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創価学会を斬る、自公政権のファシズム化を防ぐため
藤原弘達(著) 昭和44年11月10日 日新報道発行
https://blog.goo.ne.jp/lilmica6o/e/84a401e6dd3a80dcd229d313262b367a
国会でも取り上げられ大問題になった【言論出版妨害事件】の書籍であり、昭和四十四年に書かれたものであります。
まこと見事にカルト集団の本質(体質)を見抜いており、著者は日本の宝・賢人と存じます。
非常に重要な認識でございますが、“当時からどこぞの国のように神格化がはじまっております”。
また、創価学会とは単なる一信徒集団であり、現在は日蓮正宗(親)から破門されています。
『日本の未来のために、この政党の存在に対して国民は厳しい批判をそそぎ、政党政治を正しいルールにのせるために、まず公明党の解散を要求すべきだと主張する。』
【転載】
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そのやりくちは、およそ人間の内面に自然にくいいる宗教とは無縁な、はなはだ強権的、強圧的なものなのだ。ひとことでいえば、まことに攻撃的性格をもっているということである。こうした団体であり、そういう戦術をとることに特異性をもっているが故に、創価学会を構成している幹部にしても、だいたいは品格のない人ばかりである。なにかというとすぐに脅迫的な威力をかけたがる。さまざまな形で自分たちの組織の強大さをひけらかす。そういう人たちばかりであり、本当に心から感動して、思わず頭を下げたくなるような敬虔な宗教家タイプの人は、まずほとんどいないに等しいといってよい。
(略)
そうした自己顕示ないし過大表示の精神傾向という点では、ナチスや旧日本軍隊はまさに直接の先輩格といってもよいであろう。
彼等の行うところの大衆運動は、そのほとんどが成功を外見的に誇示するところに狙いがおかれており、内面的滲透は第二、第三のものと考えられている。宗教の形態からいえば、明らかに一種の堕落としかいいようがない。
それにしても創価学会は、まさにそいういう外見的デモンストレーション集団としては、もっとも徹底したものの一つということができる。この種のマス運動のなかにまき込まれ、そのなかで踊らされているといってもいい会員大衆は、まことお気の毒というほかあるまい。会員大衆は、そうした運動にまきこまれればまきこまれるほど、一種のバカになるだけだということにもなろう。踊らされるだけで、大衆自身がいったい幸福になれるのかなれないのか、そのことについては、かつてのナチスや旧日本軍隊をふりかえってみてもいいし、大日本帝国の進行形態のなかにおいて踊らされた国民大衆の運命というものをかえりみてもよい。そこにおける問題性については、私がここでいろいろと言及する必要もないところである。
ともかく、このようなマス・ムーブメント、自己顕示型、誇大広告型の大衆運動を強引に進めながら、「王仏冥合」などというかなりいいかげなんなご都合主義的宗教哲学をふりまわし、国民大衆を愚弄しているということは、宗教的にみて、まさにこれほど堕落した形態は、古今東西の歴史にみることができないといっても過言でないかもしれない。それだけにわれわれは、現代における創価学会のその種の問題をつきつめてみなければならない段階にきていると考えるわけである。
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創価学会員の布教活動が、細胞分裂といわれるのもそのためである。細胞組織戦術なるものは、共産党がしばしば用いた手であり、まさに細胞という表現は、そのまま共産党組織に存在するものにほかならない。
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池田大作は一九六〇年六月の中部総支部幹部会で「創価学会は衆議院に出ません。なぜならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団体ではありません」と述べている。
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つまり、内容がないから他のものを平気で借りてくるのであり、例の無限抱擁型行動様式というものが、政権綱領その他をつくるときにもいかんなく現れてくるということなのである。つまり、自分の中に何もないものは、他人のものを借用するよりほかないわけだが、拝借するならどこから借りました、ということだけは明確にうたうだけのエチケットが必要だということだ。
しかし、何分にも日蓮正宗は万能なはずだから、どこかから借りたというのではまことに始末が悪い。そこで無断借用ということになるわけで、こういう点からみた場合には、まことに厚顔無恥というか、そういう立場がいかんなく政策綱領のなかにも現れているといわなければならない。
そのくせ、世間態やマスコミの世論を気にするという点では大変なものがあり、自分の不利なことにはビリビリと神経を尖らせているといっても過言ではない。内容がなくて実力が伴わなず、一種のなりあがりものほど、とかく虚勢をはりたがる傾向があるが、創価学会のそういう傾向における行動様式は、まことコッケイきわまるといわなければならない。
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ひところ、脱会した会員に対するリンチ事件があったりしたが、これなども、いうならばこの種のタテヨコ十文字のガンジガラメの組織の犠牲者といってよいであろう。
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いやしくも憲法上認められた言論・出版の自由が、創価学会の組織的圧力によってつぶされたり、変更をよぎなくされたり、陽の目を見ずに圧殺されたりしてはならないのだ。ところがそういう事実があるということを、われわれは幾回となく耳にしている。これは必ずしも出版界だけの現象ではないようだ。広告宣伝機関、新聞、放送等々、じつに多方面にわたっている。組織力を誇示し、なかば剣で武装されたような圧力、武権を感じさせる圧力を行使しているこのような創価学会が、果たして宗教団体としてノーマルな姿であるのかどうか、それを宗教団体の堕落と見るのか、進歩的な形態と見るのか、それは読者の判断にまかせざるをえまい。私は、驕りたかぶった堕落であり、外道的行動であると考える者の一人である。
もちろん学会をしてそのように驕りたかぶらせ、不当な圧力の行使を平気にさせた責任の一半は、日本のマスコミ界や出版界にあるのかもしれない。それほど日本の出版界、マスコミ界もそれなりに堕落しており、弱いところをもっているということかもしれない。しかしそのことをもって、創価学会のやり方が正しいとは、口がくさってもいえないのだ。宗教とはそもそも何であるか、ということを、素人の立場でいまさら論じなければならないほどに学会は宗教団体のあるべき本来の姿とかけはなれているように考えられるのだ。
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またその上に音響効果も利用している。ボリュームをいっぱいにあげて聴衆を昂奮させるだけ昂奮させ、そこに静かな調子をもって人の心にくいこみ、そして静かな中でも締めるところはちゃんと締めている。そのやり方は実に巧みなものである。
私はかつて、没落直前のスカルノを見た。それは一九六五年四月のバンドンにおける世界回教会議の席上における彼の演説姿である。この時の会場外における大衆のものすごい昂奮と、内部においてスカルノが出てくる時の演出、さらに、完全なワンマンであった独裁者スカルノの演説がはじまる前の演出等、そのやり方が池田会長の場合も似ているのだ。さらに、これは紅衛兵にとりまかれた天安門上の毛沢東に対する熱狂的な歓声、こうした時における大衆操作の技術というものとも一脈相通ずるものを感ずる。
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創価学会教学部編になる『日蓮正宗創価学会批判を破す』という本の中に次のように書かれている。
「ちょっと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏がお山へ行きたいというので、戸田先生から案内するようにいわれて同行することになったのですが、出発の日に、東京駅で私が待っていたところ、佐木氏の方では、その前日でしたか『子どもが死んだから行けなくなった』というのですね。これは、ハッキリとした罰ですよ。そして帰ってきからきいたのですが、佐木氏はイナカへ帰って、邪宗日蓮宗で葬式をだしたというのです。まるっきり、なっちゃいないですね。」(注釈等:日蓮宗と日蓮正宗とは異なる。当時もただの一信徒集団である創価学会は日蓮正宗だったが後に破門された)
学会教学部、つまり学会のいちばん重要な頭脳にあたるところが、こんなバカバカしい内容の本を堂々と出版しているのである。いったい創価学会は人間の死というものをなんと心得ているのであろうか。
(略)
しかし創価学会を批判する人であったとはいえ、その人の子どもの死を罰としてとらえ、しかもこれを当然視する態度はいったい何たることであろうか。これをもって学会批判の当然の“報い”と考えて堂々と公表する心理は、まさに恐るべき精神病理性と、人間性の冒涜と、とらざるをえない。まさに“他をノロウ罪”これが学会の本質なのである。
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立正佼成青年本部調査班の『創価学会批判のために』というパンフレットによれば「吉展ちゃん殺し」の犯人・小原保は学会員だったということだ。
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思考停止、愚民化誘導の罪
第五の罪は愚民化誘導の罪である。つまり、だんだんと国民大衆がバカになるように誘導していく罪と表現してもよいであろう。
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国内を飛行機旅行する場合、空港などで飛行機のタラップまで車を横づけしていると聞くけども、かつての天皇といえども、そういうことはめったにしなかったというから、池田会長が個人の意思によってそういうことをしているのか、池田を神格化するあまり、信者がタラップのところまで車を横づけにするのか、そのどちらであっても大へんな権勢ぶりといわなければならない。
果たして池田自身がそういう一種の神格化、個人崇拝の対象になることを必要と考えて、自分の意思でそうしているのかどうか、それとも池田をとりまく連中が、彼をことさらオミコシのようにまつりあげているのであろうか。おそらく、現在においてはこの両者が相関的に作用しながら、池田神格化傾向として表面化している、といわなければならないだろう。しかし、ともかく池田会長を「会長先生はわれわれのお父さんのような方です」「会長の判断は絶対に誤りがないのです」といってはばからない、年齢的に池田はお父さんクラスの幹部連中の神経たるや、まさに異常性を示すものといわなければならない。だが同時に、そのような信仰の対象となって平然としている彼の神経のなかにも、大いに問題があるといわなければならないだろう。
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「公明党の素顔」を書いた毎日新聞社会部の記者、内藤国夫は
「創価学会、公明党のやり方こそ、もっともハレンチな資本主義の恥部を示すものである。」
という表現をある座談会で私にしていたが、まさにそういうハレンチな資本主義的金もうけや、目的のためには手段を選ばないマキアベリスティックなやり方に目をつけ、国会議員の地位がほしいとかなんとか、そういう連中が入信してくる可能性をもっている。
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むしろ一部野心家たちの御本尊利用であり、学会組織利用である、と断言するのである。
日本の未来のために、この政党の存在に対して国民は厳しい批判をそそぎ、
政党政治を正しいルールにのせるために、まず公明党の解散を要求すべきだと主張する。
【転載了】
今や自公政権は、ファシズム化をより強めてきている。
正に民主主義の危機である。今の危機を見事に今から44年前、昭和44年11月10日に出版さてた藤原弘達著「創価学会を斬る」でこのように予言していた。
要点だけを記述するが、
公明党が自民党と連立を組んだ時、ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における狂信的要素この両者間に奇妙な癒着関係ができ保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを協力にファツション的傾向に持っていく起爆剤的役割として働く可能性も非常に多くもっている。そうなった時には日本の議会政治民主政治もまさにアウトになる。そうなった時てからでは遅い。
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