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※紙面抜粋
※2023年4月4日 日刊ゲンダイ2面
※文字起こし
生前のメッセージを黙殺(音楽家の坂本龍一さん=左)、生前は危険人物扱い(盟友だった忌野清志郎さん=右)/(C)日刊ゲンダイ
「芸術は長く、人生は短し」──この一節を生前は好んだそうだが、力尽きるには早すぎた。音楽家の坂本龍一さんが亡くなった。71歳だった。
3日の主要各紙はそろって突然の訃報をデカデカと報じたが、紙面を飾った「評伝」は「世界のサカモト」の音楽家としての数々の世界的偉業に関する記述ばかり。彼を形成した「もう1つの顔」については、スルリと抜け落ちていた。
坂本さんには「2つの顔」があった。1つは音楽家。もう1つは社会活動家としての顔だ。反戦運動や環境問題に積極的に取り組み、東日本大震災以降は東北の復興支援と脱原発に情熱を注いだ。
密接に絡み合った2つの顔を語らなければ、偉大な芸術家の生涯は伝え切れない。それなのに、大メディアは生前に残した「非戦」「脱原発」のメッセージを“黙殺”する。死者にムチ打つ規制は誰への忖度なのか。
「じわじわと自主規制させるような空気がすでに気が付かないうちに始まっている」「できるだけ明確に反対意見を言わないと、全体主義体制になってしまう」
2015年11月の沖縄タイムスのインタビューで坂本さんはそう警鐘を鳴らしたが、この国の「言論の自由」を取り巻く「空気」は当時よりも悪くなっている。だからこそ、大メディアがてんで報じない坂本さんの怒りと嘆きを伝える意義がある。
1960年代後半、高校生だった坂本さんは学生デモに参加。後にこの経験が「今の僕を形作り、今でも『核』となっている」(AERA=16年3月28日号)と明かしたが、安保闘争の終焉とともに政治活動を「封印」。雑誌の取材に「政治的に対抗して失敗したんだから、潔くもう政治的な発言をしないことにした」と語ったこともある。
もう1つの顔を取り戻したのは90年にニューヨークへ移住してから。米国には地位と名声を得た人物が特定の活動や事業に寄付し、発言することを歓迎する風潮があり、地球温暖化への危機感から次第に環境や社会問題への発信を強めていった。
「核と人類は共存できない」との固い信念
大きな転機は2001年9月11日に現地で体験した米中枢同時テロだった。わずか3カ月で文化人たちの平和へのメッセージをまとめた本「非戦」(幻冬舎)を出版。「暴力は暴力の連鎖しか生まない。報復をすればさらに凶悪なテロの被害が、アメリカ人だけでなく世界中の人間に及ぶだろう」(同書)と訴えた。
自分にとっての音楽の意味を考え続け、「音楽とは、癒したり主張したり忘れさせるのではなく、その音楽が存在することの大切さをどんな時にも思い出させてくれるものではないかと。例えば戦場で敵同士が撃ち合っている時、ふと聞こえてきた歌やメロディーに銃を下ろすという音楽がまだあり得るんじゃないかと、一片の希望は持っている」(朝日新聞=02年1月7日付)との境地に至った。
06年には青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場への反対を訴える共同プロジェクトを立ち上げた。放射能汚染に危機感を抱いたゆえの活動だったが、その危惧が現実となってしまう。11年3月11日、東京滞在中に目の当たりにした福島第1原発事故だ。
「核と人類は共存できない」──以降、その固い信念を自ら行動で示していく。翌12年7月の「さようなら原発10万人集会」で「たかが電気のためにこの美しい日本を、国の未来である子どもの命を危険にさらすようなことはするべきではない。お金より命です」と発言し、波紋を呼んだ。
それでも批判に屈せず、同年には脱原発をテーマとした音楽イベント「NO NUKES 2012」を開催。被災地出身の子どもらによる「東北ユースオーケストラ」を創設し、代表・監督を務めるなど被災者を支援し続けた。
「民主主義と憲法の精神を取り戻そう」
9.11と3.11を両方体験した数少ない人間として「9.11ではアメリカが帝国主義であることを思い出した。3.11はこの国は本当に民主主義の国なのか、原子力帝国じゃないのかと考えさせられた」とも語っていた。その言葉通り、活動の根源にあったのは、日本の民主主義への懸念と疑念だった。
「自民・公明が多数派だと思っている人やメディアもあるけど、『おまえらはマジョリティー(多数派)じゃないぞ』という声を上げたい。一番のマジョリティーは投票しなかった人。選挙で政権を取れば何でもやれるけど、その結果、改憲や軍備増強につながると考えると、大きく影響を受けるのは投票に行っていないであろう若い世代や、選挙権のない子どもたち。知らぬ存ぜぬでいるうちに、そういう動きが起こり、将来自分に返ってくる」(東京新聞=13年12月26日)
中咽頭がん治療から復帰直後の15年8月には、安保法制反対のデモに参加。「今、この状況で民主主義が壊されようとしている。憲法が壊されようとしている。ここに来て、民主主義を取り戻す、憲法の精神を取り戻すことは、まさに、憲法を自分たちの血肉化することだと思う。とても大事な時期だ」と呼びかけた。
沖縄にも強い思いを寄せ、名護市辺野古沖の新基地建設について「民意と国会や政府がねじれている」と指摘。20年には埋め立て海域を視察し、「この美しい自然を壊してまで(新基地を)造る意義はない」と強調した。
21年に直腸がんを公表。病魔と闘いながらも沈黙はしなかった。今年3月初旬には東京・明治神宮外苑の再開発に反対を表明し、小池都知事らに「目の前の経済的利益のために先人が100年をかけて守り育ててきた貴重な神宮の樹々を犠牲にすべきではない」などとつづった手紙を送った。
岸田政権の原発回帰にも黙っていられず、福島の事故から12年目の3.11には東京新聞に寄稿。「いつまでたっても原発は危険だ」「汚染水・処理水も増えるばかり。事故のリスクはこれからも続く」「それなのに何かいいことがあるのだろうか」と疑問を連ねた。
ソフトな語り口は「教授」の愛称で親しまれたが、最期まで鋭い舌鋒を貫いた。
「何が怖くて言いたいことが言えないのか」
所属事務所が死去を発表した4月2日は、09年5月に58歳で亡くなった盟友・忌野清志郎さんの誕生日だった。大メディアにとって反原発など政治的テーマを歌い続けた生前の清志郎さんは「危険人物」扱い。09年12月にTBSラジオの追悼番組で、坂本さんはこうイラ立ちをぶつけていた。
「亡くなったら各メディア一斉に『ロックの神様』とか言っているよね。そんだけ持ち上げるんだったら、生きている時からサポートしろよ。むしろ削除しているのにさ」
番組で対談相手を務めたジャーナリストの金平茂紀氏はこう言った。
「坂本さんは音楽をやりながら、社会に対して痛烈なメッセージを発信してきた。それも命を削り、肉体的にぎりぎりのところで発信を続けた。それは芸術活動と表裏一体のものです。しかし、今のメディアにはそうした社会的メッセージの部分を抹消しようという空気がある。各紙の訃報を読みましたが、こうした坂本さんの言論活動については、なるべく小さく片付け、世界的な音楽家だ、ラストエンペラーでアカデミー賞だ、と通り一遍を伝えていた。清志郎さんの追悼番組で坂本さんが怒った時と同じことが今、起こっているように感じています。番組で坂本さんは『何で日本はこんなに言いたいことが言えない国になっちゃったのか』と嘆いていた。『何が怖くて言いたいことが言えないんだろうね』と。これこそが彼が残したもっとも大事なメッセージではないかと思いますね」
人は死んでも、魂を宿した言葉は滅びない。それを伝えていくことこそ、反骨の音楽家への鎮魂歌となるはずだ。
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