<■71行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> 五感とする知覚に感じる現象はほとんど、巷に登場しているARやVRのようなものと考えると(それらの登場はそれを人間世界に示唆するためのものには違いなく)、それはそれぞれ固有ののモニターにCPU(総体意識)と繋がる個別の共有プログラムが走り(そこには潜在的にわれわれは同意をしている)、共有された世界観はそれぞれの頭脳(認識)とリンクしてひとつの世界で他者とスペースを共有しているように錯覚することができている、というような考えで間違いはないと思っています。明晰夢のように五感の全てをフル稼働させることで没入し過ぎれば、そこで客観性ある態度と認識が保持できずにいれば、振り回されるだけになります。いくら眼だけを頼りにして粗を探そうとしても余りにも細部迄緻密な世界が広がるのみで、それがまごうことなき現実であるとする証拠のみが突き返されることになる、というような。 なんどかそうした明晰夢をみて、その世界に違和感を持って粗を探したことがあります。結局そうして現実との区別がつかず(夢から覚めれば確かにその差は判るのですが)、違和感と疑いだけを募らせた挙げ句、周囲の人物に、これは夢でしょう、と差し迫って困惑させたことがあります。ある時の夢では、ほんとうにその世界がどうしても夢だと気づいてしまい、慌てて夢から覚めようと決心し、必死にこれは夢だと意識を何度も何度も振り払い、それでもすぐには解けず、気力を振り絞ってやっとの思いでこちらの世界に戻ったときがあります。 あの世界はどのようにつくり出したのか、何故そこに没入していたのか、あれこれ課題を持ち帰ることになりました。つまり今もてているこの顕在意識とするものは普段、どのように自分の物として自分の意図を組んだものとして使いこなすことが可能かということです。それだけが鍵だと。つまり振り回されていたということは、同意してそうしていたことになる訳です。そこにある態度と認識が問題である訳です。 しかしこちらに還ってきた時、そこでもまた本当にいまあるこの現実は夢ではないのか、という感想しか持てなかったというののも事実ではあります。 そうしてこれら現実体験のための共有されたプログラムを一体誰がどのように作ったかという問題に対しては、いまあるわたしたちにはそれを創造し推測するしか出来ません。もしそれが別次元(別概念体系)に籍を置くわれわれそのものであるということができたとしても、わたしはそれは今あるここに居る我々をして神と称して何ら憚るものではないと理解しています。つまりこの場合、神という言葉に被せた概念自体に対して調査、精査すべきものという気がします。わたしたちが今ここを抜け出そうとしている理由と、また抜け出せていない理由も等しく、真実=真理をただしく認識することが出来ていないからだろうと思います。 わたしたちはひとりひとりがその目的と役割を携えていると考えます。それら意識の交流の果たせる仲間は親、兄弟、友人、すべて家族と見ることが出来、その関係性はどこ迄も推し広げて考えれば自分であると言うことが出来ます。しかし自分の身体さえも自分の物として大事に、謂わば丁重な態度で、正しく管理し扱えるようにすらなっていない現段階では、そこに考えられるどの関係性においてもギクシャクしたものが在ると認められます。 あらゆる関係性に対して、心理的垣根さえ設けなければ物事の交流はスムースに行くと考えられるため、そうすべきであるけれどもその基本ができていない。よってそうした段階に於いて真理を掴むということもまた果てしなく遠い目標ということが出来るかもしれません。それはつまり、気づきつつある段階にあっても真理をつかめていない。あらゆる手違いはそれを原因として起きている問題だと。 理由はその真理を自分が活用する立場にないと思っているか、利用できないと考えるために関心をもててないこと、そのどちらか。それはつまり活用できるものだけを合理的と捉えて、自分に利するように扱いたがっている。今ある世界はそのように動いているので尚更普通の人はそうする。彼らの言い分には常に論理的な正しさと辻褄だけが求められる。しかしそれはあくまで共有された認識内での話でしかない。それ以上の真実を理解する真理性は彼らは望んでいない。なぜならそれは彼らのステータスを維持するのに必要でないから。それは真実を求めつつも、真理に到達することを自ら阻んでいる状態であると言える。すなわち、その手前の180度ひっくり返った状態にある論理性で手を打って妥協した状態でしかない。 家族、縁者と関係するとは、当然そこにふさわしい態度というもので繋がっている必要がある。それは自分の身体とて同じこと。それを踏まえずいる、ということはそこに差別=垣根を作っていることに同じ。これが諸問題の原因であり、病理そのもの。 何に同調しているか、何に意識を合わせているかということが常に顕在意識に昇っていれば、こちらの世界に意識を正しく合わせるということは、神に意識を合わせるということと同じものと言えるもの、という事になるのではないでしょうか。
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