2023年01月12日 岸田首相の欧州歴訪は“異次元バラマキ外遊” 外務省主導の「他国軍事費支援」こっそり解禁@日刊ゲンダイ⇒岸田が清朝系満州国経由王侯貴族に見える自分が怖い! 岸田首相の欧州歴訪は“異次元バラマキ外遊” 外務省主導の「他国軍事費支援」こっそり解禁@日刊ゲンダイ⇒岸田が清朝系満州国経由王侯貴族に見える自分が怖い! 安倍晋三が清朝康熙帝に瓜二つで衝撃を受け、 今度は広島出身と言う岸田が三宅千福関係者だと安堵もどうも臭い? 本当か? 人相本では典型的な長頭脚長痩身男で蒙古系元氏?女真系李朝両班系不安?! バイデンが森・小泉・安倍ら現自民大半が清朝李朝系満州族経由の、 日本人成済ましで米軍用心棒に日本総督就任中だと、 米軍CIAに教えられて安心したのだと思う! 岸田首相の欧州歴訪は“異次元バラマキ外遊” 外務省主導の「他国軍事費支援」こっそり解禁 公開日:2023/01/10 13:40 9日から欧米歴訪の外遊に出かけた岸田首相。5月に広島で開催するG7サミットに向けて環境整備を図ることが目的だという。フランス、イタリア、英国、カナダを訪れた後、13日に米ワシントンでバイデン大統領と首脳会談を行う。
首相就任以来、熱望していたホワイトハウス訪問がようやくかなうわけだが、そのための手土産が昨年末に決めた防衛費倍増だ。それに加えて、ウクライナ問題でも新たな負担を約束させられる可能性がある。 「G7議長国として、岸田総理はウクライナ問題でもリーダーシップを発揮する必要がある。また、実務者が首脳会談を準備する過程で、米政府から日本は貢献が足りないという不満も伝えられたそうです。長引くウクライナ危機で、米国の軍事支援はすでに総額240億ドル(約3兆円)を超える巨額に達し、米国世論にも懸念が広がっている。野党の共和党が『ウクライナより国内が優先』と訴えていることもあり、バイデン大統領は難しい舵取りを迫られているのです」(外務省関係者) ■米国のウクライナ支援を肩代わり? 昨年の中間選挙で米議会の下院は共和党が過半数を握った。15回目の投票でようやく議長に選出された下院共和党のマッカーシー氏も「ウクライナに白紙小切手は切らせない」と公言していて、今後は米国によるウクライナ支援が縮小していくとの観測もある。その肩代わりを日本に担わせようと考えることは十分にあり得る。 その布石ということか、岸田政権は他国への「軍事費支援」を解禁することを昨年末に決めている。ほとんどニュースになっていないが、林外相が12月27日の会見で「開発途上国の経済社会開発を目的とするODAとは別に、同志国の安全保障上のニーズに応えて資機材の供与等を行う、軍等が裨益者(受益者)となる新たな無償による資金協力の枠組みを導入する」と明言。防衛省ではなく、外務省が軍事費支援を行うというのだ。 米国の要請に盲目的に従う岸田首相 ウクライナへの防弾チョッキ提供も「防衛装備移転3原則」違反の軍事的支援に…(ウクライナへの物資を積み込む自衛隊員=2022年3月、愛知県・航空自衛隊小牧基地)/(C)共同通信社 拡大する 昨年、ウクライナに自衛隊の防弾チョッキなどの防衛装備品を無償供与した際にも、紛争当事国への輸出を禁じる「防衛装備移転三原則」に反する軍事的支援だと物議を醸したのに、軍事費の支援にまで踏み込むとは、カネならOKという屁理屈なのか。 「軍事費の援助なんて、平和憲法の下ではあり得ないことです。憲法9条に基づく平和主義をとってきた戦後日本は、武器輸出を全面禁止する『武器輸出三原則』を国是としてきた。第2次安倍政権の2014年に『防衛装備移転三原則』を閣議決定し、海外輸出の道筋をつけたものの、これまでの実績はフィリピンへのレーダー輸出だけです。安倍政権でも一定のケジメはあったのに、岸田政権は、戦闘機やミサイルを友好国に輸出できるようにすることも検討している。異次元の軍事支援に踏み出そうとしているのです。憲法も国会も無視して、米国の要請に盲目的に従う首相では、国民はどこに連れていかれるか分かりません。軍事国家への回帰が一気に進みそうで恐ろしくなります」(立正大名誉教授の金子勝氏=憲法) 防衛費倍増について国会で説明する前に、バイデン大統領に尻尾を振って報告に行く岸田首相のことだ。頭にあるのは政権延命と保身だけ。米国から言われたら、何をしでかすか分かったものじゃない。 【今の日本に怒り心頭、康熙帝】で検索:
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三藩の乱 青年時代の康熙帝 康熙12年(1673年)、三藩の乱が起こった。明の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して清に投降し、その後は南に逃れた南明の永暦帝を殺したことで功績大と認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず旗王と同格の親王の爵位を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の3人の藩王は、それぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。 康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。 予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、呉三桂は清から分離して周を建国し、鄭氏台湾の鄭経もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢人の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に周を滅ぼして三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地(中国語版)の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。 外征と晩年 避暑山荘の康熙帝銅像 台湾を収併した年、ピョートル1世(摂政:ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問:ヴァシーリー・ゴリツィン)時代のロシア帝国が、満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたので、この地域の軍事力を強化し(清露国境紛争)、康熙28年(1689年)にソンゴトゥを派遣してネルチンスク条約を締結した。19世紀に受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約締結をもってして清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまではいえない。 1670年代、ジュンガル部のガルダン・ハーン(噶爾丹)がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(清・ジュンガル戦争)、みずから軍勢を率いての戦闘を経て、康熙35年(1696年)に致命的打撃をガルダンに与えることに成功(ジョーン・モドの戦い(英語版))、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様に内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制に組み込まれることとなる。 18世紀初め、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタン(中国語版)が同盟を結び、康熙56年(1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻し、ラサを制圧、チベットのラサン・ハン(英語版、中国語版)を殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じ、康熙57年(1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い(英語版))。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だった者たちを、当初ジュンガルと同盟した者たちを含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功した。康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍した。ガリーのガルトク(フランス語版)の知事カンチェンネー(中国語版、ドイツ語版)とラサンハン軍にいたツァンのポラネー(中国語版、ドイツ語版)らゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て、戦わずして中央チベットから撤退していった。 康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封しないまま没し、チベットの戦後統治処理は次代の雍正帝の手に委ねられることになる。 康熙60年(1721年)、朱一貴(中国語版)が台湾の阿里港(現在の里港郷)で反乱を起こしたが、総兵藍廷珍(中国語版)とその族弟藍鼎元(中国語版)を派遣し、翌康熙61年(1722年)に平定した。この年の正月、在位61年の宴会で機嫌よくした康熙帝は大臣たちを私室に招き、機嫌よく思い出話をした。 「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。こうやって向かい合っている君臣が髪も髭も白くなっているとは楽しいことではないか。」 また、得意の戦争や6回の南方巡航を回顧した[3]。 康熙61年11月8日、康熙帝は冷風に当たり高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御した。順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵に陵墓がある。 北方民族の王者 康煕帝(北京故宮博物院蔵) 狩りをする康熙帝 南巡する康熙帝 康熙22年(1683年)からほとんど毎年、康熙帝は夏にはムラン(木蘭)囲場(現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河に離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。【右肖像画がソックリのか?】 国内政策 康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った。【施政は真逆だ!】また、丁銀(人頭税)の額を康熙50年(1711年)の調査で登録された人丁(16歳から59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。 文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったといわれる[4]。 康熙帝の時代から十哲の一人として朱子(朱熹)を祀るようになり、『朱子全書』『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。『明史』の編纂にも力を入れ、大部分を完成させている(全巻完成は乾隆4年(1739年))。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図『皇輿全覧図(中国語版)』を作成させた。 文字の獄をはじめたのも彼の代からであり、その政策は子の雍正帝、孫の乾隆帝にも受け継がれた。 後継者問題 康熙帝は孝誠仁皇后が生んだ第2子の胤礽(示偏に乃)を、康熙15年(1676年)に皇太子に立てた。康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成年しても爵位や領民を与えず、部屋住まいにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。ところが、ガルダン・ハーン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、清朝初期の皇帝やその前身の後金のハーンは満州の部族連合の長として合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満州人には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。 そうした中、康熙42年(1703年)に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。康熙47年(1708年)秋、内蒙古に赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。 胤礽が廃された後、皇長子胤≠ェ皇八子胤禩(中国語版)を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒の爵位を取り上げた。さらに、皇三子の胤祉が、胤≠ヘラマに頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤≠ヘ群王の爵位を取り上げられ、監禁された。 その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は康熙48年(1709年)春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙51年(1712年)に再び廃立、幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てなかった[5]。 その後も帝位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられた(九王奪嫡(中国語版))。元々は皇十四子の胤禵(中国語版)が有力な帝位継承候補であったとされる。孝懿仁皇后の弟で大臣のロンコドが公表した康熙帝の遺詔によって、皇四子の胤メi雍正帝)が即位したが、その経緯は不明朗である。ロンコドは康熙帝の遺体の届いた宮中に胤ヨネ外誰も入れなかった。そうして康熙帝の遺言なるものが見つかると、「胤モヘ人格が立派で、私に孝行であり、政治の才能もある。帝位に就くのに適している。」と書かれていた。その後、胤モェ皇帝になった[6]。この即位に関しては様々な憶測が伝わり、「雍正簒位」として民間に広まることとなる。 逸話 上述のように狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている[7]。 外見は背格好は中以上、中国人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘のあとが残っている、目は普通の中国人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる[8]。 能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている[9]。 学問を非常に好み、孔子の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学、科学、天文学をよく学んだ[10]。 フェルディナント・フェルビーストと湯光先を臨時の会議に呼び出し、中国天文学と西洋天文学のどちらが正しいかを確かめるため訊問し、西洋天文学の正しさを実証させた[11]。 呉三桂など多くの漢人の反乱に悩まされたが、不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下した。適切な対応をしたため、数で勝る漢人を懐柔すること成功した[12]。 モンゴルの王が反乱を起こそうとすると、すぐさま北京の軍とモンゴルに隣接する遼東省の軍を合流させた混合軍を送った。モンゴルの王は自軍の情勢も兵力集中も隣国の協力も得られずに敗北し、兄弟と王子が俘虜となった[13]。 飢饉の時に諸省の税を免除して、米倉を解放した。被害の大きい地域には米と金を分配した。また、六部を新築するために北京に集まっていた貧民を使役し、彼らの困窮を救った。中国史で起こりがちであった農民反乱を、こうして未然に防ぐことに成功している[14]。 康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した、その時、身分の低い者でもそばに行くことができ、彼らに親切で慈愛のある態度を取った。そして官吏に満足しているかを尋ねた[15]。 生活は質素であり、食事は普通のもので満足した。また離宮を建設した時、豪勢さを反映するものは見当たらず、質素であった。衣服も豹の毛皮と一般的に用いられるものだった[16]。 皇子の教育にも熱心であり、歩き始めるとすぐに馬術、弓術、銃術を教えた。また、皇子たちが過保護にされるのを好まず、労働、労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるように躾けた[17]。 1708年に明の皇統の生き残りである75歳の朱慈煥に対して、「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」と判断して、逮捕した挙句に朱慈煥本人を凌遅刑に、その一族を皆殺しの刑に処して、明の皇統を根絶やしにした[18]。
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