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2023年6月22日 11時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/258064
太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった人の名前を刻んだ石碑「平和の礎いしじ」。そこに私の大伯父にあたる祖父の兄の名がある。一体どんな最期だったのか。平和の礎が建つ平和祈念公園(沖縄県糸満市)を訪れるたびに、思いを巡らせてきた。「沖縄慰霊の日」の23日を前に、私のルーツにつながる軌跡をたどった。(木原育子)
沖縄戦 1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に、4月1日には沖縄本島に上陸。猛攻を受けた日本軍は壕に潜んで持久作戦を取り、戦闘は90日に及んだ。ひめゆり平和祈念資料館の資料などによると、一般住民を巻き込み、戦闘による死者は日米合わせ20万人以上。このうち沖縄県民(住民、軍人・軍属)は12万人以上、他県出身の軍人は6万5千人以上。戦死者は5月下旬〜6月、南部に集中し、日本軍が南部撤退を決めたことで多くの戦死者を出したとされる。独立歩兵第22大隊は南西諸島を防衛する第32軍(牛島満司令官)の下に編成された10師団・部隊のうちの一つ、第62師団に配置された。同大隊には那覇市立商工学校の生徒が「商工鉄血勤皇隊」として動員された。
◆軍歴証明書手がかりに 最後の激戦地で死亡か
祖父の兄を知る手がかりは、本籍地の県庁から取り寄せた軍歴証明書だ。そこから、所属部隊は「独立歩兵第22大隊」と分かった。
開戦前の1940年に20歳で入隊し、45年に「6月20日、沖縄島山城に於いて戦死」とある。山城とは一体どこなのか。糸満市に山城やまぐすく地区という名の集落があるが、沖縄戦最後の激戦地で亡くなったというのか。
向かった先は、都内の防衛省戦史研究センター。部隊がどんな経歴をたどったか、まずは調べた。40年当時に中国山東省で「討伐警備」という任務をしていたこと、その後、上海に部隊が移ったこと。44年10月に沖縄に入っていることが分かった。
実家に唯一残る生前の写真の背景には、確かに中国建築らしき建物が写っている。家族に無事でいることを伝えたかったのだろう。
沖縄では、首里城に集結させられたようだ。45年4月1日に米軍が本島に上陸。地形が変わるほどの砲撃を受け、圧倒的な兵力に殲滅せんめつされていく。
負傷した兵士は、後方に構えた南風原はえばる町の沖縄陸軍病院に運ばれた。丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕ごうにベッドを備えただけのものだったが、祖父の兄も来たかもしれない。
◆すべての感覚を狂わせる 「戦争の臭い」が今も
私は5月初旬、沖縄に飛び、当時の壕を平和ガイドの井出佳代子さん(62)に案内してもらった。天井は低く、じめじめと汗がまとわりつく。麻酔なしでの手足の切断もあったといい、兵士の悲鳴が岩肌にこだましただろう。
南風原町が「香りのデザイン研究所(埼玉県)」に委託して、クレゾール液を始め、ふん尿や動物性の香料を混ぜ合わせて当時の壕内を再現したという臭いをかがせてもらった。今までかいだことのない腐ったたくあんのような臭いが、鼻奥に激痛に近い刺激をもたらせた。「3日でこの臭いに慣れたと聞きます。これが戦争の臭いなんだと…」と井出さんが言う。
全ての感覚を狂わせる戦争。病院の軍医だった長田紀春きしゅん氏(故人)も書籍「閃光せんこうの中で」(ニライ社)で証言する。「風景は修羅流血の地獄場に一変した。両足を失った兵士が病院を探して泥道を這はいずった」。戦後、長田さんは陸軍病院の慰霊碑建立や慰霊祭を続けてきた。息子の紀勝きしょうさん(65)は「父は、生き残った者として使命感を持って伝え続けていた」と生前の姿を回想する。
◆日本軍撤退開始後に多数の犠牲者
そんな沖縄戦が過酷を極めるのは、5月22日に日本軍が沖縄南部に撤退を決めた後からだ。
祖父の兄はどうしたのだろう。部隊が所属した第62師団の「戦闘経過概要」を読み始めた。防衛省戦史研究センターで入手した資料だ。そこには戦況の経過が詳しく書かれていた。沖縄南部の地図に日付が書かれ、じりじりと日に日に南部に押しやられていく様子が見てとれる。
日付は祖父の兄が戦死したとされる6月20日前後に集中していた。戦死した場所の山城地区周辺は、丘陵が続き、平和祈念資料館やひめゆりの塔など戦跡も多く残る。それだけ惨劇も多かったことの裏返しだが、どんな最期だったのか。
周辺を聞いて回ってみたが、戦争を経験した人は生きていても施設に入っていたり話せない状態だったりして、なかなか手がかりが見つからない。
ひめゆり平和祈念資料館説明員の仲田晃子さんは、「ひめゆり学徒隊が所属した沖縄陸軍病院も砲撃を受けて立ちゆかなくなり、6月18日夜にはいよいよ解散命令が出された。生徒たちもちりちりになって、6月20日前後は犠牲者が増えた時期だ」と語り部から聞いた話を教えてくれた。
◆軍刀で住民追い出した日本兵「いい感情抱けない」
山城地区の元区長、仲門保さん(73)を訪ねた。案内してくれたのは「マヤーアブ」と呼ばれる自然壕だ。保さんが切り出したのは「山城で亡くなった日本兵にはいい感情を抱けない」との思いがけない言葉だった。
山城の住民は米軍上陸後、このマヤーアブに避難していたという。だがある日、日本兵に「壕を出ろ」と命じられた。壕にいた住民同士で畳を扉代わりに、日本兵に入られないようにしていたところ、日本兵が軍刀で斬りかかってきた。
この状況で壕から外に出ることは、海からの艦砲射撃と陸からの火炎放射にさらされることを意味する。だが、壕を出ざるを得なかった。追い出された中には保さんの父、忠一さん(故人)の姿もあった。「父には本当に感謝している。父が逃げ切ってくれたからぼくが生まれた」と戦後生まれの保さんが話す。
◆祖父の兄の行方は分からないが「加害」が頭に
壕はその後、米兵に見つかり、多くの日本兵が火炎放射を受けて亡くなったという。そこに祖父の兄が含まれていたかは分からない。だが、沖縄の人たちを追いつめた史実を前に、言葉がなかった。自分からは遠く離れた場所にあるように思えた、あるように思いたかった「加害」という言葉が頭に浮かび、身体が熱くなった。
保さんは言う。「ウチナンチューと同じように日本兵にも家族がいたはずだ。誰だって死にたくないわけだから」。そう気持ちを押し殺す保さんの声が震えていた。
我が家に祖父の兄の遺骨は戻らなかった。だが、兄を慕っていた祖父は「もう一度平和な時代を生きてほしい」との意味を込めて、自分の息子に兄と同じ名前を付けた。それが私の父だ。だから平和の礎に刻まれる名前は父と同じだ。ずっと沖縄とのルーツを感じてきた。
「記憶の痛みを忘れた時、人間は再び過ちを繰り返す」と保さん。
実際に、沖縄を含む「南西諸島」の軍事化は進む。離島には相次いで駐屯地が開設され、「反撃能力」の拠点化を視野にしたミサイル配備も着々と整備されている。「戦後」を終わらせようとするきな臭い時代の中で、保さんの言葉の重みが胸から離れないでいる。
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