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2024年3月6日 12時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/313331
10万人が犠牲になったとされる「東京大空襲」から10日で79年。烈風烈火に焼かれ、肉親を失った被害者たちの傷は今も癒やされることはない。先の大戦の記憶が風化する中、どんな思いで生きてきたのか。母親ら4人を亡くした91歳の女性を訪ねた。(西田直晃)
◆軍歌を歌わされ「こんな小さな国が戦争なんて…」
東京都国分寺市の都営住宅の一室。砂田寿子(ひさこ)さん(91)が過ごすソファの傍らには、愛用の黒縁眼鏡をかけた母良子(りょうこ)さん=享年(42)=の遺影が置かれている。79年前、この母をはじめ、6人きょうだいのうち、兄玄雄(げんお)さん=同(15)、弟の鐘雄(かねお)さん=同(7)、富雄(とみお)さん=同(2)=の計4人が命を落とした。
本所区緑町(現在の墨田区緑3丁目)生まれ。国民学校6年生だった終戦1年前、初めて汽車に乗り、千葉県神代村(現在の東庄町)に集団疎開した。
1944年12月、撃墜されたB29が村の山中に落ち、疎開先の同級生と現場を見学。「♪来るなら来てみろ赤トンボ」と軍歌の一節を歌わされた。「そのときは歌ったけど、赤トンボは日本のほうでしょ。こんな小さな国が戦争なんて…」
◆トタン屋根を吹き飛ばす熱風
女学校に進学するため、45年3月4日に本所区に帰った。空襲が頻発しており、自宅の畳の下にある防空壕(ぼうくうごう)に試しに入ってみた。「こんなものが何の役に立つの」。子ども心に思うと、悪い予感はすぐに的中した。
9日夜、警報が鳴った。暗闇の中で「電車ごっこみたいに」父の帯をきょうだいでつかみ、幼い弟は母に背負われて家を出た。あちこちに火が付き、熱風がトタン屋根を吹き飛ばす中、父とはぐれた。
背中に火が燃え移った母が目の前で体をよじらせていた。頭巾にしていた座布団で母の背をはたき、火を消そうとしたが果たせず、その場を離れた。「地獄絵のような光景でした」。直後の記憶がないが、離れた暗がりで気を失うようにまどろみかけた。目が覚めると、火の勢いは収まり、総武線のガード下の人混みで夜明けを待った。
◆母の頭髪と弟たちの着物、お墓に
翌朝、母と別れた場所に向かった。母は服が燃え尽きており、束髪を結った頭部で確認した。幼い弟をおんぶし、もう1人の弟を胸の下に隠し、うつぶせでひざを突いていた。兄も近くに倒れていた。
「母は子どもたちを守ろうとしていた。最後まで」と涙ぐむ寿子さん。遺体は軍が処分するため、母の頭髪と弟たちの着物の一部を切り取り、後に家族の墓に納めた。寿子さん自身も顔や足にやけどを負い、防空頭巾はようやく裏地が残っていた程度だった。「私自身もほぼ死にかけた。父は涙を流したが、私は泣くことも忘れていた」
戦後は中野区に移った。音楽家を目指したが、19歳のころ、尺八奏者の父が病死した。経済的に困窮し、職を転々としつつ、横浜市内の病院に事務員兼ケースワーカーとして落ち着き、32歳で結婚。夢だった音楽の道は一人息子が歩んだ。
◆母の姿が脳裏に…「一度も息子をおんぶできなかった」
ただ、「一度も息子をおんぶできなかったの。(弟をおぶった)母を見ていたから」。空襲を生き延びた姉と疎開先で難を逃れた弟も数年前に相次いで亡くなった。今も後ろめたさがあるという。
「なぜあの日、母のそばを離れたのか」。黒縁眼鏡のレンズに映る炎、2階建ての家屋が崩れ落ちる音。今も目や耳にこびりついて離れない。息子が小学生のとき、校内誌に手記を寄せて以来、折に触れて体験談を伝えてきた。今年も近くの小学校に出かけ、「戦争は勝っても負けても残酷なもの」と訴えた。
◆「この年になっても家族に会いたい」
「ウクライナやガザを見たって、いつも戦争はきれいごとを言う。泣くのは私たち。私はこの年になっても家族に会いたいの」
3月10日は身元不明の遺骨が眠る東京都慰霊堂にたびたび通ってきた。足の具合が思わしくなく、今年は自宅で静かに過ごすという。
空襲被害者への補償は今も実現していない。「原爆だけではなく、東京でも10万人が死んでいる。後遺症が残った人も多い。戦災者に不公平があってはいけない」と語りながら、ふと、こんな思いにも駆られるという。「何もいらないからせめて、戦争に若い人を送り込まない社会にしてほしい」
◇ ◇
◆救済法制定を訴える空襲被害者たち 79年前の記憶
「私のリュックを背負ったばっかりに。逃げるのにはきっと重かったはず…」。18歳で東京大空襲に遭った利光(としみつ)はる子さん(96)=板橋区=は、犠牲になった弟宗治(むねはる)さん=当時(11)=を思い出し、言葉を詰まらせた。
疎開先から3日前に戻ったばかりだった弟。働きながら夜学の栄養学校に通う利光さんの、玄関先に置いてあったリュックを背負って逃げた。家を出る際に「それ、お姉ちゃんの」と呼び止めたとき、振り返ってにこっと笑い「大丈夫」と返したのが、最後に見た姿だった。
当時暮らしていた本所区千歳町(現墨田区)一帯は焼夷(しょうい)弾で火の海に。母トメさん=当時(51)=が弟に降りかかった火の粉を消そうと両手で振り払ったが、間に合わなかったという。母の手はグローブのように腫れ上がり、顔半分がやけどでただれ、全身にやけどを負った。20日余り薬もなく苦しみながら息を引き取った。
街全体が黒焦げで、至る所に「マネキンさんが横たわっているように」焼死体が転がっていたという。軍隊がまとめて焼いた「何とも形容のしようがない臭い」を生涯忘れられないと、静かに目を伏せた。
ZOOMで参加した安野輝子さん(84)=堺市=は1945年7月、鹿児島県薩摩川内市の自宅で空襲を受けた。爆弾の破片が左足を直撃し、ひざから下を失った。「国に謝ってほしい。戦争の後始末をきちんとしてほしいと願っている」と切々と語りかけた。
被害者らの切実な思いと裏腹に、救済法案の動きは停滞したまま。自民党内の手続きは一向に進んでいない。超党派空襲議員連盟の北村誠吾会長は昨年5月に急逝。集会当日は議連の議員が訪れたりメッセージが代読されたりしたが、後任は決まっていない。
空襲連の吉田由美子共同代表(82)は「私たちは今、途方にくれている。一日も早く議連を動かしてください。今度こそは、今度こそはと『法案提出』を期待してきた」とし、あらためて今国会での法案成立を求めた。「国に問います。私たちが死ぬのを本気で待っているのですか」
◆デスクメモ
東京都が収録し「封印」してきた東京大空襲などの証言ビデオ公開会場を見た。来場者はパネルや展示物より、順に再生される34人の映像を注視。思いのほか鮮明で、撮影された1990年代の体験者に会うような感覚だ。都内3カ所で今月中旬(東京芸術劇場は13日)まで見られる。(本)
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