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私も関わった東京都知事選の古い思い出 そして小池百合子を推したくないワケ 週刊誌からみた「ニッポンの後退」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/341673
2024/06/16 日刊ゲンダイ
麻生良方候補(左)と鈴木俊一候補(C)日刊ゲンダイ
私は今回の都知事選を「口先女」対決と命名している。
小池百合子も蓮舫もワンフレーズで耳目を集めるのはうまいが、その実行力には疑問符が付く。見てくれの良さだけで政治の世界へ飛び込んだ2人だから、致し方ないのだろうが。
週刊誌の「下馬評」によると、2期8年、わずかだが“実績”をもつ小池がややリードしているらしいが、久しぶりに首都が女の闘いで燃え上がるのは間違いないだろう。
都知事選は数々のドラマを生んできた。1975年4月13日、投開票当日、私は石原慎太郎の選挙事務所にいた。都知事を2期務めた美濃部亮吉は勇退を宣言し、衆院議員だった石原が名乗りを上げた。すると美濃部は「ファシストに都政は渡せない」と前言を翻して出馬したのである。首都は保守と革新の一騎打ちとなったが、若さと大衆人気を持つ石原が有利だと思われた。しかし、大接戦の末、美濃部が30万票以上の差をつけて勝利したのだった。
ひな壇には応援団の黛敏郎、浅利慶太、飯島清たちが並んでいたが、石原は姿を見せなかった。
1979年の都知事選は、私も深く関わったから思い出深い。美濃部が不出馬宣言したが、自民党をはじめ各党の候補者選びは難航した。当時の「新自由クラブ」代表の河野洋平は盟友であったウシオ電機社長の牛尾治朗を立てようと画策し、時の大平正芳首相に内々に会って了解を取り付けた。だが、自民党内部から、党を割って出て行った人間の推す候補には乗れないという反対が出たのだろう、土壇場で白紙に戻ってしまった。
その頃、私が親しくしていた議員に元民社党のホープといわれた麻生良方がいた。スマートな容姿と弁舌のうまさでは抜きんでていた。彼からある日、「都知事選に出たいが、河野に会わせてくれないか」と頼まれた。早速、河野に電話したが、「自分には意中の人がいるので」と会ってはくれなかった。だが、麻生は早々に出馬を発表したのである。
自民党は公明党が推す鈴木俊一に相乗り。社会党は“太田ラッパ”と大衆人気の高かった元総評議長の太田薫。新聞、テレビで麻生は「泡沫候補」扱いだった。
しかし、選挙戦が始まると麻生人気が高まっていった。そんな時、太田陣営から「出馬を辞退してくれないか」という打診があった。もちろん何らかの見返りはするという条件付きだ。麻生は悩んだ。私も相談されたが、「ここで降りたらあなたの政治生命は終わってしまう」といさめた。私は当時34歳の若造編集者だった。
選挙結果は、鈴木が約190万票、太田が約155万票、麻生は約90万票で第3位だった。麻生が出馬を辞退していれば、その票の多くは太田に入ったと思われる。後から、太田は私のことを恨んでいると伝え聞いた。
1991年の都知事選も記憶に残っている。鈴木の4選を阻止しようと、自民党の“剛腕幹事長”小沢一郎が担ぎだしたのが元NHKの人気キャスターだった磯村尚徳である。その「演出」を頼まれたのが劇団四季の浅利慶太。気取ったインテリ色を薄めようと、下町の銭湯にチン入し、年寄りたちの背中を流すパフォーマンスを報道陣に公開させたのは浅利だった。
だが奮闘むなしく磯村は鈴木から80万票以上離されて落選した。
こう見てくると現職が強い。しかし、私は東京都民だが小池都政に正直倦(う)んでいる。一つだけ理由を挙げておこう。関東大震災の際に虐殺された朝鮮人らを悼む式典に小池知事は就任以来、追悼文を送っていない。歴史をないがしろにする人間に首長の資格はない。(文中敬称略)
(元木昌彦/「週刊現代」「フライデー」元編集長)
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