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二重外交の果てに
2024-06-18 10:01:07
こんにちわ
占領を経て米国の植民地と化してしまった日本の事情を見ています。
★天皇制存続のために
天皇とその側近グループにとって、降伏とともに天皇の戦争責任追及の
圧力にいかに対応するかという問題が、天皇制存続そのものに
直結していたのです。
つまり天皇の側にとって生き残る道は、占領権力への全面協力以外に
なかったことは言うまでもない。
マッカーサーと天皇の会見は、東京裁判が開廷した46年5月末以降
半年に一度のペースで続けられました。
マッカーサーの在任中、11回の会見が行われています。
しかしそれらの会見は、ベールに包まれほとんど明らかになっていません。
というのも天皇の発言内容は、一般民衆にあまり知られたくないものがあり
国としても公表したくなかったのではないでしょうか。
とはいえ何らかの経緯で、一部のマスメディアに公表されることになった
会見内容からは、両者の議論は極めて具体的で高度に政治的であったという。
その例をみてみましよう。
●第三回目会見記録 朝日ジャーナル 1989年3月3日号
この会見は46年10月16日のことである。
そこで天皇は5月19日の食糧メーデーや頻発する労働争議について
【日本人の教養未だ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる
ストライキを見て、それを行なえば民主主義国家になれるかと思う
ような者も少なからず】
と厳しく非難し、事実上の取り締まりをマッカーサーに要請したのです。
この発言を当時の国民が知ったなら、おそらく激怒したことでしょう。
わずか1年数か月前まで、一億の日本人は天皇制への限りない
宗教心をもって「天皇の戦争」を戦っていたのです。
それが敗北に終わったのは、天皇によれば日本人の
「教養未だ低く、且宗教心の足らない」
ためであったからなのか、、、、
★すべてをアメリカに委ねたい
47年5月3日新憲法が施行され、天皇は元首ではなくなり、象徴としての
地位が確定しました。
会見では施行されたばかりの新憲法をめぐって、議論が交わされます。
●会談記録 日本占領3
天皇はまずこう切り出しました。
【日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に
期待せねばなりませぬ。
しかし国連が極東委員会のごときものであることは、困ると思います】
四大国が拒否権をもっている極東委員会を引き合いに出して、国連に期待
できない旨を強調して、マッカーサーに意見を求めた。
【日本が完全に軍備を持たないことが、日本のためには最大の安全保障であり
これこそが日本が生きる唯一の道である。】
と九条の精神を天皇に説いたのです。
そして天皇は
【日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である
米国がそのイニシアブを執ることを要するのでありまして、このため
元帥のご支援を期待しております】
と事実上アメリカの軍事力による、日本の安全保障を求めました。
この議論は天皇が象徴としての、政治的行為を禁じられた新憲法の
施行からわずか3日目に交わされているのです。
天皇とマッカーサーの会見は、50年4月の第10回目が最後です。
マッカーサーはこの後、朝鮮戦争の指揮にあたり多忙を極める。
マッカーサーを引き継いだのは、リッジウェイという米国の陸軍軍人
彼は1951年4月から1952年4月まで、第二代連合国軍最高司令官として
日本の占領統治にあたりました。
彼は朝鮮戦争で、窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名です。
★二重外交の果て
講和条約と安保条約をめぐり天皇外交ともいうべき、天皇の政治的
行為をみてきました。
公的な外交主体であるのが、吉田外交です。
あの当時、日本は二重外交をしていたのです。
公的な外交である吉田外交は、天皇外交によって封じ込められてしまった
というのが事実です。
マッカーサーが解任されて5か月後、1951年9月8日
日本はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約に調印しました。
講和条約はサンフランシスコの豪華なオペラハウスで、安保条約は
サンフランシスコ郊外の米国陸軍の基地の中で
米国側は4人 アチソン、ダレス、ワイリー、ブリッジス
日本側は吉田首相ただひとり
なぜこうなったのか、こういうアンバランスなことは普通外交の
世界では起こりません。
でも、二重外交で吉田外交が封じ込められたとしたら、、、
吉田は天皇の命令をたったひとりで背負ってこの安保条約調印に
臨まなければならなかったとしたら、、、、
こういうことも起こり得るでしょう。
安保条約とは、交渉の最高責任者が署名を固辞し続ける中で
ダレスと天皇の圧力によって締結に至ったのです。
交渉の最高責任者とは吉田首相です。
吉田は国を売る真似はできないとして、安保条約に署名することは
できないとして固辞し続けた。
もし吉田がそのような条約に署名していたら、袋叩きにあうだけでなく
命もなかったでしょう、、、、
豊下楢彦著安保条約の成立
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