http://www.asyura2.com/23/ban11/msg/546.html
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これは八百長の問題ではなく、中国古来の科挙制度や受験制度の問題ですね。欧米でも日本でもエジソン・アインシュタインの様な天才やセザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンの様な大芸術家は学校の成績が非常に悪いので、中国では最初から振るい落とされてしまって、社会の底辺の仕事をするしかなくなるのです:
中国では全国統一大学入試の「高考」が 2日間実施され受験者の一生は事実上この2日間だけで決定し、トップエリートになるか低賃金労働者になるかも決まります
大学は試験の成績順に振り分けられて卒業後の就職先も高考で決まり、会社や役所での地位も事実上2日間の試験だけで決まります
なので両親は生まれた時から高考の2日間だけに人生を賭けるよう教育し、子どもは24時間休む間もなく勉強をして高考に備えます
高考で失敗すると単純労働者かマフィアなどになるしかなく、平均程度の多くの若者にとって悪夢のような制度になっています
出身地の村や町では若者を高考に送り出す壮行会が盛大に催され、その様子はさながら学徒出陣か戦地に赴く日本軍のようになっています。
米メディアによると、フィオリーナ氏は今年、ブロガーとのやり取りの中で「中国人は試験対策はうまいが、想像力や創業精神を持ち合わせていない。 「自分は中国ビジネスに数十年間携わった。中国人は新しい物を生み出さない』、
このほか、自著の中で「中国の教育システムは学生に過度の同質化を求め、学生管理も厳格すぎる」として、想像力を発揮する環境が整えられていないと説明している。
さて、ここで思いをはせたいのは、では歴史上漢族は新しいものを生み出してきたのかという問題です。
残念ながら漢族は歴史上も新しいものを生み出していないと考えられます。
現在の中国の教育システムは科挙に基づいたものであり、科挙は中国人の性質と深く結びついて形成された伝統的な文化です。
つまり、中国人が新しいものを生み出せない原因である教育は、中国人の歴史とともにあったわけです。
人によっては中国には4大発明等、歴史上偉大な発明があるじゃないかと勘違いされている人もいるかもしれません。
しかし、中国の発明というのは、あくまで記録上中国で初めて出てきただけのことで、本当に中国人が発明したものかどうか、実は確認できないのです。
もちろん、中国人が「記録」という意味では数千年の歴史があり、記録魔としての性質があることは認めますが、過去の記録を重視していること自体、発明とは正反対の性質としての保守性の表れであることがわかります。
今の中国人の姿を見れば、過去においても「中国人は新しい物を生み出さない」人達であったことは疑いがありません。
つまり、記録に表れない周辺民族の発明を持ち帰り、真似をしていたに違いないということがわかるわけです。
そして、記録上は残されている「中国人」の発明として誤認されているだけです。(現時点でわかっていることが必ずしも歴史の真実ではないという科学的な歴史学の哲学に乗っ取れば、それでも仕方がないわけですが)
今の中国人の教育、性質を見て、過去の中国人も同様であったということをそろそろ認識すべきでしょうね。
https://ameblo.jp/xiang-xia/entry-12032296884.html
中国の大学のカリキュラム
まず、中国の大学は単位制ではありません。
そして専攻ごとにクラスがあり、そのクラスごとに授業の時間割が決まっています。
我々の高校までの授業カリキュラムがそのまま大学でも行われていると思ってもらえればOKです。
ただ、教科がそれぞれの専攻に合わせて専門の教科があるというだけです。
我々が大学生の時にシラバス、時間割とにらめっこして授業の時間割を決めたという姿はないわけです。
クラスがあってゼミはない
クラスには「班長」もいるし、「委員」もあります。
外国語の授業はありますが、「ゼミ」はありません。
最初赴任してきたときはビックリしましたが、つまり高校の延長線上にあるわけです。
卒業論文
ゼミがないのに、卒業論文は書かされます。
しかし、4年間一切自身の理論の発表も他人の論文をみたり、発表を聞いたりする機会も無いわけです。
論文もまともに読まず、まさにコピーアンドペースト。
まともなものが書けるはずがありません。
指導する教師も、研究者ではありませんし。(研究にたずさわらない大学教員が多数。)
一応最後は論文の提出と、その論文に基づいた発表があるので、一度見に行きましたがまったく見れたものではありませんでした。
やる気のない日本の大学一年生のゼミでももう少しましな方です。
職業訓練学校
そもそも大学なのに日本語学科ということで、4年間みっちり日本語を身につける専攻ってどうなの、って思います。
何せ、文法、読解、リスニング、会話と1週間の時間割はみっちりと日本語の教育で満たされています。
そのぶん、卒業した頃には日本語がそこそこ話せるようになるわけですが。
しかし、これではまったく職業訓練学校でしかないように思われます。
日本の場合、英文学や中国文学の専攻ならありますが、それは英語や中国語を身につけるのではなく、あくまでも「文学」を学問として捉える専攻です。
中国語学科があっても、「中国語」を学問として捉える学科であり、あくまで学問です。
英語を身につけたり、中国語を身につけたりするのは、自分でやることで大学生になってまで学校から与えられるものではありません。
先に職業訓練学校と書きましたが、中国の大学はどんな学科でもこのような形で、あくまでも専攻の範囲内で資格を取っていくことが授業のメインです。
これは大学のレベルによらずどこでも同じです。
中国においては大学生になっても、知識は与えられるものなのです。
大学は研究機関ではない
ある意味、日本のように勉強しない学生が増えているという状況から考えれば、このような実践に沿った授業というのは良いのかもしれませんが、それではあくまでも「学校」であり、学問の場としての「アカデミー」ではないと言えます。
また、「大学の先生が研究をしていない」という実態があります。
外国では考えられない話ですが、大学での授業があくまで「勉強」ですから、そんなものなのでしょう。
世界標準から言えば、中国の大学の卒業生は、「大学卒業生」としての資格を満たさないと言えます。
ところがこうした現実を知ってから知らずか、中国の大学の卒業の資格を認め、日本のみならず世界でも「大学」として通用しているわけです。
真面目に「学問」をしている各国の大学生としては、同列に扱うのは大きな問題だと思われます。
大学に入っても4年間、高校生と同じようなカリキュラムで過ごす。
たとえやる気があっても、「自ら考える」「自分で資料にあたる」「さまざまな資料を検討して答えを導く」といったことは、このカリキュラムからは生まれてこないでしょう。
https://ameblo.jp/xiang-xia/entry-11491067074.html
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