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創価学会は日本有数の「親中団体」
「露骨な中国批判はできるだけ避けたい」公明党が妙な動きを取りつづける本当の理由
プレジデントオンライン 2021/10/27号
今年4月、中国の人権弾圧に抗議するため、超党派の「対中批判議連」が立ち上がった。自民党、立憲民主党、日本維新の会、日本共産党など与野党が参加するなか、公明党は参加を見送った。『宗教問題』編集長の小川寛大さんは「公明党の設立母体である創価学会は、日本有数の『親中団体』であるため、中国批判をできるだけ避けようとしている」という――。
日本有数の“親中団体”である創価学会
10月31日投開票予定の衆議院議員選挙に向けて公明党が発表した公約の内容が、政界の一部で話題になっている。
7日に発表されたそのマニフェストのなかで同党は、中国に関して「人権や基本的自由の尊重について、国際社会から具体的な懸念」が示されているとし、「透明性をもって説明し、国際社会に対する責任を果たすべきである」と批判。
また日中間に存在する尖閣諸島の領有権問題に関しても、「中国による一方的な現状変更の試みは、断じて認められません」との認識を示している。
公明党、およびその設立母体である日本最大の新宗教団体・創価学会は、長年にわたって日本屈指の“親中団体”として知られてきた。創価学会名誉会長・池田大作や公明党の歴代党首らは、周恩来に始まる中国の歴代指導層とたびたび会談。
創価学会を母体とする創価大学は、1972年の日通国交正常化以降、初めて中国人留学生を受け入れた大学のひとつで、同大のOBには元駐日中国大使の程永華といった大物もいる。
また池田大作はこれまで、世界中の大学などから「名誉教授」「名誉博士」といった学術称号を約400授与されているのだが、そのうちの120は中国(香港含む)の教育・研究機関から与えられたものである。ここまでの“親中団体”は、日本のなかにそうあるものではない。
公明党の中国共産党批判は路線転換と言えるのか
一方で、こうした創価学会の親中姿勢は、ある意味で当然と言うべきか、中国への過度な忖度、媚びを生んできたとの批判も長く存在する。
例えば創価学会、公明党は従来、核兵器廃絶を盛んに叫んできた団体である。東日本大震災以降には、原子力発電への過度な依存から脱却すべきではないか、といったメッセージも発信している。しかし、そんな創価学会、公明党が、世界有数の核保有国である中国に核兵器の放棄を強く迫ったなどという記録は存在しない。
宗教団体でありながら、中国政府によるチベット仏教、ウイグルのイスラム教弾圧に猛抗議した形跡もない。中国国内の民主派に対する圧迫や、日中間の領土問題といった課題に関しても、創価学会、公明党は、ほとんど見て見ぬふりと呼ぶに等しい姿勢で一貫してきた。それが彼らの“親中姿勢”の実際であった。
しかし今回の衆院選を前に、公明党はある意味で画期的とも言える中国批判を、その公約に盛り込んだ。これは果たして、公明党と支持母体である創価学会の一大路線転換のきっかけとなることなのだろうか。
1968年に発表された「日中国交正常化提言」
そもそも創価学会と中国の具体的な関係は、1968年9月に池田大作が発表した「日中国交正常化提言」というものに起点がある。当時の日本は中国(中華人民共和国)と国交を結んでおらず、台湾の中華民国政府を“正統な中国政府”と位置づけていた。
池田はこの状況を、「大陸・中国の7億1000万民衆をまるで存在しないかのごとく無視した観念論にすぎない」と言って批判。日本は日中国交正常化に向けて動くべきであると述べ、「その困難な問題を成し遂げていくのは、公明党以外に断じてない」と語ったのである。
これをうけて公明党では、当時の中央執行委員長だった竹入義勝(衆議院議員)らが具体的に中国政府との接触を図って動き始め、1972年の日中国交正常化に向けて、日本政府や自民党のサポート役を果たしていくこととなる。
なぜ池田はこのとき、日中国交正常化を訴えたのか。『新・人間革命』など、創価学会の刊行物によると池田は“平和主義者”として、日本が第2次世界大戦で中国を侵略したことについてずっと胸を痛めており、「一人の日本人として、また、仏法者として、中国、そして、アジアの人びとの幸福と平和のために、一身をなげうつ覚悟」(『新・人間革命』より)で、日中国交正常化を提言したのだ、ということになっている。
ただ、この1960年代末というのは、実は創価学会にとっての大きな転換期であった。
創価学会が公明党を作った理由は「国家権力を統制下に置く」ため
そもそもだが、創価学会とは何を目的、理想としている団体で、何のために公明党という政治部門を持っているのであろうか。
公明党の設立は1964年のことだが、創価学会はそれ以前から「創価学会系無所属」などと称し、会員(信者)たちを各種の選挙に立候補させていた。池田大作の師にして、2代目の創価学会会長だった戸田城聖は、会の政界進出の意味について、こんなことを言っている。
「われらが政治に関心を持つゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(創価学会機関誌『大白蓮華』1956年8月号より)
詳しい宗教的な説明は省くが、「広宣流布」とは簡単に言えば、「全世界の人類に布教をする」ということで、「国立戒壇の建立」とは、「影響下に置いた国家権力に、自分たちの宗教施設を建てさせること」を意味する。
つまり創価学会とはもともと、「世界中の人を信者にし、国家権力すら自分たちの統制下に置く」ことを目標に動いていた宗教団体で、政界への進出も、そのための手段だったのである。
しかし、特に1960年代中盤以降、公明党が政界に具体的な勢力を形成し始めると、さすがに社会のあちこちから「公明党の存在は政教分離違反なのではないか」という批判の声が上がり始める。
特に大きかったのは、政治評論家の藤原弘達が1969年に出版した批判本『創価学会を斬る』に対し、創価学会が大がかりな出版妨害を行った「言論出版妨害事件」だった。創価学会は世間からの猛バッシングを受け、池田は1970年に、謝罪に追い込まれた。
このような流れのなかで、創価学会と公明党は従来の「広宣流布」「国立戒壇の建立」などといった目標を掲げなくなる。その代わりに出てきたものこそが、現在の公明党が掲げる「平和と福祉の党」なる路線なのである。
そして創価学会の“親中路線”とは、まさにこの方針転換の真っ最中に出てきた姿勢であることに注目しなければならない。
日中国交正常化を加速させた「竹入メモ」
一方で中国の側にも、このころ日本との関係改善を図るべき理由が存在していた。1953年のスターリン死去以降、毛沢東はソ連との対立を始め、この「中ソ対立」は1969年のダマンスキー島事件などといった、実際の軍事衝突にまで発展する。
かつ、1966年から始まった文化大革命は、中国に対するマイナスイメージを世界に広め、国際的な孤立をすら招こうとしていた。当時、中国の外交部門の責任者だった周恩来は、こうした状況の打破のため、西側諸国との融和路線に向けて動き出す。
1972年のアメリカ大統領、リチャード・ニクソンの中国訪問はその代表的成果で、周恩来は日本に対しても、具体的な親中派勢力の調査、取り込みに向けて動き始めていた。
このような周の意を受けた対日工作員、孫平化(後の中日友好協会会長)の目にとまった組織こそが創価学会であり、周恩来と池田大作は、このようなお互いの切迫した事情の末、1970年前後に“手を結ぶ”こととなったのではないか。
池田の日中国交正常化提言をうけて数度にわたって訪中した公明党の竹入義勝に、周恩来は直々に面会。日中国交正常化が行われるのであれば、中国政府は第2次世界大戦に関する賠償金の請求はしないこと、日米安保や尖閣諸島の問題などはひとまず棚上げにしてもいいことなどといった、具体的な提案を持ちかけた。
当時の公明党は野党であり、竹入は日本政府の特使でも何でもなかった。しかし、竹入は結果として“特使のような存在”になってしまい、彼が日本政府にもたらした「竹入メモ」によって首相・田中角栄は動き、1972年に日中国交正常化が成立する。
一般にはなじみのない話だろうが、こうした“事実”があることをもって、創価学会内部には「日中国交正常化は池田大作先生の功績である」という史観が存在している。
そしてその“事実”こそが、当時猛批判を浴びていた「政教一致路線」から「平和と福祉」の方向へ創価学会の性格を転換させ、組織全体の生き残りに道筋を付けた、「世界の平和主義者・池田大作先生」の第一歩だったのである。
「中国は搾取のない、圧政のない清らかな社会」と語った池田大作
1974年6月、池田大作は初めて中国を訪問する。
中国副総理の李先念や、中国仏教協会(これは民間の宗教団体ではなく、事実上の中国の国家機関である)幹部の趙樸初らが、池田を歓待。池田は北京大学や万里の長城、また各地の人民公社などを訪問し、行く先々で熱烈な歓迎を受け、また連日のように歓迎の宴席が設けられた。
当時はまだ文化大革命の真っ最中だが、池田はそうした中国の暗部にまったく目を向けず、帰国後に出版した『中国の人間革命』のなかで「ある識者」の語ったことを紹介するという体裁をとりつつ、「(中国は)搾取のない、圧政のない、清らかな社会」であるなどと評している。創価学会の中国への忖度は、この段階ですでに完成していた。
以後、池田をはじめとする創価学会、公明党関係者は、中国の核兵器や民族・宗教問題、民主化運動、また領土問題などに対する厳しい言及もないまま、「日中友好」のために中国を頻繁に訪れている。
また池田大作はその後、世界のさまざまな国を「民間外交」として訪ね歩き、勲章や名誉称号などをもらい集めていく。
そうした姿勢の末に現在、創価学会内では「ガンジー・キング・イケダ」なる言葉が流通する事態になっている。池田大作とは、マハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キング牧師と並ぶ、世界を代表する平和主義者だというのだ。
池田は1960年に創価学会会長に就任して以降、断続的に海外を訪問してはいる。しかし、当初は学会の海外組織づくりの作業や、文化人の交流などを主としたものだった。具体的な外国政府との“外交”を伴う創価学会の事実上の“平和路線”の第一歩とは、日中国交正常化だったのである。
公約でも具体的な課題には言及していない
今年4月、自由民主党、立憲民主党、日本維新の会、国民民主党、日本共産党、れいわ新選組、NHKと裁判してる党弁護士法72条違反での各党によって立ち上げられた「人権外交を超党派で考える議員連盟」(人権外交議連)。
事実上、香港の民主派や、ウイグル、チベットへの弾圧を続ける中国への牽制を最重要目的のひとつとして立ち上げられたこの「対中批判議連」に、公明党は関わることを避けた(最終的に公明党参院議員・三浦信祐が加盟したが、党代表・山口那津男は「個々の議員の自主的な判断で対応するもの」とし、党全体としては賛同していないと表明)。
また今年6月に自民党が国会での採択を準備していた、ウイグル弾圧を念頭においた中国への非難決議も、「公明党の反対で流れた」とする報道が、主要各マスコミによって行われた(公明党は公式には「決議を止めた話はまったくない」としている)。
かくなる創価学会の中国への忖度は、日中国交正常化交渉の時期から約50年、ほとんど変わることがない。
もちろん冒頭で示したように、公明党は今回の衆院選への公約として、中国への批判を盛り込んだ。ただし、中国の人権状況を憂慮する項目に、チベット、ウイグル、香港といった、具体的な課題の固有名詞は記載されておらず、中国そのものはあくまで「一衣帯水の隣国」だと言っている。どこまで本気なのかは疑わしい。
公明党の対中姿勢の転換には限界がある
また、一帯一路や戦狼外交といった、国際社会に対して挑発的な姿勢を取り続ける中国の習近平・現政権に対し、創価大学教授の樋口勝は2019年に発表した「社会主義中国と創価思想」という論文のなかで、「習近平が言う『社会主義社会に適合する宗教』や『宗教の中国化』という宗教政策の根底には、宗教の精神性から人間のあり方を学ぶ姿勢が伺えます」などと評価している。
「社会主義中国と創価思想は、両者の宗教観(本体論)に相違はあっても、人間の幸福、社会の繁栄、日中の友好、世界の平和のための対話を展開していく基盤と目的は、互いに通底していると言える」とし、現状のチベットやウイグルに対する中国の政策にも、「チベットやウイグルの独立問題や、イスラム過激派のテロ問題、地下教会の管理問題など、共産党による国内統治の不安定要素を取り除くのが目的です」と、理解を示してみせるのである。
そもそもだが、創価学会の方針の大転換を決定できるのは、最高指導者たる池田大作以外にない。現在93歳の池田の健康状態がいかなるものなのかはともかく、現実として彼はここ10年近く、公の場に姿を現さず、具体的な指導も行っていない。
創価学会であろうと公明党であろうと、池田大作本人の許可なくして、「日中国交正常化を成し遂げた池田大作先生」のイメージに傷はつけられない。そうであれば、公明党の“対中姿勢の転換”にも、おのずと限界は生じるはずだろう。(文中敬称略)
小川 寛大(おがわ・かんだい)
『宗教問題』編集長
1979年、熊本県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。宗教業界紙『中外日報』記者を経て独立。2014年、宗教専門誌『宗教問題』編集委員、15年、同誌編集長に就任。著書に『神社本庁とは何か 「安倍政権の黒幕」と呼ばれて』(ケイアンドケイプレス)、『南北戦争 アメリカを二つに裂いた内戦』(中央公論新社)がある。
https://president.jp/articles/-/51187
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