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冷戦後、中国とインドだけがここまで「勝ち組」になった理由 一方、当時の日本は…/現代ビジネス
中島 精也 によるストーリー • 昨日 6:00
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E5%86%B7%E6%88%A6%E5%BE%8C-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7-%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B5%84-%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%90%86%E7%94%B1-%E4%B8%80%E6%96%B9-%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF/ar-AA1cUmoF?ocid=msedgdhp&pc=U531&cvid=e1496d87ebd64c069c50fbac4471dade&ei=15
バブル崩壊以降、最高値をつけた株価、相次ぐ世界の半導体大手の国内進出。コロナ明けで戻ってきた外国人観光客。なんとなく明るい兆しも見えている日本経済。
じつはその背景には、日本を過去30年間苦しめてきたポスト冷戦時代からの大転換がある。
いま日本を取り巻く状況は劇的に好転している。この千載一遇のチャンスを生かせるのか。
商社マン、内閣調査室などで経済分析の専門家として50年にわたり活躍、国内外にも知己が多い著者が、ポスト冷戦期から新冷戦時代の大変化と日本復活を示した話題書『新冷戦の勝者になるのは日本』を抜粋してお届けする。
前編に引き続き、第2回は、日本が苦境にあえいだポスト冷戦期がどんな時代だったか、まずはその始まりから振り返る。
前編記事【ベルリンの壁崩壊で「中国投資」が激増…先進国のデフレを生んだ!?】
新興国の高成長の理由
経済成長率は資本投入量(設備ストック)の伸び、労働投入量(就業者数)の伸び、全要素生産性(技術力)の伸びで決まることを考えれば、ポスト冷戦期の新興国経済は自身の豊富な労働力が生産に投入されたこと、海外からの直接投資の急増により資本ストックが大幅に伸びたこと、そして直接投資に伴う技術が生産性を大きく押し上げたことで、経済成長の3要因がすべて上向きに働き、高成長が実現したのだった。
ちなみにBRICSのうち、中国の成長率は南巡講話の1992年から2010年までの平均で10・6%の2桁成長、インドは同じ期間の平均で6・9%、ロシアは1999年から2007年までは好調で平均7・1%を記録したが、08年のリーマンショックで頼みの綱の原油価格が1バレル150ドルから40ドルまで暴落した結果、その後は浮上せず低成長を続けている。
ブラジルと南アフリカはポスト冷戦でも特に成長率が嵩上げされた様子はなく、BRICSともてはやされたが、要は中国とインドという人口世界1位と2位の国の成長が顕著だったということに尽きる。
一方、インフレについてはポスト冷戦下で労働力など生産要素の供給が爆発的に増えるという供給ショックが起きたことから生産コストが大幅に低下、さらに新興国の安価な製品の大量流入により先進国のインフレは下降に向かった。
米国のインフレは1990年は6%だったが、97年には一時2%割れを記録、その後2〜4%のレンジ期間がしばらく続いた。
この頃、米国出張の際に、ちょっと時間が空いたのでウォルマートを覗いてみたが、玩具、雑貨など日用品の多くが中国からの輸入品に取って代わられようとしていた。超安値の中国製品は米国の低所得層から大いに歓迎されたものだ。
EUのインフレについては、ドイツのインフレを例にあげると、1990年のドイツ統一以降は特需景気で6%まで加速したが、後で述べる92年の英ポンド危機もあって、概ね米国と似たり寄ったりのコースを辿り、95年の1%台まで下降を続けた。
一方、日本のインフレは欧米とは異なり、バブル崩壊という最悪の環境下で供給ショックが襲ったので、1990年の4%をピークに低下を続け、早くも94年にはマイナスに落ち込み、それ以降も物価はゼロないしマイナスが常態化するデフレ経済にはまり込んでいく。
強烈な思い出
インフレ圧力が低下すると、中央銀行は金利引き下げに動く。利下げしないと、実質金利が上昇して景気を冷やしてしまうからだ。米連邦準備制度理事会(FRB)の政策金利であるFF金利(フェデラルファンドレート)は1990年に8%だったが、上げ下げを繰り返しながら、2003年には1%まで低下した。
EUは1999年に欧州単一通貨ユーロが誕生するまでは、EU加盟国が参加する欧州通貨制度(EMS)の下で欧州為替相場メカニズム(ERM)という為替変動を抑制する制度を採用していたので少し複雑だ。
加盟国通貨間の変動幅を原則±2,25%の範囲に抑え、変動幅が限界に近づくと介入によって変動幅を維持することにしていた。しかし、経済力の強いドイツの金融政策に歩調を合わせないと周辺国の通貨は変動幅を逸脱してしまうので、常にドイツ連銀の動きをウォッチしなければならなかった。
当時、モルガン銀行のエコノミストだったジェイ・ヤングから「最も優れたブンデスバンク(独連銀)ウォッチャーはフランス銀行です。私が紹介するからパリに行きなさい」と勧められ、それから年に2回は仏銀を訪問することになった。
緊張したのは1990年のドイツ統一の時だ。東独マルクと西独マルクが原則1対1で統合され、弱い東独マルクを持っていた東独市民は棚からぼたもちで大きな購買力を手に入れることができた。特需景気もあってインフレが加速、フランクフルトにある独連銀を訪問した際、クロフト外国局長は「東独の市民はもうバナナを求めて行列を作る必要はなくなった。ドイツ統一のボーナスに浮かれていないで働け働けだ」と言っていたが、独連銀は90年統一時点の公定歩合6%を91年末までに8%に引き上げた。
強烈な思い出は1992年英ポンドがジョージ・ソロスという米投資家から大量の売りを浴びせられて、ERMから離脱した事件である。
為替変動幅を維持するために、イングランド銀行もドイツに追随し英経済の体力に見合わない高金利を維持してきたが、景気が悪化したところを投機筋に狙われたわけだ。このポンド危機の後はドイツのインフレも低下し、ドイツの政策金利(公定歩合)も1991年の8%から95年の4%まで低下した。
1999年に独連銀からECBに金融政策の実権が移譲されたが、ECBの中心的な政策金利である主要レポ金利は2000年の4,75%から下降を続け03〜05年は2%にまで低下した。
一方、日本はバブル潰しのため日銀が短期の政策金利を1990年に6%まで引き上げた後はバブル崩壊と供給ショックによるダブルデフレに襲われて、金利はひたすら低下を続け、99年にはゼロ金利政策の導入にまで踏み切らざるを得なくなった。
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