<■765行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> <産経抄>戦後80年の石破談話は百害あって一利なし 2025/2/1 5:00 https://www.sankei.com/article/20250201-ZN267Q7FURL5LJ2P7PJRZB2II4/ 「三つ子の魂百まで」 とも 「雀(すずめ)百まで踊り忘れず」 とも言うが、人の昔からの性質や考え方はそんなに変わらない。 石破茂首相は先月2025年1月29日の国際安全保障に関するシンポジウムで、こう語った。 「今年2025年は敗戦後80年だ」 「今を逃して、戦争の検証はできないだろう」 ▼もう19年も前の平成18年6月のことである。 東京都内で開かれた首相の衆院議員在職20年記念パーティーを覗くと、来賓のベテラン議員らが口々に 「石破君は将来の首相候補」 と称揚していた。 ところが、挨拶に立った首相はこんな場違いなことを述べたのだった。 「戦争責任をもう1回考えたい」 ▼ずっと以前から自分なりに、先の大戦の総括をしたいと考えてきたのだろう。 シンポでの言葉は、戦後80年談話を発出したいとの意欲表明なのか。だが、中国が 「抗日反ファシズム戦争勝利80周年キャンペーン」 を準備している今年2025年、新談話を出せば反日勢力に利用されよう。 ▼首相は18年9月には、毎日新聞鳥取県版で強調した。 「日中戦争は明らかに侵略だし、韓国併合は植民地化」。 南京事件や慰安婦問題を巡っても、過去に中国や韓国の主張に寄り添う発言をしている。 せっかく安倍晋三元首相が戦後70年談話で戦後の謝罪外交に終止符を打ち、戦後を終わらせようとしたのに、時代を逆行させてどうするのか。 ▼自民党総裁選を争った小林鷹之元経済安全保障担当相は先月2025年1月30日、80年談話の意義を否定した。 「出す必要は全くない」 「そのための70年談話だ」。 実際、70年談話の最後の段落には 「終戦80年、90年、更には100年に向けて…」 とあり、以後の時代のことも網羅済みである。 ▼首相のお気持ちを表明する談話など、百害あって一利なしだと断言する。満州事変 世界恐慌の少し前の昭和3年(1928)、満州を実効支配していた張作霖が列車ごと爆殺されるという事件が起きたのです。 元は馬賊だった張作霖は権謀術数に長けた人物で、日露戦争後に日本陸軍の関東軍と手を結び、軍閥を組織して満州を実効支配し、徴収した金を全て自分の物としていました。 当初、張作霖と関東軍の関係は良好でしたが、大正の終わり頃から、物資の買い占め、紙幣の乱発、増税などを行い、関東軍と利害が対立するようになっていきます。 更に欧米の資本を入れて、日本の南満州鉄道(満鉄)と並行する鉄道を敷設したことで、両者の衝突は避けられなくなりました。 満鉄は鉄道事業が中心として満州全域に広範な事業を展開する会社で、日本軍による満州経営の中核たる存在であっただけに、関東軍としても見過ごすわけにはいかなかったのです。 張作霖爆殺事件はそんな状況下で起こりました。 事件の首謀者は関東軍参謀と言われてきましたが、ソ連の関与があったとする説もあり、現在も論争が続いています。 ただ、この時、 「張作霖爆殺」 に関しての陸軍の調査と、彼らを庇うかのように二転三転する内閣の報告に関して、昭和天皇は不快感を顕にし、田中義一首相(元陸軍大臣)の内閣は総辞職しました。 天皇は自分の言葉(それを首相に伝えたのは鈴木貫太郎侍従長)が内閣に影響を与えてしまったことを反省し、以後は内閣の決定には拒否権を発動するなどの 「親裁」 は行わないようになりました。 それをやれば日本は専制君主国家になってしまうという思いからです。 張作霖の跡を継いだ息子の張学良はこの後、満州に入植してきた日本人と朝鮮人の権利を侵害する様々な法律を作ります。 また父の張作霖が満鉄に並行して敷いた鉄道の運賃を異常に安くすることで満鉄を経営難に陥れました。 そのため満鉄は昭和5年(1930)後半から深刻な赤字が続き、社員2000人の解雇を余儀なくされたのです。 日露戦争でロシア軍を追い出して以降、日本は満鉄をはじめとする投資により、満州のインフラを整え、産業を興してきました。 そのお陰で満州は大発展したのです。 この頃、清では戦乱が相次ぎ、日本は満州の治安を守るためにを置いていました。 そのため清から大量の難民が押し寄せることとなります。 そうしたこともあって日露戦争が始まった明治37年(1904)頃には約1000万人だった満州の人口は、20数年の間に3000万人にも増えていました。 同じ頃、蒋介石率いる中国国民党政権と中国共産党による反日宣伝工作が進められ、排日運動や日本人への脅迫やイジメが日常的に行われるようになりました。 日本人に対する暴力事件も多数発生しました。 代表的な事件は 「南京事件」 と呼ばれるもので、これは昭和2年(1927)3月に、蒋介石率いる中国国民党が南京を占領した際、中華民国の軍人と民衆の一部が、日本を含む外国領事館と居留民に対して行った襲撃事件です。 暴徒は外国人に対して、暴行・略奪・破壊などを行い、日本人、イギリス人、アメリカ人、イタリア人、デンマーク人、フランス人が殺害されました(この時、多くの女性が凌辱された)。 この暴挙に対して、列強は怒り、イギリスとアメリカの艦艇は直ちに南京を砲撃しましたが、中華民国への協調路線(及び内政不干渉政策)を取る幣原喜重郎外務大臣(「日英同盟」を破棄して「4カ国条約」を結んだ全権大使)は、中華民国への報復措置を取らないばかりか、逆に列強への説得に努めました。 更に日本政府は国内の世論を刺激しないように、 「我が在留婦女にして凌辱を受けたる者1名もなし」 と嘘の発表をしたため、現状を知る南京の日本人居留民を憤慨させたのです(政府は居留民たちが事実を知らせようとする集会さえも禁じている)。 この時、報復攻撃をしなかった日本に対し、中国民衆は感謝するどころか、逆に 「日本の軍艦は弾丸がない」 「張子の虎だ」 と嘲笑したと言われています。 事実、これ以降、中国全域で、日本人に対するテロ事件や殺人事件が急増します。 満州でも、中国共産党に通じたテロ組織が、日本人居留民や入植者を標的にしたテロ事件を起こすようにもなりました。 しかし被害を受けた日本人居留民が領事館に訴えても、前述の通り、時の日本政府は、第2次幣原喜重郎外交の 「善隣の誼(よしみ)を淳(あつ)くするは刻下の一大急務に属す」(中国人と仲良くするのが何より大事) という対支外交方針を取っていたため、訴えを黙殺しました。 それどころか幣原喜重郎外務大臣は、 「日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう」 という理由で、応援警官引き揚げを決定します。 そのため入植者たちは、満州の治安維持をしている関東軍を頼り、直接、被害を訴えるようになっていきます。 それでもテロ事件は収まらず、昭和5年(1930)後半だけで、81件、死者44人を数える事態となりました(負傷者は数えきれない)。 この時、中国人による嫌がらせの一番の標的になっていたのが朝鮮人入植者でした。 これは多分に両者の長年の確執と性格による所もあったと考えられます。 韓国併合により当時は 「日本人」 だった朝鮮人は、何かにつけて中国人を見下す横柄な態度を取っていたと言われ、中国人にしてみれば、長い間、自分たちの属国の民のような存在と思っていた朝鮮人にそのように扱われのが我慢ならなかったものと考えられます。 中国人から執拗な嫌がらせを受けた朝鮮人入植者は、日本政府に対して 「日本名を名乗らせてほしい」 と訴えます。 最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなります。 日本政府の無為無策では南満州鉄道や入植者を守れないという意見が強まる中、関東軍は昭和6年(1931)9月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満州の治安を守るという名目で軍事行動を起こしました。 政府は不拡大方針を取りましたが、関東軍は昭和7年(1932)7月までに満州をほぼ制圧し、張学良を追放しました。 いわゆる 「満州事変」 です。 「事変」 とは、大規模な騒乱状態ではあるが、宣戦布告がなされていない国家間の軍事的衝突を意味します。 以後、日本は中国大陸での泥沼の戦いに突入していくこととなります。 盧溝橋事件から支那事変 昭和12年(1937)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍が、中華民国軍が占領している後方の陣地から射撃を受けたことがきっかけで、日本軍と中華民国軍が戦闘状態となります。 ただこれは小競り合いで、4日後の昭和12年(1937)7月11日には現地で停戦協定が結ばれました。 しかし東京の陸軍本部は派兵を望んでいて、最初は不拡大方針だった近衛文麿首相はそれに押し切られるように、昭和12年(1937)7月11日の臨時閣議で派兵を決めます。 盧溝橋の発砲事件に関しては、中国共産党が引き起こしたという説もありますが、真相は不明です。 異常な緊張状態の中、その月昭和12年(1937)7月の29日、北京東方で、 「通州事件」 通州事件(2) Sさんの体験談 https://nezu3344.com/blog-entry-6033.html が起きます。 この事件は、 「冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」(昭和10年【1935】から昭和13年【1938】まで河北省に存在した自治政府であるが、その実体は日本の傀儡政権であるとされる) の中国人部隊が反乱を起こし(中国国民党や中国共産党が使嗾【しそう:そそのかすこと】したとも言われる)、通州にある日本人居留地を襲い、女性や子供、老人や乳児を含む民間人233人を虐殺した事件です。 その殺害方法は猟奇的とも言うべき残虐なもので、遺体のほとんどが生前に激しく傷付けられた跡があり、女性は子供から老人までほぼ全員強姦された上、性器を著しく損壊されていました。 これらの記録や写真は大量に残っていますが、まともな人間なら正視に耐えないものです。 この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、日本国内に反中感情が高まりました。 また昭和12年(1937)8月に上海の租界で2人の日本の軍人が射殺された(大山事件)こともあり、日本人居留地を守っていた日本軍と中華民国軍が戦闘状態に入りました(第2次上海事変)。 この時、ドイツの指導と武器援助を受けていた中華民国軍は屈強で、日本軍は思わぬ苦戦を強いられます。 当時、上海の租界には約2万8000人の日本人が住んでいましたが、実は大山事件前にも、日本人を標的にした中国人によるテロ事件や挑発的行為が頻発していました。 昭和6年(1931)、商社や商店、個人が受けた暴行や略奪は200件以上。 通学児童に対する暴行や嫌がらせは約700件。 殺害事件だけでも、昭和7年(1932)から昭和12年(1937)までの間に何件も起きています。 犠牲者も軍人だけでなく、托鉢僧や商社員、新聞社の記者など民間人が多数含まれていました。 第2次上海事変は中華民国の各地に飛び火し、やがて全国的な戦闘となりました。 ただ、日本がこの戦闘を行ったのは、そもそもは自国民に対する暴挙への対抗のためでした。 「暴支膺懲」(ぼうしようちょう) というスローガンが示すように 「暴れる支那を懲らしめる(膺懲)」 という形で行った戦闘がいつの間にか全面戦争に発展したというのが実情です。 当時、日本は中華民国との戦闘状態を総称して 「支那事変」(あるいは「日華事変」) と呼んでいました。 支那事変は大東亜戦争が始まるまでの4年間、両国とも宣戦布告を行わずに戦い続けた奇妙な戦争でした。 その理由は、 「戦争」 となれば、第3国に中立義務が生じ、交戦国との交易が中立義務に反する敵対行為となるからです。 従って両国が共に 「事変」 扱いとして戦い続けたため、国際的にも 「戦争」 とは見做されませんでした(実質は戦争)。 装備に優る日本軍は僅か3カ月で上海戦線を突破し、その年昭和12年(1937)の12月には首都南京を占領しました。 日本軍は、首都さえ落とせば、中華民国は講和に応じるだろうと見ていたのですが、蒋介石は首都を奥地の重慶に移して抵抗します。 中華民国には、ソ連とアメリカが積極的な軍事援助を行っていて、最早戦争の早期終結は望めないこととなっていました。 全面戦争へ 「支那事変」 は確固たる目的がないままに行われた戦争でした。 乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるという世論に押される形で戦闘行為に入ったものの、気が付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものでした。 名称だけは 「事変」 となっていましたが、最早完全な戦争でした。 しかもこの戦いは現地の軍の主導で行われ、政府がそれを止めることが出来ないでいるという異常なものでもありました。 そこには5・15事件や2・26事件の影響があるのは明らかです。 支那事変が始まった翌年の昭和13年(1938)には、 「国家総動員法」(昭和13年(1938)4月1日に公布、5月5日に施行) が成立しました。 これは 「戦時に際して、労働力や物資割り当てなどの統制・運用を、議会の審議を経ずに勅令で行うことが出来るようにした法律」 です。 具体的には、国家は国民を自由に徴用でき、あらゆる物資や価格を統制し、言論を制限し得るといった恐るべき法律でした。 ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了陸軍中佐の余りに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議の声が上がったところで、佐藤が 「黙れ!」 と一喝したことがありました。 この時、議員たちの脳裏に2年前1936年の2・26事件が浮かんだことは容易に想像できます。 佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂気の法案は僅か1カ月で成立しました。 国力の全てを中国との戦争に注ぎ込もうと考えていた日本は、この年昭和13年(1938)、2年後に東京で開催予定であった 「オリンピック」 と 「万国博覧会」(万博) を返上します。 これは、最早世界の国々と仲良く手を結んでいこうという意思がないことを内外に宣言したに等しい決断でした。 このオリンピックと万博の返上は陸軍の強い希望であったと言われています。 昭和12年(1937)12月、日本軍による南京占領の後、 「30万人の大虐殺」 が起きたという話がありますが、これはフィクションです。 この件は日本と日本人の名誉に関わることですから、やや紙幅を割いて書きます。 「南京大虐殺」 は、日本軍の占領直後から、蒋介石が国民党中央宣伝部を使って盛んに宣伝した事件です。 例えば、南京大虐殺を世界に最初に伝えたとされる英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったオーストラリア人記者のハロルド・ティンパリは、実は月1000ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明しています。 その著作 ”What War Means:The Japanese Terror in China"(邦訳『外国人の見た日本軍の愚行ー実録・南京大虐殺ー』) の出版に際しては、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行われていたことが近年の研究で明らかになっています。 また『南京大虐殺』を世界に先駆けて報じたアメリカ人記者ティルマン・ダーディンも『シカゴ・デイリー・ニューズ』記者のアーチボルド・スティールも南京陥落直後に南京から離れています(つまり伝聞)。 当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に報じられてはいません。 30万人の大虐殺となれば、世界中でニュースになったはずです(捕虜の処刑は別)。 また、同じ頃の南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人です。 もう1つおかしいことは、日本軍が占領した1カ月後に南京市民が25万人に増えていることです。 いずれも公的な記録として残っている数字です。 仮に日本軍が1万人も殺していたら、住民は蜘蛛の子を散らすように町から逃げ出していたでしょう。 南京市民が増えたのは、街の治安が回復されたからに他なりません。 当時の報道カメラマンが撮った写真には、南京市民が日本軍兵士と和気藹々と写っている日常風景が大量にあります。 占領後に捕虜の殺害があったことは事実ですが、民間人を大量虐殺した証拠は一切ありません。 20万人という数字は安全区だけのもので、それ以外の地区は含まれていないという主張もありますが、安全区以外の地域にはほとんど人がいなかったという外国人の証言が多数残っています。 もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はありました。 ただ、それをもって大虐殺の証拠とは言えません。 今日、日本は世界で最も治安の良い国と言われていますが、それでも殺人事件や強姦事件は年間に何千件も起きています(近年の統計によれば、殺人は900〜1000件、強制性交等はそれ以上)。 ちなみにアメリカでは毎年、殺人と強姦を合わせると数十万件も起きています。 ましてや当時は警察も法律も機能していなかったことを考えると、平時の南京では起こらないような痛ましい事件もあったとは思われます。 また南京においては 「便意兵」 の存在もありました。 便意兵とは分かり易く言えばゲリラです。 軍人が民間人のふりをして日本兵を殺すケースが多々あったため、日本軍は便意兵を見つけると処刑したのですが、中には便意兵と間違われて殺された民間人もいたかもしれません。 こうした混乱が起きるのが戦争だとも言えます。 例えば戦後の占領下で、アメリカ軍兵士が日本人を殺害したり、日本人女性を強姦したりした事件は何万件もあったと言われます。 これらは許されることではありませんが、占領下という特殊な状況において、平時よりも犯罪が増えるのは常です。 要するに、南京において個々の犯罪例が100例、200例あろうと、それをもって大虐殺があったという証拠にはならないのです。 30万人の大虐殺と言うからには、それなりの物的証拠が必要です。 ドイツが行ったユダヤ人虐殺は夥しい物的証拠(遺体、遺品、ガス室、殺害記録、命令書、写真その他)が多数残っており、今日でも尚、検証が続けられています。 しかし 「南京大虐殺」 は伝聞証拠以外に物的証拠が出てきません。 証拠写真の大半は、別事件の写真の盗用ないし合成による捏造であることが証明されています。 そもそも日中戦争は8年も行われていたのに、南京市以外での大虐殺の話はありません。 8年間の戦争で、僅か2カ月間だけ、日本人が狂ったように中国人を虐殺したというのは余りにも不自然です。 とりわけ日本軍は列強の軍隊の中でも極めて規律正しい軍隊で、それは世界も認めていました。 「南京大虐殺」 とは、支那事変以降、アメリカで蒋介石政権が盛んに行った反日宣伝活動のフェイクニュースでした。 日本軍による 「残虐行為」 があったとアメリカのキリスト教団体とコミンテルンの工作員が盛んに宣伝し、 「残虐な日本軍と犠牲者・中国」 というイメージを全米に広めたのです。 このイメージに基づいて、後年、第二次世界大戦後に開かれた 「極東国際軍事裁判」(東京裁判) では、日本軍の悪行を糾弾する材料として 「南京大虐殺」 が取り上げられることになります。 実は東京裁判でもおかしな事がありました。 この裁判では、上官の命令によって1人の捕虜を殺害しただけで絞首刑にされたBC級戦犯が1000人もいたのに、30万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司令官の松井石根大将1人しか罪に問われていないのです。 規模の大きさからすれば、本来は虐殺命令を下した大隊長以下、中隊長、小隊長、更に直接手を下した下士官や兵などが徹底的に調べ上げられ、何千人も処刑されているはずです。 しかし現実には、処刑されたのは松井大将1人だけでした。 東京裁判で亡霊の如く浮かび上がった 「南京大虐殺」 は、それ以降、再び歴史の中に消えてしまいます。 「南京大虐殺」 が再び姿を現すのは、東京裁判の4半世紀後のことでした。 昭和46年(1971)、朝日新聞のスター記者だった本多勝一が 「中国の旅」 という連載を開始しました。 その中で本多は、 「南京大虐殺」 を取り上げ、日本人が如何に残虐な事をしてきたかを、嘘とデタラメを交えて書いたのです。 これが再燃のきっかけとなりました。 この時の取材、本多の南京滞在は僅か1泊2日、 「南京大虐殺」 を語った証言者は中国共産党が用意した僅か4人でした。 後に本多自身が 「『中国の視点』を紹介することが目的の『旅』であり、その意味では『取材』でさえもない」 と語っています。 本多の連載が始まった途端、朝日新聞をはじめとする日本の多くのジャーナリズムが 「南京大虐殺」 をテーマにして 「日本人の罪」 を縦断する記事や特集を組み始めました。 そうした日本国内での動きを見た中国政府は、これは外交カードに使えると判断したのでしょう。 以降、執拗に日本政府を非難するようになったというわけです。 本田勝一の記事が出るまで、毛沢東も周恩来も中国政府も、1度たりとも公式の場で言及したことはなく、日本を非難しなかったにもかかわらずです。 それ以前は、中国の歴史教科書にも 「南京大虐殺」 は書かれていませんでした。 「無かった事」 を証明するのは、俗に 「悪魔の証明」 と言われ、私がここで書いた事も、 「無かった事」 の証明にはなりません。 ただ、客観的に見れば、組織的及び計画的な住民虐殺という意味での 「『南京大虐殺』は無かった」 と考えるのが極めて自然です。 朝日新聞が生み出した国際問題 「WGIP洗脳世代」 が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始めます。 そして後に大きな国際問題となって日本と国民を苦しめることになる3つの種が播かれました。 それは 「南京大虐殺の嘘」 「朝鮮人従軍慰安婦の嘘」 「首相の國神社参拝への非難」 です。 これらはいずれも朝日新聞による報道がきっかけとなったものでした。 まず 「南京大虐殺」 ですが、これは前述したように、昭和46年(1971)、朝日新聞で始まった 「中国の旅」 という連載がきっかけとなりました。 全く事実に基づかない内容だったにもかかわらず、戦後、GHQによって 「日本軍は悪逆非道であった」 という洗脳を徹底して受けていた日本人の多くは、この捏造とも言える記事をあっさりと信じてしまったのです。 当時、朝日新聞が 「日本の良心」 を標榜し、売上部数が圧倒的に多かったことも、読者を信用させる元となりました。 まさか大新聞が堂々と嘘を書くとは誰も思わなかったのです。 更に当時、マスメディアや言論界を支配していた知識人の多くがこの話を肯定したことが裏書きとなり、本田勝一の記事が真実であるかのように罷り通ってしまったのでした。 日本側のこうした反応を見た中華人民共和国は、これはに使えると判断し、以降、執拗に日本を非難するカードとして 「南京大虐殺」 を持ち出すようになります。 そして50年以上経った現在まで、大きな国際問題となって残っています。 情けないことに、未だに、 「南京大虐殺」 が本当にあったと思い込んでいる人が少なくありません。 今更ながらGHQの 「WGIP:ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(英語:War Guilt Information Program) の洗脳の怖ろしさが分かろうというものです。 朝日新聞が生み出したもう1つの嘘は、いわゆる 「朝鮮人従軍慰安婦」 問題です。 昭和57年(1982)、朝日新聞は吉田清治という男の衝撃的な証言記事を載せました。 その内容は、吉田清治が軍の命令で済州島に渡り、泣き叫ぶ朝鮮人女性を木刀で脅し、かつてのアフリカの奴隷狩りのようにトラックに無理矢理乗せて慰安婦にしたという告白でした。 この記事は日本中を驚愕させました。 以降、朝日新聞は日本軍が朝鮮人女性を強制的に慰安婦にしたという記事を執拗に書き続けます。 朝日新聞は吉田清治証言だけでも18回も記事にしています。 ちなみに 「従軍慰安婦」 という言葉は、戦後、元毎日新聞社の千田夏光(本名、貞晴)らによって広められた全く新しい造語です。 吉田清治証言が虚偽であることは早い段階から一部の言論人らから指摘されていました。 吉田清治自身も平成8年(1996)の 「週刊新潮」 のインタビューで、 「本に真実を書いても何の益も無い」 「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやっている」 と捏造を認めていたのです。 ところが、朝日新聞がこの吉田清治証言に基づく自社の記事を誤りだったとする訂正記事を書いたのは、最初の記事から32年も経った平成26年(2014)のことでした。 実に32年もの間、朝日新聞の大キャンペーンに、左翼系ジャーナリストや文化人たちが相乗りし、日本軍の 「旧悪」 を糾弾するという体で、慰安婦のことを何度も取り上げました。 これに積極的に関わった面々の中には旧日本社会党や日本共産党の議員もいました。 多くの国民は朝日新聞が嘘を書くわけがないと思い、またGHQの洗脳によって 「日本軍ならそれくらいの事はしただろう」 と思い込まされてきたため、 「従軍慰安婦の嘘」 を信じてしまったのです。 「南京大虐殺」 と同様でした。 こうした日本の状況を見た韓国も、中華人民共和国と同様、 「これは外交カードに使える」 として、日本政府に抗議を始めました。 朝日新聞が吉田清治証言を記事にしてキャンペーンを始めるまで、40年もの間、1度も日本政府に慰安婦のことで抗議などしてこなかったにもかかわらず、です。 韓国の抗議に対する日本政府の対応が最悪とも言える拙劣なものでした。 平成5年(1993)、韓国側からの 「日本政府が従軍慰安婦の強制連行を認めれば、今後は問題を蒸し返さない」 という言葉を信じて、日韓両政府の事実上の談合による 「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」 (いわゆる「河野談話」) を出し、慰安婦の強制連行を認めるような発信をしてしまったのです。 途端に、韓国は前言を翻し、これ以降、 「日本は強制を認めたのだから」 と、執拗に賠償と補償を要求するようになります。 これは80年前、大正4年(1915)の 「21ヵ条要求」 のいきさつを彷彿とさせる悪手でした。 もう1つ、朝日新聞がこしらえたと言える深刻な国際問題が、 「首相の國神社参拝に対する非難」 でした。 今も、首相の國神社参拝を 「世界の国々が非難している」 という報道を繰り返す新聞がありますが、これは正しくありません。 我が国の首相や閣僚の國神社参拝を感情的に非難しているのは、中華人民共和国と韓国のみと言っていいでしょう。 アメリカや中韓以外のアジア諸国のメディアが今も批判的トーンで國神社参拝を報じるのは、日本と隣国との争いの種になっているから、という理由が大きいのです。 もちろん英米メディアの中には國神社を 「戦争神社」 と言い、ここに参る者は 「戦争賛美」 の極右で 「歴史修正主義者」 だという論調もありますが、そのほとんどが、1980年代の朝日新聞の報道論調を下敷きにしています。 そもそも中国・韓国の2国は、戦後40年間、日本の首相の國神社参拝に1度も抗議などしてきませんでした。 それまでに歴代首相が59回も参拝したにもかかわらずです。 これが国際問題となったきっかけは、昭和60年(1985)8月15日に中曽根康弘首相が國神社を参拝した時に、これを非難する記事を朝日新聞が大きく載せたことでした。 直後、中華人民共和国が初めて日本政府に抗議し、これ以降、首相の國神社参拝は国際問題となったのです。 この時、中国の抗議に追随するように韓国も非難するようになりました。 以上、現在、日本と中国・韓国の間で大きな国際問題となっている3つの問題は、全て朝日新聞が作り上げたものと言っても過言ではありません。 3つの報道に共通するのは、 「日本人は悪い事をしてきた民族だから、糾弾されなければならない」 という思想です。 そのためなら、たとえ捏造報道でもかまわないという考えが根底にあると思われても仕方がないような経緯です。 朝日新聞のこうした考え方は政治的な記事に限りませんでした。 平成元年(1989)4月20日の 「珊瑚記事捏造事件」 などは同根と言える一例です。 これは、朝日新聞のカメラマンが、ギネスブックにも載った世界最大の沖縄のアザニサンゴに、自らナイフで 「K・Y」 という傷を付けて、 「サンゴ汚したK・Yってだれだ」 という悪質な捏造記事を書いたという事件です。 記事は日本人のモラルの低下を嘆き、 「日本人の精神の貧しさと荒んだ心」 とまで書かれています。 これは単にスクープ欲しさの自作自演だったとは思われません。 その書きぶりには、前記の3記事と同じ 「WGIPによる歪んだ自虐思想」 が見て取れます。 GHQの推し進めた洗脳政策は、戦後、多くの日本人の精神をすっかり捻じ曲げてしまったと言えますが、驚くべきことに、占領後は朝日新聞を代表とするマスメディアが、GHQの洗脳政策の後継者的存在となり、捏造までして日本と日本人を不当に叩いていたのです。 更に不思議なことはこの新聞が、戦後長らく 「クオリティー・ペーパー」 と言われてきたことです。 「クオリティー・ペーパー」 とは 「エリート階層を読者とする質の高い新聞」 という意味ですが、果たしてこの称号を与えたのは誰だったのでしょうか。 それは戦後の公職追放の後に、言論界を支配した者たちでした。 朝鮮人慰安婦に関しては、肯定派のジャーナリストや学者、文化人らが、 「軍が強制した」 という証拠を長年懸命に探し続けていますが、現在に至っても全く出てきません。 中には、 「軍が証拠を隠滅した」 と言う者もいますが、全ての証拠を完全に消し去ることなど不可能です。 軍は一種の官僚機構です。 仮に民間業者に命じたのなら、議事録、命令書、予算書、報告書、名簿、受領書、請求書、領収書など、夥しい書類が必要でしょう。 軍は勝手に金を動かせませんから、双方の帳簿も大量に残っているはずです。 戦闘中以外はトラック1台動かすのにも、いちいち書類が必要だったのです。 当時、軍用機の搭乗員たちは、たとえ練習でも飛行記録を残す義務がありました。 もし軍が直接行動したなら、慰安婦を強制連行するために動いた部隊、実働人員、収容した施設、食料などを記した書類も大量にあるはずですが、それらが全て煙のように消えてしまうことなどあり得ません。 そんなことが可能なら、戦後に捕虜の処刑に関係したBC級戦犯が1000人も処刑されるはずがありません。 2000年から、アメリカ合衆国のクリントン、ブッシュ政権下において、8年の歳月をかけて、ドイツと日本の戦争犯罪に関する大規模な調査が行われ、850万ページに及ぶ未公開や秘密の公式文書が調査されました。 そのうち14万2000ページが日本の戦争犯罪に関するものでしたが、日本政府や軍がいわゆる 「従軍慰安婦」 に関わる戦争犯罪を犯したことを示す文書は1点も発見されなかったという報告が、2007年にありました(ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班【IWG】アメリカ合衆国議会宛て最終報告」)。 この報告は 「従軍慰安婦」 に終止符を打つべきものと思えますが、令和の今日においても尚、左翼系の政党やメディア、学者、弁護士らは日本政府と軍の 「強制」 を主張しています。 ここで皆さんに知っておいてもらいたい事があります。 それは戦時慰安婦の大半が日本人女性だったということです。 朝鮮人女性は2割ほどだったと言われています。 当時は日本も朝鮮も貧しく、親兄弟の生活のために身を売らねばならなかった女性が少なくありませんでした。 そうした女性たちが戦時に戦地の慰安所で慰安婦として働いたー。 これが事実の全てです。 一方、 「國神社参拝」 については、政治家の参拝を非難する左翼系の学者や文化人の中に、 「中国が抗議したのは、A級戦犯を合祀したからだ」 と言う人がいますが、これは稚拙であり罪作りな嘘です。 國神社が 「A級戦犯」 とされた人々を合祀したのは昭和53年(1978)10月でした。 それから昭和60年(1985)まで3人の首相(大平正芳、鈴木善幸、中曾根康弘)が延べ22回参拝していますが、昭和60年まで、中国は1度も抗議していません(A級戦犯合祀は翌年に朝日新聞によって報道されている)。 また 「天皇陛下でさえ、A級戦犯合祀以来、参拝されていない」 と言う人もいますが、天皇陛下の國神社への行幸がなくなったのは、昭和51年(1976)からです。 実はその前年(昭和50年【1975】)、三木武夫首相の参拝について 「私人としてのものか、公人としてのものか」 とマスコミが大騒ぎをしたことがありました。 昭和天皇が終戦記念日に國神社を親拝しなくなった理由は分かりませんが、もしかしたら 「自分が行けば、私人としてか公人としてかという騒ぎが大きくなる」 と案じたのかもしれません。 戦時徴用工強制労働の嘘 昭和40年(1965)頃から、在日朝鮮人と在日韓国人が 「自分たちは戦争中に強制連行されてきた」 と主張し始めました。 これもまた嘘です。 確かに戦争中 「戦時徴用」 として 朝鮮人労働者を国内の工場などに派遣した事実はありますが、戦時徴用は日本の中学生や女学生にも行われていました。 しかも日本の学生に払われた給料は僅かなものでしたが、朝鮮人労働者には正規の給料が支払われていました。 また徴用工が送られるのは、労働管理の整備された場所に限られていました。 「外国人を徴用工として使うのは酷い」 と言う人もいるが、当時、朝鮮人は法的には日本人・日本国民であったことを忘れてはなりません。 また同じ頃、日本人男性は徴兵で戦場に送られていましたが、朝鮮人が徴兵されたのは昭和19年(1944)になってからで、しかも訓練中に終戦を迎えたため、ほとんどが戦場には送られていません。 戦時徴用も終戦前の7カ月だけでした。 そして終戦後に彼らのほとんどは朝鮮へ帰国しています。 昭和34年(1959)に外務省が発表したデータによりますと、当時、日本国内にいた在日朝鮮人・在日韓国人は約61万人、そのうち戦時徴用で国内にとどまっていた人は僅かに245人でした(在日朝鮮人・在日韓国人全体の0.04%)。 つまり99.96%の在日朝鮮人・在日韓国人は 「職を求めて」 自由意思で日本にやって来た人たちだったのです。 しかもその中の多くが朝鮮戦争の時に密航してやってきた人たちでした。 「在日朝鮮人・在日韓国人の多くは戦争中に強制連行された人、あるいはその子孫」 という嘘は、最初は彼ら自身が言い始めたことでしたが、これを左翼系のマスメディアや学者らがあたかも歴史的事実であるかのように広めたのでした。 そのため、現在でもこれを真実と思い込んでいる日本人が少なくありません。 GHQの 「WGIP」 は今も日本人の心と日本の言論空間を蝕んでいると言えるのです。 戦後80年、首相談話は出すべきでない 「謝罪」から決別しようとした安倍氏の思い サンデー正論 2025/1/19 10:00 https://www.sankei.com/article/20250119-ZBGC754GKNJE7EY6HHDTSJPTDE/ 今年2025年は戦後80年に当たる。 中国では2025年7月に映画 「731」 の上映が予定されている。 「731」 とは旧日本軍関東軍防疫給水部のことだが、中国が80年を歴史戦に利用しようとしているのは明白だ。 これに対し、岩屋毅外相は2025年1月13日の日韓外相会談後の共同記者会見で、戦後80年首相談話について 「現時点で発出するとは決定していない」 「よく国内で相談したい」 と述べた。 相談することもない。 石破茂首相は中国や韓国に乗せられて80年談話を出すべきではない。 ■「宿命を背負わせてはなりません」 岩屋外相には安倍晋三政権時代の平成27(2015)年8月に出された戦後70年談話をもう1度読み返してほしい。 談話には次のような一文がある。 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています」 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」 「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」 「謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」 当時の作成過程をよく知る政府元高官は 「談話には一行一行安倍首相の思いがこもっているが、特にこの部分には時間をかけた」 と証言する。 当初案では 「生まれながらに謝罪することを強いられるべきではありません」 だった。 安倍首相は 「中身はいいが、誰が強いているかの議論になる」 「強いるという表現はちょっと違うな」 との感想を語り、修正を加えることにした。 ■練りに練った安倍首相談話 元朝日新聞主筆の船橋洋一氏著の『宿命の子 安倍晋三政権クロニクル』(文芸春秋)の上巻 「戦後70年首相談話」 の章にも紹介されているように出てきたのが 「原罪」 だった。 安倍首相の指示で今井尚哉首相秘書官は連立を組む公明党の太田昭宏国土交通相のもとを訪れた。 太田氏は 「原罪」 について 「日本は欧州じゃないし、原罪という概念は馴染まない」 と異論を唱えた。 太田氏の指摘も踏まえ、安倍首相と秘書官らとの検討作業の中で出てきたのが 「宿命」 という表現だった。 この元高官は 「子供たちが生まれながらにして謝罪しなければならない、そうした『宿命』を背負わせるようなことはあってはならない、との思いから『宿命』が浮かんできた」と証言する。 この年平成27(2015)年の8月6日午後4時48分、安倍首相は官邸の執務室に太田氏を招き 「『宿命』でいいですか」 と尋ねた。 公明党の支持母体、創価学会で男子部長、青年部長を務めた太田氏は 「『宿命』は仏教用語でもあります」 「差し支えないと思います」 と同意した。 太田氏との打ち合わせは20分の予定が午後5時56分まで続いた。 太田氏が師と仰いだ創価学会の池田大作名誉会長は生前、 「宿命」 という言葉を重視し、 「宿命を使命に転換させる」 ことを説いてきた。 太田氏は 「真っ先にハンコつくからとは言っていないが、この談話は歴史に区切りを付けた」 と評価する。 談話は 「侵略」 の言葉を盛り込みながらも、西洋諸国の植民地だらけだった当時の国際情勢から説明し、 「謝罪」 から決別しようとする未来志向も明確で全体的には高い評価を得た。 ただ、東京大学の伊藤隆名誉教授や、京都大学の中西輝政名誉教授という歴史学の重鎮2人は談話が東京裁判史観から脱却できていないとして批判したことは忘れてはならない。 ■中国に利用された岩屋外相 安倍首相らの血の滲むような努力を無にするような発言をしたのが岩屋外相だった。 昨年2024年12月25日に行われた日中外相会談後、中国側は岩屋外相が 「歴史問題では『村山談話』の明確な立場を引き続き堅持し、深い反省と心からの謝罪を表明する」 と述べた、と発表した。 岩屋外相は2024年12月27日の記者会見で、この発表は 「正確ではない」 として、 「歴史認識に議論が及んだ際に、石破茂内閣は平成7(1995)年の村山談話、安倍首相談話を含むこれまでの首相談話を引き継いでいると説明した」 と語った。 その上で 「一方的な対外発表を行ったことに対しては、中国側に対して申し入れを行った」 としたが、後の祭りである。 安倍政権当時も、 「70年談話は戦後50年の村山富市首相談話や、慰安婦関係調査結果に関する平成5(93)年8月4日の河野洋平官房長官談話を引き継ぐのか」 という質問は当然予想され、官邸内で議論した。 安倍首相は第2次政権発足後から、村山談話について 「政権として全体として受け継いでいく」 と述べていた。 もちろん、安倍首相の本音としては 「そのまま継承しているわけではない」 との立場だった。 官邸内の議論として出たのが 「当時の内閣の判断として受け継ぐもので、自分の立場が村山談話や河野談話と同じであると言う必要もない」 「これから未来に向かって受け継いでいくのが安倍談話でありそれに尽きる」 というものだった。 河野談話、村山談話ともに政局が不安定な時に出されたものだった。 河野談話が発出された時点で宮沢喜一内閣は衆院選で過半数割れし、退陣を表明しており、8月9日に細川護熙連立政権が発足する直前のことだった。 筆者は自民党幹事長担当だったが、党内は騒然としていて談話のことなど議論する余裕は全くなかった。 村山談話も同様で、自民、社会、さきがけの3党連立政権で、自民党内には談話への異論が強かった。 当選間もない安倍氏もその1人だった。 筆者が当時、野坂浩賢官房長官の担当として感じたのは、村山首相や野坂官房長官が談話に拘ったのはあくまで社会党政権としての存在感を示すことであり、日本の将来ではなかった。 野坂氏や前任の官房長官である五十嵐広三氏には同年1995年6月の戦後50年決議が自民党内の反対にあって中途半端な形になったとの思いが強かった。 そこで首相談話には 「植民地」 「侵略」 「反省」 「お詫び」 のいわゆるキーワードを盛り込むことに固執した。 野坂氏は 「反対ならば閣僚を辞めてもらいます」 と半ば恫喝して自民党を説き伏せ、閣議決定にこぎつけた。 ■安倍氏をライバル視する石破首相 どさくさに紛れて出された河野談話、社会党政権の存在を後世に残すための村山談話とは異なり、安定政権を築いた安倍首相は有識者による 「21世紀構想懇談会」 で議論を重ね、歴史認識が異なる政治学者の五百旗頭真氏や読売新聞グループ本社会長兼主筆だった渡辺恒雄氏からも意見を聞き、談話を作り上げた。 談話はこう結んでいる。 「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献して参ります」 「終戦80年、90年、更には100年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく」 「その決意であります」 戦後80年を既に見据えているのだ。 しかも石破政権は少数与党であり通常国会を如何に乗り切るかの見通しも立っていない。 今夏2025年夏には都議選、参院選もあり、政局が不安定になる可能性もある。 石破首相は 「政敵」 だった安倍氏の名前が出ると不快感を示すそうだが、個人的な感情で安倍氏に対抗して談話を出すべきではない。 「戦後80年談話」は禍根を残す 石破首相の中韓への謝罪癖に懸念 阿比留瑠比の極言御免 2025/1/16 1:00 https://www.sankei.com/article/20250116-6KPXLPMSFZPPHJZCMVBVGMNM3E/ 「戦後の謝罪外交に終止符を打ちたい」 安倍晋三元首相がこの思いを込め、平成27年8月に戦後70年談話を発表して今年2025年8月で丸10年となり、日本は戦後80年を迎える。 安倍氏は談話発出後、筆者らに談話の意義についてこう語っていた。 「これで戦後80年、90年談話はもう必要ない」 それだけ考え抜いて作った安倍談話に自信があったのだろう。 談話は、西ドイツのワイツゼッカー大統領が敗戦40年の1985年に行った有名な演説 「荒れ野の40年」 の 「自らが手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません」 というレトリックを下敷きにして、次のように説いている。 「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」 安倍氏によると、ベトナムの政府高官は 「この談話を読んで評価しないようなアジアの国があれば、まともではない」 と感想を述べていたという。 ■村山談話を「上書き」 談話に取り組んだ背景には、平成7年に村山富市首相が出した戦後50年の村山談話への問題意識がある。 村山談話は、具体的にいつの何を指すのか曖昧にしたまま日本による植民地支配と侵略を謝罪しており、中国や韓国などに利用されて長く日本外交の手足を縛る枷となっていた。 安倍氏は安倍談話により村山談話を 「上書き」 し、超克することを強く意識していた。 また、安倍氏は安倍談話に加え、先の大戦で敵国同士だった米国やオーストラリアとの 「和解」 に取り組んだ。 オバマ米大統領を現職大統領として初めて被爆地・広島に迎え、自身は日米戦争の象徴である米ハワイ・真珠湾を訪問したのもその一環である。 安倍氏はまさに、日本を敗戦国の枠組みに閉じ込めてきた 「戦後」 を終わらせた宰相だったと言える。 ■蒸し返しへの危惧 ところが、岩屋毅外相は2025年1月13日、訪問先の韓国での日韓外相会談後の共同記者会見で戦後80年談話の作成について次のように含みを持たせた。 「現時点で発出するとはまだ決定していない」 「戦後80年の節目にどのような対応を取るか、これからよく国内で相談したい」 出すと決まったわけではないにしろ、よく検討するというわけだが、果たしてどんな中身を想定しているのか。 岩屋氏は同時にこうも語った。 「政府として述べてきている歴代政権における歴史認識、談話を石破茂内閣もしっかりと引き継いでおり、この認識にいささかの変わりもない」 安倍談話を引き継いでいるということならばいいが、わざわざ 「歴代政権」 と話す所に、村山談話の下での謝罪外交や自虐的な歴史認識を蒸し返すのではないかと危惧を覚える。 第一、石破首相に安倍氏のような 「謝罪外交に終止符」 「戦後を終わらせる」 といった理念や信念はあるのか。 安倍談話に一体何を付け加えようというのか。 岩屋氏は今回、韓国で左派系の最大野党「共に民主党」出身の禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長と面会し、早速 「歴史問題の直視」 という注文を受けている。 「御用聞き外交」 かとの印象を受けた。 昨年2024年11月7日の当欄で紹介したように、石破首相は南京事件でも韓国併合でも中韓に安易に謝罪したがる癖がある。 戦後80年談話が村山談話に立ち戻るような内容であれば、全く出す必要がなく将来に禍根を残すだけである。 (論説委員兼政治部編集委員) 中国、韓国が利用する石破首相の歴史観 過去の言動繰り返せば付け入る隙に 阿比留瑠比の極言御免 2024/11/7 1:00 https://www.sankei.com/article/20241107-3K6TVFPG6RPOZDBYUBB4CSA2ZI/ まだ石破茂首相のことを保守派だと見做していた20年以上も昔の話である。 筆者は当時、安倍晋三元首相や中川昭一元財務相らが熱心に取り組んでいた偏向歴史教科書問題や慰安婦問題など保守系の運動に関わろうとしないことをいぶかり、それらへの参加を促したことがある。 だが、返事はそっけなかった。 「そういうのは、もういいよ」 この時は、単に余り関心がないのかと流したが、徐々にそうではなくて歴史認識自体が大きく異なるのだと分かってきた。 石破氏の考え方は、むしろ左派・リベラルに近かった。 それを反映し、2024年9月の自民党総裁就任時などに、中国や韓国は首相の歴史観を理由に概ね歓迎を示した。 例えば韓国の左派紙、ハンギョレ新聞は同月2024年9月30日の社説で書いている。 「歴史問題についても『政治的ライバル』だった安倍元首相とは異なり、何度も合理的な見解を明らかにしたことがある」 「(中略)謙虚な歴史認識を示してくれることを期待する」 また、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(2024年10月18日付)は、首相が平成18年9月23日付の毎日新聞鳥取県版にこう語ったことを紹介している。 「最近は、自民党の若い議員を見ても、怖い」 「過去の戦争を『全て正しかった』と考えていて、頭は大丈夫かと疑いたくなる」 「日中戦争は明らかに侵略戦争だし、韓国併合は植民地化(だ)」 こうした首相のこれまでの言葉については、月刊誌「明日への選択」2024年11月号の記事 「かくも危うい石破首相の『歴史認識』」 がよくまとめていたので、許可を得て引用する。 それによると首相は平成29年5月、韓国紙、東亜日報のインタビューで慰安婦問題についてこう語った。 「納得を得られるまでずっと謝罪するしかないでしょう」 もっとも、その後の産経新聞の取材に首相は 「『謝罪』という言葉は一切使っていない」 「『お互いが納得するまで努力を続けるべきだ』と話した」 と否定している。 とはいえ、 「努力」 をどう翻訳(意訳)すれば 「謝罪」 に入れ替わるのか理解に苦しむ。 中国共産党系の新聞、世界新聞報のインタビューも防衛相時代の2020年に受け、こう述べたとされる。 「日本には南京大虐殺を否定する人がいる」 「30万(人)も殺されていないから南京大虐殺そのものが存在しないという」 「何人が死んだかと大虐殺があったかは別問題だ」 「日本は中国に謝罪すべきだ」 これについても首相は月刊正論2020年9月号で 「大虐殺があったとは言っていないよ」 と否定しているが、聞き手の評論家、潮匡人氏はこうたしなめていた。 「ですが、そう相手に受け取られる対応も、事実関係で日中間に隔たりがある以上、国益の擁護者として慎重であるべきではなかったかと」 まさにその通りである。 首相が実際にどのような表現を使ったかは判然としないが、相手に利用されるようなことを述べたのは事実だろう。 来年2025年は終戦80年を迎える他、日韓国交正常化60周年にも当たる。 中国も 「抗日反ファシズム戦争勝利80周年キャンペーン」 を準備しているという節目の年である。 韓国や中国の反日勢力がさまざまな仕掛けをしてくると予想できるが、首相が過去の言動を繰り返すようなら、付け入る隙を与えることになろう。 もっとも、それまで首相を続けていられるかどうかは分からないが。 (論説委員兼政治部編集委員) <年のはじめに>論説委員長 榊原智 未来と過去を守る日本に 2025/1/1 5:00 https://www.sankei.com/article/20250101-PWVSMDWROJMAZIIOSEKN3VJ2HQ/ 今年2025年は、日本の未来と過去を守らなくてはならない年になるだろう。 抑止力の構築を急がないと、日本は数年内に、戦後初めて戦争を仕掛けられる恐れがある。 平和を守っていく年にしたい。 戦後80年である。 大東亜戦争(太平洋戦争)について中国や朝鮮半島、左派からの史実を踏まえない誹謗は増すだろう。 気概を持って反論しなければ国民精神は縮こまり、日本の歴史や当時懸命に生きた日本人の名誉は守れない。 政府や政治家が鈍ければ、国民は叱咤激励したり、自ら声をあげたりしていかねばなるまい。 能登半島地震から1年が経った。 復興を願うと共に、将来起きるかもしれない危難から日本や地域を守る必要性も痛感する。 ウクライナや中東の戦争を見てほしい。 自然だけでなく人間も大災害をもたらす。 安全保障は独立と繁栄の基盤といえる。 ■統幕長の危機感共有を 自衛隊制服組トップの吉田圭秀統合幕僚長は昨年最後の記者会見で次のように語った。 「国際社会の分断と対立は深まり、情勢は悪化の一途を辿り、自由で開かれた国際秩序は維持できるか否かのまさに瀬戸際にある」 「来年(令和7年)を見通しても良くなる展望は開けない」 国家防衛戦略では令和9年までに 「我が国が主たる責任をもっ我が国への侵攻を阻止、排除できるようにする目標がある」 とし 「それまでに暇がない」 とも述べた。 率直な物言いは危機感の表れだ。 制服組トップがこれほど有事を懸念するのは米国と北朝鮮が開戦間際だった平成5、6年の第1次朝鮮半島核危機時の西元徹也統幕議長以来かもしれない。 だが、第1次核危機もそうだったが最近の日本の政治が危機感を十分共有しているとは思えない。 歴代内閣の努力は分かる。 安倍晋三政権は集団的自衛権の限定行使に道を開いた。 菅義偉政権は米国と共に 「台湾海峡の平和と安定の重要性」 を宣言した。 岸田文雄政権は防衛費増額や反撃能力保有など防衛力の抜本的強化を開始した。 石破茂内閣は自衛官の募集難対策に本腰を入れている。 中国の台湾侵攻や北朝鮮の暴発を抑止する取り組みだ。 ただし、昨年2024年の日本は、政治とカネの問題で騒動が続くなど専ら内向きだった。 国会などの場で日本の政治は外交安保にもっと意を払うべきだった。 周囲の専制国家が 「日本与しやすし」 と見れば抑止効果は減じる。 それがどれほど恐ろしいことか。 トランプ米政権の登場で、侵略者ロシアと抗戦してきたウクライナが休戦となれば、台湾海峡や東・南シナ海など北東アジアの安全保障環境を変化させる。 ■戦後80年に踏まえたい点 北東アジア自体への影響にとどまらない。 停戦監視へ陸上自衛隊のウクライナ派遣が期待されるかもしれない。 また、紅海で民間船舶を攻撃する親イラン民兵組織フーシ派討伐への海上自衛隊参加の要請があるかもしれない。 日本の対応は、北東アジアへの欧米諸国の関与を左右する。 これらは仮の話だが、日本の政治は、そして日本国民は、ウクライナなどの情勢の展開に備えようとしているか。 分断と対立が深まる国際情勢を我が事として捉えているか。 トランプ氏との会談で石破首相は、日本と国際秩序を能動的に守る姿勢を示してほしい。 紙幅が尽きた。 戦後80年について2点指摘したい。 1つ目は、大東亜戦争を巡り、当時の日本には祖国防衛の思いに加え、人種平等の実現や欧米植民地支配打破の理想があった点を、戦後の日本人はほとんど知らされてこなかったという点だ。 2つ目は史実を踏まえた議論の大切さである。
[18初期非表示理由]:担当:スレと関係が薄い長文多数のため全部処理。自分でスレを建てて好きな事を投稿してください
|