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ロシア“最悪”のテロ事件 プーチン氏の言葉に現地の人は?/nhk
2024年9月30日 19時54分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240930/k10014596321000.html#:~:text=%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E2%80%9C%E6%9C%80%E6%82%AA%E2%80%9D%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AD
2004年、ロシアで起きた、ソビエト崩壊後、最悪とされるテロ事件。
小さな町の学校で児童や教師1100人以上が人質にとられ、186人の子どもを含む334人が死亡しました。
それから20年。
ことし8月、プーチン大統領が事件後初めてテロ事件の現場を訪れました。
(モスクワ支局長 野田順子)
ロシアの正式名称は「ロシア連邦」で、日本に都道府県があるように、ロシアは「共和国」や「州」、「地方」など、83の「連邦構成主体」で成り立っていて、北オセチア共和国はその1つです。
黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方にある共和国の多くはイスラム教徒が多数派ですが、北オセチア共和国はキリスト教徒が多数派です。
2004年9月1日の朝。
北オセチア共和国にある人口3万8000人ほど(当時)の小さな町ベスランで、イスラム過激派の武装グループが始業式に参加していた児童や保護者、教師などあわせて1100人以上を人質にとり、学校の体育館に立てこもったのです。
事件の背景には何が?
武装勢力の首謀者とメンバーの多くは、北オセチア共和国にも隣接し、当時、ロシアからの独立を求めていたチェチェン共和国のイスラム過激派でした。
体育館に立てこもった武装グループは、人質の解放と引き換えにチェチェン共和国からのロシア軍の撤退などを求めていました。
チェチェン共和国では1990年代、独立を求める武装勢力とロシア軍との間で激しい戦闘が続き、10万人以上の市民が犠牲になりました。
999年8月、首相に任命されたプーチン大統領はロシア軍をチェチェンに侵攻させ、大規模な武装勢力の掃討作戦を開始。
2000年には軍事作戦の終結を宣言しましたが、その後もロシア各地で武装勢力によるテロ事件が相次いでいたのです。
事件はどうなった?
武装グループは食料や水を運び入れることすら認めませんでした。人質になった人たちは狭い体育館の中で極限状態に置かれ、2日以上、閉じ込められました。
そして事件の発生からおよそ52時間後の9月3日。
大きな爆発音に続いて特殊部隊が突入し、武装勢力と激しい銃撃戦になりました。
そして、人質になっていた子ども186人を含む334人が死亡する結果となったのです。
特殊部隊が突入した直後の体育館は爆弾が落ちたかのように屋根や壁の一部が吹き飛び、床も真っ黒に焦げ、銃撃戦の激しさがうかがえました。
癒えない苦しみ
ことし9月、わたしは20年ぶりに事件が起きた学校を訪れました。
当時、武装グループが立てこもっていた体育館は追悼施設として保存され、吹き飛んだ屋根や壁が雨風の影響を受けないよう構造物で覆われていました。
建物の中には十字架が設置され、壁には事件で亡くなった子どもたちの写真が掲げられていました。
事件発生から20年となった9月1日。
学校で行われた追悼行事には遺族や地元の子どもたちなどが参列し、花やろうそくを手向けて、犠牲者を悼みました。
20年という時がたつ中でも、あどけない表情の子どもたちの写真を見つめながら涙を流す人が少なくありませんでした。
娘家族4人を亡くした女性
「孫は小学校に上がったばかりでした。もう1人の孫は2歳。一家全員が犠牲になりました。
20年たちますが、苦痛は増すばかりです。人は年をとるほど弱くなって、苦しみも重くなります」
知人を亡くした男性
「わたしは、アフガニスタンで従軍しましたが、アフガニスタン、チェチェン、そして今、ウクライナで、どれだけ多くの子どもたちが亡くなったことか。
みんなが平和であるために戦争はあってはならないと思います」
初めて現場を訪れたプーチン大統領
事件から20年となったことし、大きな動きがありました。
追悼式典に先立つ8月20日、プーチン大統領が現地を訪れたのです。地元メディアは「事件後初めての訪問」と伝えました。
プーチン大統領は犠牲者を追悼したあと、事件で子どもを失った母親たちでつくる団体の代表らと面会。
そして、ウクライナへの侵攻とベスランで起きたテロ事件への対応を結びつけ、侵攻を続ける姿勢を強調したのです。
プーチン大統領
「われわれは以前、テロリストと戦ったときと同じ方法で、いまロシア西部のクルスク州やウクライナ東部などで犯罪者らと戦っている。ネオナチとの戦いでも同じやり方で目標を達成するだろう」
事件の被害者たちは、プーチン大統領の発言、そして、2年半以上にわたって続くウクライナでの“特別軍事作戦”をどう受けとめているのか。
母親の会の代表の1人、アネタ・ガディエワさんは記者会見で、次のように述べました。
ガディエワさん
「私たちは、学校占拠事件の後、世界はより良い場所になるだろうと思っていました。しかし残念なことに、世界にはより多くの暴力、悲しみ、痛みがあります。
私たちは“特別軍事作戦”で起きているすべてのことに心をかき乱されています」
“テロリスト”の言ったこと
20年前、現地で取材に応じてくれたスベトラーナ・コジレワさん(53歳)にも再び話を聞くことができました。
教師だったコジレワさんは当時、子どもたちと一緒に人質になり、14人の教え子を失いました。4年前までベスランの同じ学校で教師を続けていましたが、いまは図書館で働いています。
話を聞いたのは、町の墓地です。
当時、小さなひつぎが次々と墓地に運ばれ、人々からは、おえつと悲鳴が上がっていました。
整備された墓地には、子どもたちの顔が刻まれた墓石が並んでいます。
20年たったいまも、子どもたちを救えなかったという自責の念が薄まることはないというコジレワさん。つらい記憶がよみがえるため、この場所を訪れることはめったにないといいます。
コジレワさん
「事件は、恐怖でした。その一言に尽きます。
考えたのは子どもたちのことで、唯一の問いは、子どもたちになんの過ちがあるのかということでした。
20年前、立てこもっていた武装グループのメンバーに『子どもたちには何の罪もない。せめて子どもたちだけでも解放してほしい』と言いましたが、『農作業をしていただけの子どもたちの上にお前たちは爆弾を落としていった。われわれの子どもは何か悪いことをしたのか』と言われました。
あの日以来、すべてが変わりました。天国の子どもたちは私たちを見ています。彼らに恥ずかしくない生き方をしなければいけないと思って生きてきました」
プーチン政権がウクライナへの侵攻を開始して2年半が過ぎましたが、依然として双方の激しい戦闘が続いています。
ロシアの多くの若者たちが前線で戦う一方、ウクライナではロシア軍のミサイルや無人機による市街地への攻撃で、連日のように子どもたちが犠牲になっています。
この2年半、ウクライナで戦争の犠牲になり死亡した子どもの数は575人(ウクライナ政府発表)。コジレワさんは率直な思いを語ってくれました。
コジレワさん
「ベスランの事件はベスランの事件として、ほかと比べることに意味はないと思います。
でも、ウクライナでも子どもが亡くなっています。しかも大勢の子どもがです。
私たちの子どもたちと同じ何の罪もない子どもたちです。なぜこんなことが起きているのか、激しい怒りを感じます」
取材を終えて
普段モスクワで生活していると、兵士募集の看板を目にする以外、ロシアが戦争をしているという現実を身近に感じることはあまりありません。
ショッピングセンターや公園で楽しそうな家族連れや若者たちを見ると、「この人たちはウクライナで起きていることに思いをはせることがあるのだろうか」と思うこともしばしばです。
一方、ベスランの追悼行事で話を聞いた参列者5人のうち2人が「身内がウクライナで戦っている」と話していました。
20年前に娘家族4人を亡くしたという高齢の女性は、2人の孫がウクライナで戦っていると、明かしてくれました。別の女性は義理の息子が戦場にいると言います。
2人とも不安そうな表情を浮かべながら「心配でたまらない」と話していました。
プーチン政権は、首都モスクワなど大都市で政権への不満が高まらないよう、これまでベスランのある北オセチア共和国など、遠く離れた地方で兵士を確保し、戦場に送ってきたと指摘されていますが、その一端を垣間見たようでした。
小さなひつぎが次々に墓地へ運ばれ、家族を失った人々の悲しみであふれていた20年前のベスランでの取材は忘れられません。
そのベスランの人たちが再び、身近な人たちの命を案じている状況を目のあたりにし、何のための、そして誰のためのウクライナ侵攻なのか、考えずにはいられません。
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