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(回答先: 荒神谷遺跡 3世紀ですね。 投稿者 中川隆 日時 2024 年 4 月 21 日 14:07:36)
神武東征は実際にあったとすれば、西暦250年から300年頃の出来事
「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。
現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。
でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。
その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。
このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
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荒神谷から出土した多量の銅剣の埋納年代と埋納された理由
荒神谷から358本の銅剣が出土して久しいのですが、それらの銅剣はいつごろ埋められたのか興味があります。現在最も支持されている埋納年代と埋納された理由を教えてください。
アンサー
1 埋納年代について
発掘した地層に炭化物が混じった焼土があり、鑑定でA.D.250± 80とA.D.1250± 80の年代測定結果が出ていますが、鎌倉時代はあり得ないので、前者であると結論付けています。
3世紀ですね。
※ 荒神谷遺跡発掘調査概報3(島根県教育委員会)参照
2 理由について
永らく不明でしたが、大国主が国譲りの際に恭順の儀式として武器を埋納したとの新説が出ています。(東北大学名誉教授:田中英道説)
発掘された銅剣のほとんどに印が、鋳造時ではなく、後から刻印されているのも、同じく理由不明でした。
これも廃棄して使用しないとの意味があると説明しています。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13278059.html
- 古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だった 中川隆 2024/5/18 02:26:57
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