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20世紀初頭以来、ポーランドは米英と手を組み、反ロシア政策を継続
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202303100000/
2023.03.10 櫻井ジャーナル
ウクライナへ14両のドイツ製の戦車「レオパルト2」を引き渡しつつあるポーランドは歴史的に反ロシア感情が強い。昨年9月26日にロシアからドイツへ天然ガスを運ぶために建設されたパイプライン、ノード・ストリームとノード・ストリーム2が爆破された際、ポーランドのラデク・シコルスキー元外務大臣は「ありがとう、アメリカ」とツイッターに書き込んでいる。
爆破の1分後にイギリスの首相だったリズ・トラスはiPhoneでアメリカのアントニー・ブリンケン国務長官へ「やった」というテキストのメッセージを送っていることからイギリスも関与していた可能性が高いが、調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュはアメリカ海軍のダイバーがノルウェーの手を借りて実行したと書いている。
ハーシュによると、アメリカのジョー・バイデン大統領は2021年後半にジェイク・サリバン国家安全保障補佐官を中心とする対ロシア工作のためのチームを編成、その中には統合参謀本部、CIA、国務省、そして財務省の代表が参加している。12月にはどのような工作を実行するか話し合ったという。そして2022年初頭にはCIAがサリバンのチームに対し、パイプライン爆破を具申している。
2022年1月27日にビクトリア・ヌランド国務次官は、ロシアがウクライナを侵略したらノード・ストリーム2を止めると発言、2月7日にはバイデン大統領がノード・ストリーム2を終わらせると主張、記者に実行を約束した。こうした発言の背後には爆破計画があったわけだ。
爆破計画の拠点として選ばれたのはノルウェー。イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長の母国だ。ハーシュによると、3月にはサリバンのチームに属すメンバーがノルウェーの情報機関に接触、爆弾を仕掛けるために最適な場所を聞き、ボルンホルム島の近くに決まった。
プラスチック爆弾のC4が使われたが、仕掛けるためにはロシアを欺くためにカムフラージュが必要。そこで利用されたのがNATO軍の軍事演習「BALTOPS22」だ。その際にボーンホルム島の近くで無人の機雷処理用の潜航艇を使った訓練が行われた。
シコルスキー元外相は1980年代前半にオックスフォード大学へ留学し、その際に学生の結社「ブリングドン・クラブ」へ入っている。メンバーの多くはイートン校の出身、つまり富豪の子どもたちで、素行が悪いことで知られている。
この結社が創設されたのは1780年で、シコルスキーと同じ1980年代のメンバーにはボリス・ジョンソン、デイビッド・キャメロン、ジョージ・オズボーン、トニー・ブレアといった後の政治家、そして金融界に君臨しているナット・ロスチャイルドも含まれている。
帝政ロシアの有力貴族だったユスポフ家のフェリックスもクラブのメンバーだった。彼は1909年から13年にかけてオックスフォード大学で学んだが、その時にフェリックスブリングドン・クラブに入っているのだ。留学時代、フェリックスはクラスメートのオズワルド・レイナーと親しくなるが、この人物は後にイギリスの情報機関SIS(秘密情報局、通称MI6)のオフィサーになった。
ユスポフ家が雇っていた家庭教師の中にはイギリス人もいた。その宮殿で教師の子どもとして1876年2月に生まれたスティーブン・アリーものちにMI6のオフィサーになる。ちなみにフェリックスが生まれたのは1887年3月である。
フェリックスがオックスフォードでの留学を終えた翌年の1914年には第1次世界大戦が勃発するが、ロシアの支配層は戦争に反対する大地主と参戦を主張する資本家が対立していた。地主の主張を代弁していたのがグレゴリー・ラスプーチンで、そのバックにはアレクサンドラ皇后がいた。
そうした中、ラスプーチンは腹を刺されて入院、その間にロシアは参戦を決めたが、退院後もラスプーチンは戦争に反対するのだが、1916年の後半に入るとフランス軍やイギリス軍は疲弊、ロシア軍を離脱させるわけにはいかない。
その年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣、そのチームにはフェリックス・ユスポフと関係の深いステファン・アリーとオズワルド・レイナーも含まれていた。
ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)
1916年12月30日にラスプーチンは暗殺されたが、殺害に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。
そして1917年3月の「二月革命」でロマノフ朝は倒されるが、この時にボルシェビキの幹部は亡命中か刑務所に入れられていた。革命後に成立した臨時革命政府は戦争を継続、ドイツは両面作戦を続けなけらばんらない。
そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキのウラジミル・レーニンキに目をつける。ドイツ外務省はボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運んでいる。レーニンが帰国したのは1917年4月。ボルシェビキが実権を握ったのは11月の「十月革命」だ。
レーニンはドイツとの戦争を終結させたものの、アメリカが参戦していたこともあってドイツは敗北するのだが、こうした経緯があるため、ドイツとソ連の関係は良かった。悪化するのはアドルフ・ヒトラーが率いるナチスが台頭してからだが、そのナチスにイギリスやアメリカの金融界は資金を提供していた。
ドイツへ資金を流す上で重要な役割を果たした金融機関としてブラウン・ブラザース・ハリマンやディロン・リードが有名だ。ブラウン・ブラザース・ハリマンの重役の中にはW・アベレル・ハリマンやプレスコット・ブッシュも含まれていた。ハリマンとブッシュはドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング(UBC)」を設立、ブッシュはその経営を任される。
ブッシュが金融界で出世できた理由のひとつはエール大学でハリマンと同じように「スカル・アンド・ボーンズ」に入会したことのほか、結婚した相手のドロシーが金融界の大物であるジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘だったことが挙げられる。
ドロシーとプレスコットは1921年に結婚、24年にウォーカーが社長を務める投資銀行A・ハリマンの副社長に就任している。ユニオン・バンキングが創設されたのも1924年だ。1931年にブッシュはブラウン・ブラザース・ハリマンの共同経営者になった。この頃、アレン・ダレスは弁護士としてウォール街で仕事を始めている。ちなみに、ブッシュは1895年生まれだが、ダレスは93年生まれで、ふたりは親しくなる。
ポーランドはロシア革命の前から反ロシアの運動があった。その中心だったユゼフ・ピウスツキは日露戦争が勃発した1904年に来日、彼の運動に協力するよう、日本側を説得している。1925年に彼らは「プロメテウス同盟」という地下組織を編成した。
その当時、バルト海から黒海まで、つまり中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという動きがあり、インテルマリウムが構想された。イギリスやフランスの情報機関から支援を受けていたのだが、そのインテルマリウムにもピウスツキは関係している。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
ウクライナの反ロシア派もプロメテウス同盟に加わったが、ポーランド主導の運動だったことから離反するウクライナの若者が増え、イェブヘーン・コノバーレツィなる人物が中心になってOUN(ウクライナ民族主義者機構)が組織される。OUNの中からステパン・バンデラ派が生まれた。
ピウスツキの後、ポーランドの反ロシア運動を率いた人物はウラジスラフ・シコルスキー。ポーランド軍の将校はこの人物を中心にまとまり、イギリスと連携、ナチよりもコミュニストを敵視していた。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage Press, 1995)
第1次世界大戦後、ドイツとポーランドの間に領土問題が生じた。東プロイセンは飛び地になったのだ。その問題を解決するためにドイツ政府住民投票を提案する。ドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという内容だった。
その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになるのだが、ベックは姿を現さない。ロンドンへ向かったのだ。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告する。
ソ連はドイツの軍事侵攻に備えるため協力しようと各国に訴えたが、無視される。その計画が実現しなかった一因はポーランドの強い反ロシア感情にあったと言われている。
そこで1939年8月23日にドイツとソ連は不可侵条約を締結した。ドイツ軍は9月1日にポーランドへ軍事侵攻、3日にイギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告して第2次世界大戦が始まるったのだが、そこから半年ほどの間、本格的な戦闘は行われていない。いわゆる「奇妙な戦争」だ。戦争の準備をしていなかったドイツは動けなかったということだろう。
その間、シコルスキーはパリへ脱出。1939年9月30日にそこで亡命政権を作り、翌年6月19日にウィンストン・チャーチルと会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束し、亡命政権はロンドンへ移動する。ソ連のNKVD(人民内務委員会)がポーランド軍将校を大量処刑したのは1940年の4月から5月にかけてとされている。
ドイツ軍は1941年6月、ソ連に対する侵略戦争を開始した。バルバロッサ作戦だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人だけだと言われている。この攻撃の準備には半年から1年は必要だったろう。
ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民が死亡したという。バルバロッサ作戦の準備をしていたであろう時期と重なる。イギリス攻撃の準備をソ連攻撃に転用したとは考えにくい。おそらく陽動作戦だったのだろう。
1941年7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。この段階でアドルフ・ヒトラーは勝利を確信、ソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日に語った。ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲される。1943年1月にドイツ軍は降伏した。
スターリングラードでの敗北でドイツの敗北は決定的になり、ソ連の敗北を期待していたイギリスは慌てる。しかも、このまま終わるとソ連がドイツに勝ったということになってしまう。
ポツダム宣言は即時無条件降伏を要求しているが、「無条件降伏」という語句が出てきたのは1943年1月。フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相がフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した際のことだ。この会談で無条件降伏が主張されなければ、早い段階でドイツは降伏していただろう
イギリスはアメリカと会談、1943年7月に両国軍はシチリア島への上陸作戦を実行した。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。事実上、こうした作戦はコミュニスト主体のレジスタンスやソ連軍を念頭に置いている。
フランクリン・ルーズベルト米大統領が急死した翌月、1945年5月にドイツは降伏。その直後にチャーチルはJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連を攻撃するための作戦を立案するように命令し、「アンシンカブル作戦」が提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのはその年の7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、この作戦は発動していない。参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
20世紀初頭以来、ポーランドの反ロシア政策は継続している。
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