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日本軍が真珠湾を攻撃してから12月7日で83年
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202412100000/
2024.12.10 櫻井ジャーナル
マレーで戦端を開いた直後、1941年12月7日午前8時(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊の基地を攻撃した。その時点でアメリカ側は日本側の機密情報を入手していた。ドイツの外交官ハンス・トムセンは日本の外務省が使っていた暗号機B型(パープル)の暗号をアメリカが解読しているとヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相へ報告、その情報は日本側へ伝えられていたが、日本の外務省はそれを使い続けている。
真珠湾攻撃の半年前、1941年6月22日に300万人以上のドイツ軍はソ連に向かって進撃を開始した。バルバロッサ作戦だ。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたという。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)
日本軍は1939年にノモンハンでソ連軍に敗北、その後、東南アジアへ向かい始める。自分たちの利権が脅かされることを恐れたウィンストン・チャーチルは1941年11月にベンガル(現在のバングラデシュ周辺)で「拒否政策」と呼ばれる焦土作戦を打ち出した。日本軍に食糧を調達させないということで、サイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収、また輸送手段を奪うということで漁民の船や自転車を取り上げたのだ。
その政策を推進中の1942年10月にベンガル地方はサイクロンなど自然災害に襲われる。死傷者が出ただけでなく、農作物が大きな打撃を受けた。食糧不足は避けられない状態になり、飢餓が見通されたのだが、チャーチルの意思で米の運び出しは続いた。
1943年10月、インドからチャーチル首相に対し、政策の継続は大惨事を招くという警告の電報が打たれ、イギリス下院では満場一致で食糧を送ると議決しているのだが、それを首相は無視。食糧を送るというアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領からの提案もチャーチルは拒否した。
チャーチルの焦土作戦の結果、ベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の人数はベンガル周辺だけで100万人から300万人に達したと推計されている。
1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月にソ連軍が猛反撃、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、43年1月には生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的だった。そうした中、チャーチルはインドで人びとを餓死に追い込む作戦を強行したのだ。
スターリングラードでのドイツ軍降伏に慌てた米英仏の首脳は1943年1月にカサブランカで会談、「ソ連勝利」の印象が広がらないように戦争を長引かせようと考え、打ち出されたのが「無条件降伏」だと言う人もいる。
イギリス軍とアメリカ軍は1943年7月にシチリア島へ上陸するが、その際、アメリカの情報機関はコミュニスト対策でマフィアと手を組んでいる。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。こうした作戦の目的はソ連軍だけでなく、コミュニストを主力とするレジスタンスに対抗することにあった。
アメリカ海軍のONI(対諜報部)はユダヤ系ギャングの大物だったメイヤー・ランスキーの仲介でイタリア系犯罪組織の大物ラッキー・ルチアーノに接触、協力させることに成功した。ランスキーとルチアーノは子ども時代からの友人。ふたりともアーノルド・ロスティンの子分だった。
当時、ルチアーノは30年から50年の強制労働という不定期刑が言い渡されていた。優雅に暮らしていたとはいうものの、死ぬまで刑務所から出られそうになかった。そこに救いの手をさしのべてきたのがONIである。
ルチアーノはシチリア島の大ボスだったカロージェロ・ビッツィーニを紹介、ビッツィーニの要請で島内のボスはイタリア軍やドイツ軍に関する情報を米軍に提供したうえ、破壊活動にも協力した。シチリア島で強い影響力を持っていたコミュニストを押さえ込むため、マフィアを利用したという側面もある。大戦後、シチリア島がマフィアの支配地になるのはそのためだ。1946年2月9日、ルチアーノは「好ましからざる人物」という名目で刑務所を出され、国外に追放された。自由の身になったということだ。
チャーチルと対立関係にあったアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月に急死、その翌月にドイツは降伏した。その直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論み、イギリスのJPS(合同作戦本部)に対して作戦立案を命令する。そして5月22日にアンシンカブル作戦は提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのはその年の7月1日を予定、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団が投入されることになっていたが、これは発動していない。発動しなかった理由は参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
ソ連と日本が手を組むことを懸念したという見方もあるのだが、イギリスには真珠湾攻撃前、「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようという案もあった。この案を考えた勢力は敵をソ連と考えていたわけだ。実際、アメリカやイギリスで大きな力を持つ金融資本はナチスへ資金や石油を提供していた。チャーチルはシティの中枢に繋がっている人物だが、ウォール街は1933年から34年にかけてルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画していた。この計画を阻止したのが海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将だ。
しかし、ルーズベルトが急死してニューディール派が衰退するにつれて金融資本の力は強まる。米英情報機関は両国の金融資本によって作られたと考えられている。
チャーチルは1945年7月に首相の座から降りるが、翌年の3月にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切っている」と演説し、冷戦の開幕を告げた。1947年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
また、チャーチルは1951年4月にソ連を核攻撃するという考えを口にしている。自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していたことを示す文書が発見されたというのだ。
チャーチルはシティの大物代理人であり、その戦略は今でもイギリスに残っているように見える。
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