でした。 しかし帰る時にはマッカーサーは昭和天皇を玄関まで見送りに出ています。 恐らく会談中に昭和天皇の人柄に感服したためだと思われます。 「君臨すれども親裁(君主自らが政治的な採決を下すこと)せず」 という存在でありながら、同時に日本の 「統治権の総攬者」 であった昭和天皇の戦争責任というテーマは、イデオロギーや政治的な立ち位置によって見方が変わり、また永久に結論が出ない問題ではあります。 「ご聖断」 が遅過ぎたという声もあります。 しかし、仮に半年前に天皇が終戦を決断したとしても、連合国、特にアメリカ政府がそれに同意する保証はなく、日本の陸軍がそれを呑むこともなかったと思われます。 昭和20年(1945)8月14日の時点でさえ、陸軍の中には、更なる犠牲を出しても本土決戦をすべきと主張する者が何人もいたのです。 余談ですが、戦争中、昭和天皇は1度も皇居から離れませんでした。 東京は何度もアメリカ軍の大空襲を受けており、周囲の者は疎開を勧めましたが、昭和天皇は 「目の前で君臣が次々と死んでいくのに、なぜ朕だけが疎開などできようか」 と言い、頑として拒否しました。 昭和天皇は死を覚悟していたのです。
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