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2023年3月10日 16時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/235648
一夜で10万人以上が亡くなったとされる東京大空襲から10日で78年。今年9月で関東大震災から100年だが、この震災を境に、防空演習などの戦時体制が加速したことが近年の研究で明らかになっている。未曽有の自然災害は、社会をどのように変えたのか。そして22年後、下町が再び焼け野原になったのはなぜなのか。(山田祐一郎、中山岳)
◆初期消火の重要性を認識させた震災
「100年は大きな節目。震災の経験が何をもたらしたのか。歴史としての過去を知ることが重要だ」
関東大震災から東京大空襲までの間に、何があったのか。「帝都防衛 戦争・災害・テロ」(吉川弘文館)の著書がある聖心女子大の土田宏成教授(写真、日本近代史)は「戦争に向かう時代で、震災の教訓が動員の論理になっていった」と指摘する。
空襲は、欧州で起きた第1次世界大戦(1914〜18年)で、航空機による新たな脅威として登場。木造家屋が密集する日本では大きな被害が出ることが予想されていた。軍は灯火管制など「防空」の必要性を訴えたが、当初は「現実味を持って国民に認識されていなかった」という。
それを一変させたのが関東大震災だった。23年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード(M)推定7.9の地震が発生。30万棟近い家屋が倒壊し、死亡した10万5000人の約9割は火災による焼死とされる。「震災が、欧州の空襲被害と重ねられるようになった。もし空襲で同時多発火災が起きれば震災と同じような被害となる、との危機感が広がった」
復興に忙しい東京に先んじ、対応を進めたのは大阪。大震災の1年後、府と市、軍が協議して災害や事変に対応する規約を制定し、非常時に民間人を組織的に動員する仕組みが作られた。28年には大阪で、日本で初めての都市防空演習が行われ、民間人も参加する。
「関東大震災で『初期消火を意識的にしていればもっと被害を抑えられた』ということが教訓として語られた。また、自警団が暴走し、朝鮮人を殺害するなどしたため、行政や軍の統制下で活動させる体制が必要だった」。土田氏は、訓練を通じて統制が強まっていった経緯を説明する。
◆消火を重視するあまり後回しになった避難
31年の満州事変以降は「防災」よりも「防空」が色濃くなり、各地で訓練が行われた。バケツリレーのほか、焼夷弾しょういだんに濡ぬれた筵むしろをかぶせたり、砂をかけたりするのが効果的とされた。「震災のような被害を出さないことを錦の御旗にし、一般市民は積極的に反対しにくかったのでは」
37年には「防空法」が制定され、民間人の動員に法的根拠が与えられる。「当初の義務は灯火管制など限定的だったが、41年の日米開戦間近には応急防火が義務化されるなど、規制や罰則が強化された」。翌年の「ドーリットル空襲」で東京、名古屋など本土が初めて空襲を受けると、さらに防空意識が強まった。
43年に同盟国のドイツが受けた甚大な空襲被害は、日本でも報じられた。関東大震災から20年の同年9月1日、警視庁消防課は空襲時消防演習を実施。東京新聞の2日付夕刊は「震災の経験を防空に生かせ」と説き、空襲で数百カ所から出火した想定で訓練が行われ、約1時間で消火に成功したと報じている。
「逃げずに初期消火に当たることが重要視された一方、避難のための防空壕ぼうくうごうの整備は遅れたままだった」
◆「大震災の教訓が、総力戦で戦争を遂行する目的で活用された」
そして45年3月10日午前零時過ぎ、東京大空襲が始まる。昼間に工場などを目標にしていた空襲が、この日から、夜間に住宅地を焼く無差別爆撃に転換。東京・下町を中心に大量の焼夷弾が落とされた。
「初期消火で逃げ遅れた人がいたことは確か。強風などが重なったが、多数の大型爆撃機の侵入を許しており、戦争末期で防空体制そのものが破綻していた」
その後の空襲でもっと大量の焼夷弾が投下されたこともあったが、人的被害が東京大空襲を上回ることはなかった。「町の構造や風の状況もあるが、(住民の)逃げる意識がより高まったのだろう」とみる。
「大震災の教訓が、総力戦で戦争を遂行する目的で活用された。最も重要視されるべきは人命だったが、国家が優先された」。今も相次ぐ災害やウクライナ侵攻で破壊された都市に、思いを強くする。「災害や戦争では、命を守るため国民の権利が制限される。国家の権力が間違った使われ方をしないよう、過去を学び、生かすことが重要だ」
◆米軍は震災被害を見て空襲計画を練った
関東大震災の被害は、米軍も東京大空襲の計画立案に利用した。重要なのが、米国防研究委員会のイーウェル博士らが1943年10月にまとめた攻撃資料「焼夷弾リポート」だ。
米軍資料の研究者で「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長(73)によると、リポートは大火を引き起こすプロセスを分析。関東大震災後、火災の発生場所や燃え広がった方向をまとめた東京市の英文出版物「東京の復興」や、火災保険資料を検証した。「イーウェル博士は防火の専門家として、火災の恐ろしさを熟知していた。リポートは焼夷弾空襲を理論的に基礎づけ、根幹部分はその後も踏襲された」
リポートは、消防車が着くまでの民間人による初期消火では消しきれない火災に着目。米軍は、都市に焼夷弾を投下してこうした火災を多発させれば、消防力を超えて制御できない大火となり、焼き払えると考えた。木造家屋が多い日本の都市構造を調べ、焼夷弾攻撃に弱いことも示した。
さらに日本の20都市の調査を基に、東京や横浜など10都市に、燃えやすさを3段階に分けた「焼夷区画」を設定。東京では下町の住宅や商店街の密集区域を、最も燃えやすい「焼夷区画1号」とし、必要な焼夷弾量を1マイル(1.6キロメートル)四方で6トンと見積もった。
ただ、この見積もりは米軍内で「楽観的」と批判が出た。このため、関東大震災後に16年間日本に住んだカナダ人の火災保険業者グラス氏と、横浜で大震災を経験して火災保険の資料も調べた英国人の保険会社日本駐在員ブル氏に助言を要請。リポートを読んだ2人は、日本の都市が焼夷弾攻撃に向いていると認めつつ、東京や横浜の震災後の防火対策などを過小評価していると指摘した。
イーウェル博士は日本家屋のレプリカを建てて行った火災実験の知見も踏まえ、44年8月にリポート追補版を作成。焼夷区画1号の焼夷弾量を1マイル四方で30トンに増やした。東京大空襲では、この区画にB29約300機が焼夷弾約1700トンを投下。小さな焼夷弾38発を束ねた集束弾や、初めて本格的に使われた改造焼夷弾もあり、細かく数えると約30万発に上った。
工藤氏は「米軍は関東大震災直後の火災を詳しく分析し、木造家屋の多い都市で焼夷弾をどう使うか検討した上で空襲計画の細部を決めた。それにより、制御不能な大火が引き起こされた」と話す。
◆デスクメモ
東京空襲犠牲者の遺骨が眠る東京都慰霊堂の納骨堂は、関東大震災犠牲者の遺骨も納めている。扉が開く3月10日と9月1日には、戦災と震災の大きな骨つぼが多数見える。空襲の遺族には「間借りのよう」「天災と人災は違う」という疑問も。独立した追悼施設を求める声は絶えない。(本)
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