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創価学会・池田大作レイプ事件
10年間「創価学会」と闘い続けた「信平さんの夫」
週刊新潮 2005.12.01
池田レイプ事件を告発した信平(のぶひら)信子さんの夫、醇浩(じゅんこう)さんが心臓の衰弱により83歳で亡くなった。告発以来、およそ10年。激しい誹謗中傷に晒されながらも、最後まで創価学会と池田大作名誉会長に対する毅然たる姿勢を失わない生涯だった。
11月11日午後10時25分。函館五稜郭病院で、醇浩さんは、家族に見守られて静かに息を引き取った。
もともと心臓が弱かった醇浩さんは、今年になって病院に通うことが多くなり、10月31日に心臓の不調を訴えて入院。しかし、入院中は元気そのもので、亡くなる当日の夕方も笑顔で、「明日、何時に来るから」という信子さんに、
「ああ、そうかい。気をつけて帰れよ。バイバイ」と、言葉を交わしたばかりだった。その数時間後に容体が急変。病院からの連絡で信子さんと長男が駆けつけると、醇浩さんは、酸素吸入を受けていたという。
「苦しそうな様子もなく、口がぶつぶつ言っているので耳を近づけると、目をつむったままお題目をあげていました。そのまま眠るように息を引き取りました。お人形のようにきれいな顔でした」とは、最期を看取った信子さんだ。
罵言雑言を浴びても
醇浩さんは、戦時中に中国戦線で部隊が全滅し、何年もの放浪の末に函館に帰還した時は、すでに自分の戦死通知が来ていたというエピソードを持っている。戦後、函館で電気工事店を経営した醇浩さんは生前、
「函館中の電気をつけた」
と、笑いながら自慢していた。信子さんが長男を出産して以降、健康が優れなくなったことから、創価学会に入信。夫婦で信仰のために尽くした。
特に信子さんの活躍はめざましく、”折伏の鬼”と称され、池田氏は、
「函館に 歴史残せし 光る君」
という自ら作った句を信子さんに贈り、金褒章や広布功労賞という名誉ある賞も与えて功績を讃えている。
しかし、信子さんが告発することになる池田大作氏の三度にわたるレイプ事件を経て、夫妻は平成5年に創価学会を脱会。本誌に、「私は池田大作にレイプされた」という告白手記を発表したのは、平成8年2月のことだった。
その後、創価学会の機関紙や雑誌で、”品格”のかけらもないあらゆる罵言雑言を浴びせられながらも池田レイプ事件を法廷に持ち込んだ。
信平さん夫妻は、急発進した車に轢かれそうになる出来事に何度も遭遇しながら、挫けることはなかった。
だが、裁判所は信子さんに対して、証人として証言させることもなく、「時効」でこれを退けるのである。裁判を傍聴し続けたジャーナ.リストの乙骨正生氏がいう。
「信子さんの訴えは時効であるとし、ご主人の醇浩さんの損害部分についても実質的な事実審理に入ることなく訴えを退けたのです。裁判官が完全に創価学会側の主張に沿って訴訟指揮するという、司法における創価学会の力を見せつけた裁判でした。しかし、それでも醇浩さんは、誰もがヒレ伏すこの巨大組織に一度も揺らぐことなく、毅然たる批判の姿勢を貫きました。自らの信仰に忠実に生きた立派な生涯でした」
83歳の大往生だった。
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池田大作レイプ事件
平成8年2月、創価学会の元婦人部大幹部・信平信子さんは「三度にわたって池田大作に強姦された」と告発し、同年6月東京地方裁判所に損害賠償請求の訴えを起こした。
以下は被害者・信平さんの手記──
◇ ◇
創価学会が、大沼国定公園(北海道)の中に、総面積2万坪という広大な敷地をもつ「大沼研修道場」を作ったのは、昭和46年のこと。
そして、池田大作がここに避暑に来るようになったのは、昭和48年6月からでした。
大沼研修道場の本館での池田の世話は、私が全部やることになっており、それが上からの指示でした。
本館の三階は桧(ひのき)風呂もある池田の専用施設で、関係者以外、たとえ大幹部であっても立ち入ることができません。昭和48年当時は、私以外、誰も三階に昇ることは許されていませんでした。
■1回目の暴行
池田が大沼に初めてやってきた日から三日目、6月27日の夜のことでした。
それから起こる恐怖と屈辱の体験など、察知する由もなく、私は、自分の仕事として、それまでどおり午後9時に、池田の布団を敷くため三階に上がっていきました。
すると、初日も二日目もその時間には部屋にいなかった池田が、寝室隣の執務室にいて、何か、書きものをしていたのです。ステテコとクレープのシャツ、という姿でした。
私は、「失礼します」といって中に入り、邪魔をしてはいけないという思いから、寝室と執務室の間のふすまを閉めようとしました。ところが、池田は、
「そのままでいいよ」
と言うのです。
私が、池田に背を向ける形でシーツを整えていた時です、池田は、前かがみになった私の背後から、いきなりのしかかってきたのです。アッという間のできごとでした。
池田は、私を押さえつけたまま、肩の方から手を伸ばし、私のブラウスのえりとスリップのひもを一緒に引っ張りました。
夏物の薄いブラウスですから、ひとたまりもありません。ボタンがバラバラとちぎれ落ちました。
スカートもビリビリに破られました。
池田は、「ハッ、ハッ」と荒い息を吐き掛けながら、
「下着は一枚だね」
と言って、私の下着の中に手を入れてきました。
ものすごい力で押さえつけられた上に、恐怖で声も出せないでいる私に、池田は後ろからグッと突いてきたのです。あがき、もがいて、抵抗を続けていた私は、目の前が真っ暗になり、うつぶせになったまま、失神してしまいました。
どれほど時間が経ったでしょうか。気を失った時はうつぶせだったはずなのに、寒さを感じて気がついた時、私は、仰向けで布団の中に寝ていたのです。
私が這(は)ってドアまで行こうとすると、池田はしつこく追いかけてきました。ドアに頭をぶつけ、心臓はドキドキして、ここで殺されるのではないかと、本当にそう思え、大変な恐怖でした。
ようやくドアを開けて、二階にかけ降りると、トイレに飛び込みました。激しい吐き気に襲われ、それはしばらく続きました。
そして、気持ちを鎮め、下腹あたりについている体液を何度も何度も拭きました。皮膚が赤くなっても、なお拭き続けました。
■「体臭のきつい池田」
昭和49年には、池田に呼ばれて二階に行くと、誰もいない部屋でいきなり抱きつかれ、顔を引き寄せて口を押し付けられました。また、「散策に行こう」と言われ、戸外なら大丈夫だろうと思ってついて行くと、本館の裏につれて行かれ、そこでも同じようなことをされたのです。
抵抗し、幸いにもそれ以上のことはありませんでしたが――。
その後も再三にわたって、同じようなことが繰り返されました。
ちなみに、池田は、体臭がものすごくきついのです。とくに夏場だったせいもあるかもしれませんが、ニンニクが腐ったような臭いとでもいうのでしょうか、それが身体中から発散されていて、たまらない感じでした。
■「池田の下半身」
二回目に私が池田から犯されたのは、昭和58年8月19日のことでした。
早朝、私はいつもどおりに一人で、大沼研修道場の敷地内にあるプレハブ建ての喫茶「ロアール」の掃除をしていま した。
大沼の夏は、もやが深く立ち込め、数メートル先も見えなくなります。
入口を背にして、テーブルを拭いていた私に、いきなり池田が後ろから抱きついてきました。
池田は、毛むくじゃらの腕で私をはがいじめにし、脚をかけて、私を押し倒しました。
倒れる瞬間、私はテーブルで左脇のあたりを強く打ちました。また、ブラウスはボロボロに破かれ、スカートも靴下も無理やり外(はず)されてしまいました。
のしかかってきた池田を押し退けようとするのですが、脚も腰もオモリを付けたように重く、はねのけることなど、とてもできないのです。
池田は、まるで、狙った獲物に向かって一直線に進む、ケダモノそのものでした。
目的を果たし終えた池田は、外に人の気配を感じたらしく(結局、外には誰もいなかったのですが)、力をゆるめ、私はようやく解放されました。
このとき、一瞬ではありましたが、私は初めて池田の裸の下半身を見ました。池田の下半身は異常に毛深く、まるで黒いパンツでもはいているかのようでした。
トレーナーのズボンをずり上げながら逃げる体制の池田は、私の方を振り向き、
「二号さんの顔を見にきたんだよ」
と、下品に顔を崩して笑いました。その笑いは、本当にこの世のものとも思えない不気味さでした。
■最後は平成3年
大沼研修道場で三回目に私が池田から暴行を受けたのは、平成3年8月17日の早朝でした。
朝7時半頃、食料の補充をするために、私は、研修道場の敷地の中を歩いていました。
その朝も、大沼研修道場は深い霧に包まれていました。
敷地の路上を歩いていた私に、突然、池田が左後方から飛びついてきたのです。私は引き倒され、後ろからすごい力で抑え込まれてしまいました。
逃げよう、逃げようとするのですが、全体重でのしかかられた上に、押さえ込まれ、地面には掴まるところもなくて、どうすることもできません。声を出そうにも、「アー」とか「ウー」としか出ないのです。
池田は荒々しく私の衣服をはぎ取り、前の時と同じように「ハッ、ハッ」と息を荒げて、私を犯したのです。衣服はボロボロになりました。
とにかく、その間も逃げることしか考えなかった私は、無我夢中で池田の手を引っかいたり、かみつき、池田の力が一瞬、ゆるんだすきに、私はようやく身体を引き離すことができました。
池田は、また、あの不気味な笑いを見せ、霧の中を逃げていきました。
以来、このできごとを誰れに話すこともできず、どれだけ思い悩み続けてきたことか――。
ようやく私は、意を決して、池田の責任を問うために、池田が私にした行為を提訴いたしました。
池田を法廷に引っ張り出すことが、池田大作という人間の真の姿を、だまされている学会員の皆さん、国民の皆さんに知っていただくことにもつながる、と思っています。
最後に、池田の習性・性癖を垣い間見た私としては、全国に、私のような被害者が、まだいるはずだ、と思います。その方達が、真の勇気を持ってくださるよう、期待しております。
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国民新聞 2004.04.25
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H16/1604/1604032rape.html
聖教新聞 池田大作レイプ訴訟報道で捏造・出鱈目記事
「週刊新潮」は、元創価学会員の信平信子(のぶひら のぶこ)さんが池田大作名誉会長にレイプされたとした裁判の経過報告と告発手記等を報じた。
これに対し、聖教新聞3月28日付は池田大作のレイプ訴訟報道について、
作家の宮本輝氏を通じ新潮社の佐藤隆信社長が
「創価学会と池田名誉会長に対する『遺憾の意』を表した」
と書いた。ところが当の宮本氏は
「遺憾の意を表したことはなかった」
と否定。学会が捏造した出鱈目記事であることが暴露された。
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※本件強姦事件訴訟は、全く異例なことに、事実審理もなく、池田の証人出廷もなく、「時効」と「訴権の乱用」という信じられない解釈で却下されました。
※創価学会の副理事長、芸術部長、公明党委員長らの告白によると、創価学会・公明党は裁判所に手回しをしていたほか、信平さんの家族に嫌がらせをするよう指示をしていたとのこと。
以下の著書も参照されたい。
「信平裁判の攻防」 山崎 正友(著)
「黒い手帖」矢野絢也(著)
「創価学会 公明党 スキャンダルウォッチング」内藤国夫(著)
https://blog.goo.ne.jp/c-flows/e/07443d8d9243ce9d74ee3d4f536369b1
https://kodokunopennginn.amebaownd.com/posts/4656601
https://www.beach.jp/circleboard/ad28005/topic/1100096077277
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10459885.html
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