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戦後民主化と逆コース
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2024年2月 5日 植草一秀の『知られざる真実』
2月5日午後8時に放送される「東アジア共同体研究所」主宰の「UIチャンネル」
に出演させていただく。
2月5日の放送が第522回。
極めて優れた番組で、同番組の再生回数を毎回100万回単位に引き上げることが求められる。
第522回放送のテーマは「いま日本政治に求められるもの」。
定時視聴でなくいつでも閲覧可能であるので、ぜひご高覧賜りたい。
敗戦後の日本政治には重大な断裂・断層がある。
1947年を境に日本政治の基本方向が転換した。
戦後民主化のコースとは真逆の方向に日本政治が進行した。
1947年以降の方向を「逆コース」と呼ぶ。
「戦後民主主義」の言葉が使われるが、「戦後民主主義」が確立されたのは極めて短い時間だった。
1945年9月から1947年5月までの1年半の間に「戦後民主主義」が一気呵成に確立された。
現代日本はその「遺産」の上に成り立っている。
最大の遺産が日本国憲法である。
日本国憲法こそ、戦後民主化の最大の遺産である。
憲法施行が半年遅れていたなら、憲法は変わり果てた姿に改変されていただろう。
現在の日本は完全なる漆黒に包まれているはずだ。
しかし、明るく輝く時代は続かなかった。
1947年3月、トルーマン大統領による特別教書演説が行われた。
トルーマン・ドクトリンが発せられ、米国の対日占領政策の基本方針が転換した。
これが「逆コース」の淵源である。
米国外交の基本が「ソ連封じ込め」に転換。
連動して対日占領政策の基本が「民主化」から「非民主化・反共化」に転換した。
GHQの主導権はGS(民政局)からG2(参謀2部)に移行した。
1947年5月に施行された日本国憲法制定に大きな影響を与えたのはGHQのGSである。
平和主義・国民主権・基本的人権尊重を基本原理とする日本国憲法が制定された。
憲法施行に合わせて吉田茂内閣の正統性を問う衆院総選挙が1947年4月25日に実施され、吉田茂内閣は総辞職。
日本の主権者は社会党党首片山哲を首班とする内閣を樹立した。
しかしながら、日本国憲法が施行された時点で、米国の対日占領政策の基本方針は180度の転換を示していた。
GHQの実権はCSからG2に移行。
この転向したGHQにとって片山哲内閣は望ましからぬ存在に転じていたのである。
「昭電疑獄事件」などが創作され、権力の転覆が実行された。
米国は反共の方針を示す米国隷属の新政府を樹立した。
これが1949年発足の第2次吉田茂内閣である。
日本民主化は中断され、米国傀儡の反共政府が樹立された。
その延長線上に現在の日本政治がある。
米国傀儡の日本政治を代表するのが吉田茂内閣と岸信介内閣である。
この間に、米国にものを言う政権が二つ誕生した。
鳩山一郎内閣と石橋湛山内閣。
鳩山一郎内閣はソ連との国交を回復。
シベリア抑留者の帰還を実現した。
北方領土問題の解決もあと一歩のところまでこぎつけた。
しかし、米国が横やりを入れた。
二島返還で北方領土問題を解決し、日本がソ連と平和条約を締結するなら、米国は沖縄を永遠に返還しないと恫喝した。
いわゆる「ダレス(米国務長官)の恫喝」である。
しかし、鳩山一郎内閣は日ソ国交回復を実現し、シベリア抑留者の帰還を実現させた。
鳩山一郎内閣を引き継いだのは石橋湛山内閣だった。
石橋首相は米国にものを言う首相だった。
米国は「米国がラッキーであれば石橋内閣は長続きしない」と予言し、予言を現実化させた。
何らかの「工作」があったと推察される。
石橋内閣が排除されて樹立されたのが岸信介内閣だった。
爾来、米国傀儡政権による日本政治支配が一時の例外を除いて現在まで続いている。
誰が鳩山内閣を潰したのか
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