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天皇による安保条約の締結
2024-06-06 10:27:50
★屈辱の安保条約
天皇がポツダム宣言を受諾し、日本は終戦を迎えました。
そしてアメリカの占領下に置かれます。
そのポツダム宣言は、日本は連合国最高司令官のすべての要求に
従うことが書かれてあります。
日本は連合国最高司令官マッカーサーの要求にすべて従わなければなりません。
そして日米の安保条約が結ばれるのですが、現行の安保条約はあまりにも不平等で
何のための米軍基地であり、何のための安保条約か、、、という
根本的な問いを日本国民は突き付けています。
日米安保交渉の主要関係者は
アメリカ側 ダレス アメリカの政治家
マッカーサー アメリカ陸軍元帥
日本側 吉田茂
西村熊雄 外務官僚
ということになっています。
それではどういう経緯でこのような不平等な条約が結ばれたのでしょう。
★日本が用意した条約案 西村熊雄
日本が用意した条約案とは、51年1月末に米大統領特使、ダレスが来日し
日米間での第一次交渉が開始されるにあたり、吉田茂首相支持の下
外務省事務当局が練り上げた
【安全保障のための日米協力に関する提案】
のことです。
この条約の根幹をなす趣旨について、西村は繰り返し次のように
言及しています。
「合衆国が日本を防衛するのは、何も日本のみのためでなく
日本を防衛することは、同時に合衆国を防衛することである。
だから日本について、両国間に共同防衛の関係があるべきである。
だから日本国は、合衆国軍隊の駐在に同意する」
というのが日本提案の趣旨であり、日本は終始この立場を取りました。
西村が強調したかったことは、
「日本の安全は、同時にアメリカの安全であり、したがって日本が
アメリカに基地を提供し、アメリカが日本を防衛することによって
両者は国連憲章第五一条が規定する、集団的自衛権の関係立つ」
ということでした。
しかし現行の安保条約は、西村が言及した趣旨にはなっていません。
結局、締結された日米安保条約は、国連との関係もはっきりしないし
日本が攻撃された場合のアメリカ軍隊による防衛の確実性さえも
問題視されるようなものでした。
敗戦国であり、被占領国である日本にとってそれは
仕方のないことなのでしょうか。
西村の意図した趣旨に少しでも近づくような、道をさぐることは
できなかったのでしょうか。
★天皇会見
日本が降伏し米軍が占領を開始してから、一か月後の1945年9月27日
昭和天皇は、はじめてマッカーサーを訪問しました。
この時、天皇が何を語ったかがマスメディアや一部の研究者の間で
あたかも史実であったかのように扱われてきたのが
【私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての
決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する
諸国の裁決にゆだねるためにお尋ねした】
という有名な一節です。
この感動的なエピソードは、大きな反響を呼びましたね。
しかし、75年11月に作家の児島氏が文芸春秋に公表した会見で
通訳を務めた外務省の奥村勝蔵が記録したとされる手記によれば
【この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが
戦争となるの結果をみましたことは、自分の最も遺憾とする所であります】
と遺憾の意の表明はあるが、全責任発言は見られないと言う。
さらに奥村は
「私はこの会談の後、すぐその記録をつくりそれは外務省に残っている」
と述べています。
外務省や宮内庁が公式記録を公表すればいいだけなのに
それをしないということは、奥村の述べた通りなのでしょう。
全責任発言があれば、外務省や宮内庁は真っ先に公表するでしょう。
だって天皇の名誉になる発言だから。
50年4月18日、昭和天皇とマッカーサーの10回目の会見が行われた。
1回会見から10回目と天皇は、マッカーサーと会見を続けてきた。
このように天皇は、安保条約の締結に深くかかわっています。
安保条約交渉の主要関係者は、表向きは先に挙げたあの4人ですが
昭和天皇を加えて実際は5人というべきでしょう。
安保条約は吉田茂のワンマン外交の所産として、吉田だけが
表ざたにされ悪人扱いにされてきましたが、事実はどうなのでしょう。
吉田茂はあの当時の日本の首相です。
しかしその上には天皇がいて、さらにその上にはGHQがいて
さらにそのGHQには連合国最高司令官のマッカーサーがいました。
降伏文書には、連合国最高司令官の要求にはすべて従わなければ
ならないのだから、吉田といえどもマッカーサーからみれば
ただの奴隷です。
★天皇による安保条約の締結
結論から言えば、安保条約はダレスと昭和天皇の圧力によって
締結に至った条約です。
つまり安保条約の基礎は、昭和天皇によって作り出されたのです。
47年5月日本の安全保障は、アメリカの軍事力による構想を
マッカーサーとの第四回会見で提起し、要請しています。
さらに安保条約を根底で支える、沖縄問題についても天皇は
早い段階からイニシアチブをとっています。
●天皇の沖縄メッセージ
アメリカによる沖縄軍事占領 47年9月
【25年から50年あるいはそれ以上にわたる長期の貸与】
という有名な天皇の沖縄メッセージです。
天皇は、当時沖縄の安全を考えてこのようなメッセージを送ったのか。
天皇のメッセージの内容の中に、沖縄の安全の問題は一言も出てきません。
それより、沖縄の軍事占領が米国の利益になるとともに、日本の防衛にも
供するであろうとの見解を表明しています。
そして日本が直面している危機は、ロシアの脅威と日本の内部への干渉を
上げています。
つまり米軍占領下の沖縄は、ソ連による日本本土への直接間接の侵略に対する
防波堤として位置づけられていたのです。
7月10日、近衛文麿を天皇の特使としてソ連に派遣した。
問題は連合国側に提示する和平交渉の条件です。
近衛がまとめた条件の項では
【国土に就ては、なるべく他日の再起に便なることに務むるも
やむをえざれば、固有本土をもって満足す】矢部貞治 近衛文麿下
と記されていた。
●固有本土の解釈について
【最下限、沖縄、小笠原島、樺太を捨て千島は南半分を保有する程度とすること】
と説明されています。
つまり沖縄は、日本の固有本土ではなく、和平条件として連合国側に
捨てられるものと位置付けられていたのです。
近衛文麿の特使派遣が実現していれば、沖縄は文字通り捨てられていたのです。
天皇やその側近にとって沖縄は、一貫して本土防衛、国体護持のための
手段であり、捨て石とみなされていたのです。
そして結果として沖縄は、事実上米軍支配下に置かれるという
歴史を歩むことになりました。
こうして本土の全土基地化と日米の防波堤としての沖縄軍事占領からなる
安保体制が形成されることになりました。
安保条約の成立 著豊下楢彦
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