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「普通の人々」こそが巻き込まれる「全体主義」という悪夢
日本でも起きうるナチズムの再来
現代ビジネス 2022年9月8日号
人々を分断し、生活基盤を破壊し尽くす「全体主義」。一部の熱狂的な人間ではなく、ごく普通の人々さえもが運動に加わり、自分の意志とは無関係に突き進んでしまうところに、全体主義の本当の怖さがある。格差が拡大し、民族・人種間の対立が再燃し、テクノロジーが進化を遂げる今日の世界、形を変えた全体主義が、我々のもとに再び現れる可能性はあるのか。
「全体主義」との対決を生涯のテーマとしたハンナ・アレントの思想に迫る書籍『ハンナ・アレント 全体主義という悪夢』から、「はじめに」を抜粋してお届けします。
人間性を破壊する全体主義
「これは決して起きてはならないことだった」
これがナチスによるユダヤ人の大量虐殺のニュースをはじめて聞いたときのハンナ・アレントの感想だった。大量の人間が身にまとうもの一切を剥ぎ取られて殺される。まるで死体製造工場のように、生きるに値するかどうかで人間が選別されてガス室に送られ、つくりだされた死体は焼却され解体されて処分される。一切の人間的な痕跡がそこでは抹消されている。
そもそもこのようなことを人間はしてはならないはずだった。どうしてそのようなことが起こってしまったのか。あのようなことが起きてしまった後で、われわれは人間としてどのように生きて行けばよいのだろうか。
アレントにとってユダヤ人の大量虐殺は、一握りの者の犯した残虐行為ではない。筋金入りのサディスト、極悪非道の人間の犯罪であれば、しかるべく法に照らして処罰すれば事は済むだろう。だが、ナチスの行ったのは一部の犯罪集団の犯行ではない。数百万人といわれる人間を拘束して収容所で殺処分するなどということは、警察や軍隊、行政、ナチス党や親衛隊などの実行部隊がその遂行を担うだけではなく、無数の人間が協力しなければ到底なしうることではない。そこには、ナチスを積極的に支持したこともなければ党の活動に加わったこともない普通の市民、普段は他人に暴力をふるったり犯罪に手を染めたりするなど思いもよらないごく普通の人間が、密告などのかたちでユダヤ人の摘発に協力することから、見て見ぬ振りをしてユダヤ人に対する蛮行をやり過ごすことまでを含めて、何らかの形で関与していた。殺害の標的となるはずのユダヤ人自身も、一部の者はナチスに取り入って難を逃れようとして、あるいは自分にとって大切な者を救おうとして、収容対象者の選抜や収容所への移送に協力したし、多くの者は諦めからか絶望からか、ナチスの指示に従順に従っていったのである。
意図するしないにかかわらずナチスの犯行に関わった多くの人々からは、およそまっとうな感情や感覚、正常な判断力が失われていた。ナチスの暴政はユダヤ人や一部の少数者、反対者を弾圧しただけではない、ユダヤ人の抹殺にいきつく運動に多くの者を巻きこむことによって、彼らの人間性そのものを奪ったのである。その意味において、ナチスが行ったことは、人間を人間として成り立たせている基盤そのものの破壊であった。そうした人間破壊の現象をアレントは「全体主義」と名づけたのである。
「運動」としての全体主義
「全体主義」という言葉は普通、ヒトラーのナチス・ドイツやスターリン時代のソビエト・ロシアのように、独裁的な人物を指導者と仰ぐ政党が排他的なイデオロギーに基づいて支配する政治体制に対して用いられる。政治学などでは、単一政党による軍や官僚の統制、マス・メディアなどを通じた社会・経済の一元的・全面的な支配がその指標とされているが、アレントは全体主義の特徴を何よりも「運動」に求めている。幅広い国民大衆を巻きこんだ「運動」が強大化して政治権力を掌握したあかつきには、旧体制の官僚や軍指導者、政界・財界の指導者でこれに従わないものは粛清され、野党の抵抗は徹底的に弾圧される。排他的なイデオロギーに基づいて敵対勢力とされた集団は逮捕されて収容所に送られる。社会の隅々にまでおよぶこうした支配は、経済的な破局や自滅的な戦争によってやがては自らの体制そのものを破壊する。ユダヤ人の強制収容所での大量虐殺はその終着点であった。
人々を分断し、生活基盤を破壊し尽くす「全体主義」。一部の熱狂的な人間ではなく、ごく普通の人々さえもが運動に加わり、自分の意志とは無関係に突き進んでしまうところに、全体主義の本当の怖さがある。格差が拡大し、民族・人種間の対立が再燃し、テクノロジーが進化を遂げる今日の世界、形を変えた全体主義が、我々のもとに再び現れる可能性はあるのか。
「全体主義」との対決を生涯のテーマとしたハンナ・アレントの思想に迫る書籍『ハンナ・アレント 全体主義という悪夢』から、「はじめに」を抜粋してお届けします。
人間性を破壊する全体主義
「これは決して起きてはならないことだった」
これがナチスによるユダヤ人の大量虐殺のニュースをはじめて聞いたときのハンナ・アレントの感想だった。大量の人間が身にまとうもの一切を剥ぎ取られて殺される。まるで死体製造工場のように、生きるに値するかどうかで人間が選別されてガス室に送られ、つくりだされた死体は焼却され解体されて処分される。一切の人間的な痕跡がそこでは抹消されている。
そもそもこのようなことを人間はしてはならないはずだった。どうしてそのようなことが起こってしまったのか。あのようなことが起きてしまった後で、われわれは人間としてどのように生きて行けばよいのだろうか。
アレントにとってユダヤ人の大量虐殺は、一握りの者の犯した残虐行為ではない。筋金入りのサディスト、極悪非道の人間の犯罪であれば、しかるべく法に照らして処罰すれば事は済むだろう。だが、ナチスの行ったのは一部の犯罪集団の犯行ではない。数百万人といわれる人間を拘束して収容所で殺処分するなどということは、警察や軍隊、行政、ナチス党や親衛隊などの実行部隊がその遂行を担うだけではなく、無数の人間が協力しなければ到底なしうることではない。そこには、ナチスを積極的に支持したこともなければ党の活動に加わったこともない普通の市民、普段は他人に暴力をふるったり犯罪に手を染めたりするなど思いもよらないごく普通の人間が、密告などのかたちでユダヤ人の摘発に協力することから、見て見ぬ振りをしてユダヤ人に対する蛮行をやり過ごすことまでを含めて、何らかの形で関与していた。殺害の標的となるはずのユダヤ人自身も、一部の者はナチスに取り入って難を逃れようとして、あるいは自分にとって大切な者を救おうとして、収容対象者の選抜や収容所への移送に協力したし、多くの者は諦めからか絶望からか、ナチスの指示に従順に従っていったのである。
意図するしないにかかわらずナチスの犯行に関わった多くの人々からは、およそまっとうな感情や感覚、正常な判断力が失われていた。ナチスの暴政はユダヤ人や一部の少数者、反対者を弾圧しただけではない、ユダヤ人の抹殺にいきつく運動に多くの者を巻きこむことによって、彼らの人間性そのものを奪ったのである。その意味において、ナチスが行ったことは、人間を人間として成り立たせている基盤そのものの破壊であった。そうした人間破壊の現象をアレントは「全体主義」と名づけたのである。
「運動」としての全体主義
「全体主義」という言葉は普通、ヒトラーのナチス・ドイツやスターリン時代のソビエト・ロシアのように、独裁的な人物を指導者と仰ぐ政党が排他的なイデオロギーに基づいて支配する政治体制に対して用いられる。政治学などでは、単一政党による軍や官僚の統制、マス・メディアなどを通じた社会・経済の一元的・全面的な支配がその指標とされているが、アレントは全体主義の特徴を何よりも「運動」に求めている。幅広い国民大衆を巻きこんだ「運動」が強大化して政治権力を掌握したあかつきには、旧体制の官僚や軍指導者、政界・財界の指導者でこれに従わないものは粛清され、野党の抵抗は徹底的に弾圧される。排他的なイデオロギーに基づいて敵対勢力とされた集団は逮捕されて収容所に送られる。社会の隅々にまでおよぶこうした支配は、経済的な破局や自滅的な戦争によってやがては自らの体制そのものを破壊する。ユダヤ人の強制収容所での大量虐殺はその終着点であった。
「全体主義」によって破壊されるのは敵対集団や被支配者層だけではない。全体主義体制においては、単一政党や国家の諸機関の間に競合や対立が日常的に生じる。軍や警察をはじめとする各種の行政や経済管理の分野で同一領域に複数の党機関や行政機関が設立されて争いを繰り広げる。通常の国家体制において存在していた権限配分や役割分担は解体される。効率的な行政や権力の相互抑制はなく、指導者を取りまくリーダーの権力争いが混乱に拍車をかける。全体主義の運動は国家そのものを破壊するのである。
かくして全体主義はそれまで人間の生活基盤となっていたもの、既存の道徳規範や伝統をはじめとする一切のものを破壊してしまった。そこでは自由主義や保守主義、社会主義といった従来の政治思想やイデオロギーはもはや通用しない。
「既存の一切のものが効力を失った世界にわれわれはいま生きている。そこから、人間はどのような関係をとり結んでいったらいいのか」、これがアレントの問いであった。
全体主義は再来するか?
全体主義は過ぎ去った遠い昔の話ではない。
なるほど、ヒトラーのナチス・ドイツは第二次世界大戦の敗戦によって崩壊し、全体主義のもう一つの代表であるソビエト・ロシアのスターリン体制も彼の死後に変容を遂げ、「ベルリンの壁」の崩壊によってコミュニズムの体制そのものが消滅した。ナチスの体制であれスターリン体制であれ、いくつもの歴史的な要因や出来事が積み重なって成立している。
人々を分断し、生活基盤を破壊し尽くす「全体主義」。一部の熱狂的な人間ではなく、ごく普通の人々さえもが運動に加わり、自分の意志とは無関係に突き進んでしまうところに、全体主義の本当の怖さがある。格差が拡大し、民族・人種間の対立が再燃し、テクノロジーが進化を遂げる今日の世界、形を変えた全体主義が、我々のもとに再び現れる可能性はあるのか。
「全体主義」との対決を生涯のテーマとしたハンナ・アレントの思想に迫る書籍『ハンナ・アレント 全体主義という悪夢』から、「はじめに」を抜粋してお届けします。
人間性を破壊する全体主義
「これは決して起きてはならないことだった」
これがナチスによるユダヤ人の大量虐殺のニュースをはじめて聞いたときのハンナ・アレントの感想だった。大量の人間が身にまとうもの一切を剥ぎ取られて殺される。まるで死体製造工場のように、生きるに値するかどうかで人間が選別されてガス室に送られ、つくりだされた死体は焼却され解体されて処分される。一切の人間的な痕跡がそこでは抹消されている。
そもそもこのようなことを人間はしてはならないはずだった。どうしてそのようなことが起こってしまったのか。あのようなことが起きてしまった後で、われわれは人間としてどのように生きて行けばよいのだろうか。
アレントにとってユダヤ人の大量虐殺は、一握りの者の犯した残虐行為ではない。筋金入りのサディスト、極悪非道の人間の犯罪であれば、しかるべく法に照らして処罰すれば事は済むだろう。だが、ナチスの行ったのは一部の犯罪集団の犯行ではない。数百万人といわれる人間を拘束して収容所で殺処分するなどということは、警察や軍隊、行政、ナチス党や親衛隊などの実行部隊がその遂行を担うだけではなく、無数の人間が協力しなければ到底なしうることではない。そこには、ナチスを積極的に支持したこともなければ党の活動に加わったこともない普通の市民、普段は他人に暴力をふるったり犯罪に手を染めたりするなど思いもよらないごく普通の人間が、密告などのかたちでユダヤ人の摘発に協力することから、見て見ぬ振りをしてユダヤ人に対する蛮行をやり過ごすことまでを含めて、何らかの形で関与していた。殺害の標的となるはずのユダヤ人自身も、一部の者はナチスに取り入って難を逃れようとして、あるいは自分にとって大切な者を救おうとして、収容対象者の選抜や収容所への移送に協力したし、多くの者は諦めからか絶望からか、ナチスの指示に従順に従っていったのである。
意図するしないにかかわらずナチスの犯行に関わった多くの人々からは、およそまっとうな感情や感覚、正常な判断力が失われていた。ナチスの暴政はユダヤ人や一部の少数者、反対者を弾圧しただけではない、ユダヤ人の抹殺にいきつく運動に多くの者を巻きこむことによって、彼らの人間性そのものを奪ったのである。その意味において、ナチスが行ったことは、人間を人間として成り立たせている基盤そのものの破壊であった。そうした人間破壊の現象をアレントは「全体主義」と名づけたのである。
「運動」としての全体主義
「全体主義」という言葉は普通、ヒトラーのナチス・ドイツやスターリン時代のソビエト・ロシアのように、独裁的な人物を指導者と仰ぐ政党が排他的なイデオロギーに基づいて支配する政治体制に対して用いられる。政治学などでは、単一政党による軍や官僚の統制、マス・メディアなどを通じた社会・経済の一元的・全面的な支配がその指標とされているが、アレントは全体主義の特徴を何よりも「運動」に求めている。幅広い国民大衆を巻きこんだ「運動」が強大化して政治権力を掌握したあかつきには、旧体制の官僚や軍指導者、政界・財界の指導者でこれに従わないものは粛清され、野党の抵抗は徹底的に弾圧される。排他的なイデオロギーに基づいて敵対勢力とされた集団は逮捕されて収容所に送られる。社会の隅々にまでおよぶこうした支配は、経済的な破局や自滅的な戦争によってやがては自らの体制そのものを破壊する。ユダヤ人の強制収容所での大量虐殺はその終着点であった。
「全体主義」によって破壊されるのは敵対集団や被支配者層だけではない。全体主義体制においては、単一政党や国家の諸機関の間に競合や対立が日常的に生じる。軍や警察をはじめとする各種の行政や経済管理の分野で同一領域に複数の党機関や行政機関が設立されて争いを繰り広げる。通常の国家体制において存在していた権限配分や役割分担は解体される。効率的な行政や権力の相互抑制はなく、指導者を取りまくリーダーの権力争いが混乱に拍車をかける。全体主義の運動は国家そのものを破壊するのである。
かくして全体主義はそれまで人間の生活基盤となっていたもの、既存の道徳規範や伝統をはじめとする一切のものを破壊してしまった。そこでは自由主義や保守主義、社会主義といった従来の政治思想やイデオロギーはもはや通用しない。
「既存の一切のものが効力を失った世界にわれわれはいま生きている。そこから、人間はどのような関係をとり結んでいったらいいのか」、これがアレントの問いであった。
全体主義は再来するか?
全体主義は過ぎ去った遠い昔の話ではない。
なるほど、ヒトラーのナチス・ドイツは第二次世界大戦の敗戦によって崩壊し、全体主義のもう一つの代表であるソビエト・ロシアのスターリン体制も彼の死後に変容を遂げ、「ベルリンの壁」の崩壊によってコミュニズムの体制そのものが消滅した。ナチスの体制であれスターリン体制であれ、いくつもの歴史的な要因や出来事が積み重なって成立している。
しかしながら全体主義をもたらしたさまざまの要因は今日においても存在し続けている。グローバリゼーションの名の下で進められているモノ、カネ、人の国境を越えた移動や交流は、経済的な格差の拡大やそれにともなう民族、人種間の対立を生み出しつつある。経済発展と手を携えて進行する科学技術・テクノロジーの進展は、それまでの人間の生活のあり方を変容させつつある。そうした状況の中で「全体主義」が形を変えて再び登場する危険はむしろ拡大している
たとえば、政府が国民の求めている情報を隠蔽し、行政が関係文書や資料を隠匿・改竄(かいざん)する事件が頻発している。民間企業でも顧客や消費者に公表すべき情報の隠蔽や改竄は日常的に行われている。情報の隠匿や虚偽に対する不信は、そうした事態を伝えて監視すべきマス・メディアや野党にもおよんでいる。新聞やテレビなどの報道こそ偏った立場から間違った情報を意図的に流しているのではないかという指摘がしばしばなされ、政府を批判する野党も同じような不正や腐敗に手を染めていたというのもよくある話である。政治不信やマス・メディアに対する不信を背景に、インターネットやその他の情報発信のツールによって不確かな情報や噂が瞬時に拡がる。扇情的な意見や憶測が氾濫する背後で、「陰で誰かが操っているのではないか」、「誰が得をしているのか」という陰謀論がいろいろなところでささやかれている。
政治に対する不信や社会に対する不満がひろまり、先の見通しがきかない状況の中で、人々の間の不信や不安を駆り立てるような指導者が登場し、広範な人々をまきこんだ全体主義の運動が生まれる地盤は整いつつあるように見える。インターネットなどのテクノロジーの発展は、まったく新しいかたちで全体主義を登場させることになるかもしれない。
アレントの思想が今日さまざまなところで注目され、彼女の著作が読まれているのも、アレントが「全体主義」という現象に正面から向き合い、そこから自らの思想を生みだしていったからにほかならない。アレントを読むことは、全体主義に抵抗するための人間のあり方を考えるということなのである。
それでは全体主義とは何であったのか。それをもたらしたのはいったい何か。われわれはそれにどう向き合っていったらいいのか。順を追ってみていくことにしよう。
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%99%AE%E9%80%9A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85-%E3%81%93%E3%81%9D%E3%81%8C%E5%B7%BB%E3%81%8D%E8%BE%BC%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B-%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%82%AA%E5%A4%A2/ar-AA11CsxB
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