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米国支配層はソ連を破壊するために核兵器を開発、大戦後は先制核攻撃を目論んだ
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2024.08.05 櫻井ジャーナル
アメリカ軍は1945年8月6日にウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島へ投下した。その3日後には長崎へプルトニウム型原爆「ファット・マン」を落としている。
その年の2月4日から11日にかけてイギリスのウィンストン・チャーチル英首相、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、そしてソ連のヨシフ・スターリンがヤルタで会談、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告する条件も決められた。
ドイツはルーズベルトが急死した翌月の5月に降伏、8月上旬にソ連は参戦することが自動的に決まったが、それに合わせ、トルーマン政権は原爆を日本へ投下したわけだ。
アメリカの核兵器の開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と名付けられていたが、主導した国はイギリス。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。
1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。
この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
広島と長崎への原爆投下を許可したのは大統領に就任してまもないハリー・トルーマンである。アメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日のことだ。日本が「ポツダム宣言」にどう反応するかを見ずにトルーマンは原爆投下による市民虐殺を決めたわけである。
投下決定の8日前、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。その翌日から始まるポツダム会談を意識しての実験だった。当初の実験予定日は7月18日と21日の間だったが、トルーマンの意向で会談の前日に早めたのである。
トルーマンは1944年11月の大統領選挙で副大統領候補に選ばれたのだが、ルーズベルト大統領と親しくはなかった。副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスが言いがかりに近いスキャンダルで排除され、民主党幹部の圧力でトルーマンが選ばれたようだ。
トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはアメリカン・バンク・アンド・トラストの会長を務め、アメリカ民主党の重要な資金提供者だった人物で、シオニストとしても知られている。シオニストの武装組織ハガナ(イスラエル軍の母体)のエージェントだったとも言われている。ジョン・F・ケネディ大統領暗殺を受けて副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンもフェインバーグをスポンサーにしていた。
ルーズベルト大統領の時代、アメリカの権力システムは二重構造になっていた。ルーズベルトのニューディール派とウォール街を拠点とする金融資本が対立していたのだ。
この対立は1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した直後から生じている。この選挙ではウォール街の傀儡で現役のハーバート・フーバーが敗れ、ニューディール派のルーズベルトが勝利したのだ。ルーズベルトは資本主義を維持するためには巨大資本の活動を規制し、労働者の権利を拡大する必要があると考え、国際問題では植民地やファシズムに反対していた。これはウォール街にとって容認できないことだ。
そこで金融資本は在郷軍人会を利用したクーデターを計画する。計画の中心的な存在は巨大金融機関のJPモルガン。司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。
ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。
話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。
1933年にドイツではナチスが国会議事堂放火事件を利用して実権を握るが、この年の8月にシオニストはナチス政権とユダヤ系ドイツ人をパレスチナへ移住させることで合意していた。「ハーバラ合意」だ。ナチスの「ユダヤ人弾圧」によってユダヤ系の人びとをパレスチナへ向かわせることができるとシオニストは考えたようだ。
しかし、ユダヤ教徒の多数派はパレスチナへ移住しない。ヨーロッパでの生活に慣れている人びとの多くはオーストラリアやアメリカへ向かう。1938年11月にドイツではナチスがユダヤ系住民を襲撃、多くの人が殺され、収容所へ入られ始めるが、この「水晶の夜」以降もユダヤ教徒はパレスチナでなくアメリカやオーストラリアへ逃れた。その後、シオニストはイラクなどでユダヤ教徒をターゲットにしたテロ攻撃を実施してパレスチナへと導いた。
ウォール街はシティ(イギリスの金融界)からスピンオフして出来上がったのだが、この米英金融資本は親ファシズムで、ナチスを金融面から支援していたことが知られている。
ナチスへの資金援助で特に重要な役割を果たしたのはディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなど。その経営陣にはジョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。
そのほかスイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。
こうした米英金融資本に支えられたナチスは1941年6月、ソ連に対する軍事侵攻を始めた。「バルバロッサ作戦」だが、思惑通りの展開にならない。1942年8月にはスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的になった。
この展開にソ連の敗北を期待していたチャーチルは慌てる。1943年1月にルーズベルト大統領とチャーチル首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した。「無条件降伏」という話が出てくるのはこの会談だった。この条件はドイツの降伏を遅らせることが目的だったとも言われている。、米英はソ連対策を講じるための時間的な余裕が必要だった。
その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始める。「サンライズ作戦」だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。「ラットライン」、「ブラッドストーン作戦」、「ペーパークリップ作戦」などだ。こうした工作でナチスの幹部や協力者はアメリカの保護下に入り、工作にも参加することになる。そうした人脈はソ連消滅後、旧ソ連圏へ戻って活動を始めた。その一例がウクライナのネオ・ナチである。
ドイツが降伏した直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
この計画は実行されなかったが、アメリカ軍は8月6日に広島へ、9日には長崎へ原爆を投下した。ソ連を意識してのことだろう。この攻撃のほか日本の諸都市を焼夷弾で絨毯爆撃する作戦を指揮したカーティス・ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、1954年にはソ連を破壊するために600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成している。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備した。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収されて軍事基地化が推し進められた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。
1955年頃になるとアメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)、57年になるとアメリカ軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)
そして1957年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
そのころからアレゲーニー山脈の中、ウエストバージニア州のグリーンブライア・ホテルの地下に「地下司令部」が建設されている。いわゆるグリーンブライア・バンカーだ。1959年に国防総省が中心になって着工、62年に完成している。
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、統合参謀本部のライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったルメイなど好戦派は、1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを発射するしかない。そこでソ連はキューバへ中距離ミサイルを運び込み、キューバ危機になる。1962年10月のことだ。この危機を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。現在の世界情勢は当時より危険だと考えられている。
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