>>176 の補足 >途中、1980年に大平氏は亡くなられましたが、 >平成2年(1990)ついに赤字国債依存体制から脱却しました。パチパチパチ。 パチパチパチと拍手をしたものの なんで赤字国債依存から脱却できたのかというと 1989年の消費税3%の導入から赤字国債を発行せずにきていたそうで、 消費税導入のおかげで赤字国債を消せた、と。 あんまりめでたくなかった話。 ↓ ■参考: 今知っておきたい、90年代のバブル崩壊物語 3分で学びなおす日本経済史 https://diamond.jp/articles/-/60475 (2014/10/28) しかも上記サイトによると、この頃からバブル崩壊の兆しがあった、と。 ↓↓ 株価の方は1989年末を過ぎると、その後はかなりヤバいペースで下がり続け、 1990年末には日経平均株価は2万3000円台にまで下落している。 これは相当な下げ幅だ。ということは、少なくともこの時点で株価バブルは崩壊し、誰もが日本の先行きに危険な臭いが立ち込めていることを予感できた (略) バブル経済の崩壊──この未曽有の事態に対し、日本政府は「緊急経済対策」を実施すると発表した。これは、新規国債を発行して、これを財源に所得税減税と公共事業を行うという、不況時の最もオーソドックスな財政政策だ。今までに経験した普通の不況なら、この政策で徐々に景気は回復する。 だが、政府の考えは甘かった。今の日本はバブル経済が崩壊したのだ。ならやるべきは、有効需要を創出するだけでなく、すべての病根である銀行や証券会社などの“金融業界”の大掃除、体質改善もやらねばならない。 つまり、金をバラまいて国民の消費を多少刺激できたとしても、金融の要にいる銀行・証券がちゃんと機能していなければ、要所要所で金の流れが止まる。 結局、この総合経済対策は、数回やったが効果がなかった。国民に残されたものは、相変わらず出口の見えない不景気と、赤字国債発行による、巨額の財政赤字だけだった。 せっかく1989年の消費税3%の導入から発行せずにきていた赤字国債だったのに、僕の就活の年(1993年)から、またジャブジャブと発行を始めたのだ。 ●銀行には担保があるのに、なぜ回収不能? バブル後の景気回復を大きく遅らせた原因の一つに、銀行の不良債権問題がある。不良債権とは「回収不能(あるいは困難)になった貸付金」のことだ。つまり、金を貸した相手が法律上の倒産整理の段階にある(=破綻先)、倒産はしていないが事実上経営破綻の状態にある(=実質破綻先)、今後破綻する可能性が高い(=破綻懸念先)、などへの貸付金ということ。 見てわかる通り、どれも貸した相手がすでに死に体同然だから、そこから金を回収できないというのは理解できる。バブルが弾けて返済能力がなくなったんだから、これはもう仕方がない。 ただ、ここで解せないのは、なぜそれだけで回収不能になるのかということだ。だって銀行は、カネを貸すときにキッチリ担保を取る。つまり「あんたに5000万円貸すけど、その代わりあんたの工場を担保に取るからな。これでアンタが倒産しようが死のうが、その工場を売っ払えば、私ら銀行は損しない」という契約で金を貸すわけだ。これなら銀行に「回収不能の貸付金」なんて、生まれるはずがない。 でも実際には、銀行はバブル後、巨額の不良債権に苦しんだ。その理由は「過剰融資」のせいだ。バブルの頃、銀行で過剰融資が横行していた。つまりバブル期には、将来的な地価上昇を見越して、現在の担保価値以上に金を貸すやり方、ブローカーが銀行員とぐるになってニセの稟議書を書かせるやり方などが横行していた。 でもこんなの、バブルが弾けて金を借りた社長が夜逃げでもしようものなら、銀行に残されるのは、貸した金よりはるかに価値の低いクズ不動産だけだ。しかも、今はバブルが弾けてその不動産の価値もマッハの勢いでダダ下がりしている。 南青山の億ションの話では、「譲渡担保」なんていうやり方まであった。これは「今から買う10億円の億ションを担保に10億円借りる」というやり方だが、投機物件を中心に不動産価格が猛スピードで下落している時勢となっては、こんなバブルの見本みたいな物件に、担保価値などほぼないに等しい。 そして銀行マンたちは、この不良債権問題から目を背けた。なぜなら、彼らの多くは大なり小なりバブル期にやましい融資を手がけたことがあるからだ。 それが上司からの命令なのか、カネのためなのか、それともノルマに追われて魔が差したのかはわからない。でも、全行員がうっすら共犯関係を共有している状態では、銀行の自浄作用など期待できない。 ●利権の温床「住専」になんと公的資金を注入 1995年、ついに住専が飛んだ。 農協マネーをバックにつけ、資金面では問題ないかに見えた住専だったが、いかんせん銀行系の不動産バブルが完全に崩壊し、不動産投機自体が全体的に冷え込み、また顧客の多くが住専以外のバブル崩壊に巻き込まれて討ち死にしてしまったため、とうとう破綻したのだ。 新規の客が激減し、なじみの客が不良債権化。 これでは、いかに農協マネーという裏技使いの住専でも、ギブアップするほかない。 そしてこの住専破綻、実はこの後、問題が大きくなる。 なんと政府は、破綻した住専に対し、6850億円もの公的資金を注入することを決定したのだ。 これには誰もが驚き、怒った。当たり前だ。公的資金を注入するということは、住専だけえこひいきして助けるということだ。 どういうことだ政府! なんで俺らを見殺しにしておいて、住専だけ助けるんだよ。うちの会社だって倒産したんだから助けろよ。金融システムの信頼回復のために仕方ないとか言っているけど、住専なんてそもそもノンバンクじゃないか。 なんでそんな銀行でもないところを助けるのに、俺らの税金を使うんだよ。こんなの全然納得いかないぞ。何かやましいことでもあるんじゃないのか? ……やましいこと、ありまくりだった。実は住専は、コテコテの“大蔵省の天下り機関”だったのだ。 そもそも考えてみれば、住専には最初から怪しいことが多すぎた。 まず住専は、多くの銀行の共同出資でつくられたが、なんでライバル行同士で共同出資をする必要があったのか。 今でこそ当たり前に行われている銀行合併だが、この頃は他行との協力なんてありえなかったはずだ。 それから社長。住専は細かく見ると8つの会社の総称だが、そのうち7社が破綻した。そして、その破綻した住専7社中、6社の社長が元大蔵官僚だった。 それから不自然な規制。大蔵省は不動産融資総量規制を各銀行に通達したが、なぜか住専と農協系金融機関だけは対象外だった。 さらには、大蔵省と農水省の密約。 大蔵省は農水省との間で、住専に農協マネーを投じる代わりに、破綻時には農協マネーを優先的に救済する覚書を交わしている(これは1996年の「住専国会」で取り上げられ、大問題になった)。 どうでしょう。これで大蔵官僚が「私たちと住専は関係ありません」なんて言ったら、霞ヶ関を出た瞬間、善良な納税者たちからタコ殴りだ。住専は大蔵官僚にキッチリ私物化されていた。 つまり住専は、大蔵官僚が自らの利権のために支配下の銀行たちに「つくらせ」、その上で農水省や農協、自民党をも巻き込んだ“利権の温床”にしていたのだ。 でも政府は、そんな国民の声をよそに、住専への公的資金注入を決定した。 これを機に、日本では金融機関を公的資金で救済するという悪しき慣習が生まれたのだ。 ●急速に進む「謎の円高」の正体とは? 住専と不良債権のことばかり書いてきたが、実はこの頃、他の部分でも、日本経済は踏んだり蹴ったりの状態だった。 1995年、日本は“謎の円高”に襲われた。確かに最近、日本は消費が停滞し、「外国のモノを買わず、日本のモノばかり売る」だった。 これをやると外国人の円需要ばかり増える(日本のモノを買うために円が必要)から、どうしても円高になる。 でも、そんなレベルじゃなく、このときの円高は猛烈な勢いで進んだ。 1990年代は「1ドル=150円」ぐらいから始まって、そこからずっと円高が続いていたが、それが1995年初頭には「1ドル=100円」、それがその後90円になり80円になり、そして4月19日、為替レートはついに「1ドル=79円」の当時最高値を記録した。 なぜだ! 日本はこの間、バブル後の不況に加え、阪神淡路大震災まであったんだぞ。それがなんで円高につながるんだ!? 実はこのときの円高は、いろいろと国際社会の“オトナの事情”がからんだ、複雑な円高だった。 アメリカが採った対日貿易赤字の縮小策と対中国優遇の元の切り下げ、メキシコ通貨危機に端を発する海外投機マネーの円への避難、震災後の保険金支払いに備えて日本の生保・損保が外貨資産を売却して円買いを行ったこと、そしてこれら諸々を見通した上での、投機筋による円の思惑買い……こんなところか。 不況の上にこれだけ円高が進んだんじゃ、もう日本経済は粉々だ。 この頃はもう日本中がヤケクソで「海外旅行が安くて得じゃん♪」と騒ぎまくっていた。 海外逃亡の間違いだろと思ったが、とりあえずみんな行ってたな、海外。 何にせよ、これだけ円高が進んでは、日本の本来のお家芸・輸出でも利益は出ない。これはもう“詰み”だ。日銀はこの後、公定歩合を0.5%まで引き下げた。 ●銀行はパンドラの箱を押さえ続ける死刑執行人 公定歩合0.5%。ふつうなら「ウソだろ?」と騒ぎ出すほどの冗談じみた史上最低金利だが、バブルとともにパーンと弾け散ったバラ色の脳の破片を呆然と拾い集め、頭の中にカラカラと詰め直している最中だった僕らは、もはやどんな情報を聞いても「ふーん」という無感動な反応しか示せなくなっていた。 でもこれ、冷静に考えたら、とんでもない低金利だ。だって、バブルのきっかけは公定歩合2.5%だったし、そのとき銀行が「安い!」と騒いで日銀から金を借りまくったせいで、カネ余りから日本がバブルに走ったんだから。それが0.5%ということは、そのときの5分の1か。ということは、今度はこれがきっかけで、あの頃の何倍ものバブルが発生するんじゃないのか? でも、そうはならなかった。銀行はカネ余りに浮かれるどころか、来る客来る客みんな追い返す「貸し渋り」に奔走したのだ。なぜか? それはバブルでいちばんダメージを受けたのが、他ならぬ銀行だったからだ。 銀行はこの頃、巨額の不良債権を抱えていた。そしてその不良債権は、処理したくてもできない“パンドラの箱”だった。無理にこじ開けたら、何が飛び出てくるかわからない。出てくるものは損失だけなのか、それとも逮捕か解雇か廃業か……。いずれにせよ、最後に残るのは“希望”ではなく“絶望”だ。ならそんな箱、誰が好んで開けるものか──。 すべての銀行はこの意識を共有し、組織ぐるみで不良債権から目を背けた。そんな後ろ向きになってしまった銀行が、客にカネなんか貸すわけがない。この頃の銀行には、来る客すべてが“不良債権の卵”にしか見えなかった。今彼らにできることは、これ以上傷を広げないことだけだ。 結局、彼らはこの時期、神さまであるはずのお客様にケツを向け、全力で腐臭漂うパンドラの箱を押さえ続けた。ついでに彼らは「貸しはがし」なんてムチャもやり、せっかくバブルの荒波に耐えて生き残った中小企業から、担保割れを理由になけなしの運転資金をむしり取って死刑宣告した。 「銀行は晴れの日にムリヤリ傘を貸し、雨が降ったら取り上げる」──『半沢直樹』で使われたこの言葉には、この頃銀行のケツを舐めさせられた企業の怨念がこもっている。 国民をますます追い込む財政構造 1997年、政府はバブル後の不況が続いているにもかかわらず、時代に逆行する政策を打ち出した。「財政構造改革法」だ。これは簡単に言うと、「不況だけど、みなさんからお金をむしり取りますね」という法だ。 つまり政府は、バブル後の不況対策として何回か「緊急経済対策」をやったが、全然効果がないまま、気がついてみたら借金ばかりが巨額に膨らんでしまったことに慌てたのだ。 そこで橋本(龍太郎)内閣が、苦渋の決断として、僕らに負担をかけることを承知の上で、まず財政構造の健全化を図ったのだ。そこで実施されたのが、消費税の引き上げ。そう、あの3%から5%に上がったときのことだ。 それに加え、医療費の引き上げ(このときからサラリーマンは1割負担から2割負担にアップした。今日は3割負担)、所得税の特別減税の中止などもセットで行われたため、国民負担は一気に9兆円も増えた。 これだけでもガタガタなのに、さらに追い打ちをかけるように、同年「アジア通貨危機」まで起こった。こいつのせいで対アジア融資の多くが不良債権化してしまい、これらすべてに対する不満は、橋本内閣に向かった。 橋本内閣は、翌1998年の参院選で惨敗し、辞任した。その後は小渕(恵三)内閣が引き継ぐことになる。 ●山一・拓銀・長銀破綻! ついに崩れ落ちた日本の金融機関 1997〜98年には、大手金融機関が連鎖的に経営破綻した。 まず1997年11月、北海道拓殖銀行が破綻した。“たくぎん”は、ローカル色が強いため、都市銀行の中では弱小と見なされがちだが、実は北海道経済を支えてきた大銀行だ。 その都銀初の経営破綻というニュースに、日本中があっと──驚かなかった。 それより「ああ、やっぱりそろそろこうなるのね」という、冷めた反応の方が多かった。 さすがにもうみんな脳のリハビリは済み、物事をちゃんと正しく「悲観的に」とらえられるようになっていた。 そして、拓銀破綻のちょうど1週間後、今度は山一證券が自主廃業した。 山一といえば、野村・大和・日興と並ぶ「四大証券会社」の一つだ。 “法人の山一”なんて言葉も、就活している友人から聞いたことがある。 さらには1998年、今度は長銀二行が破綻した。 長銀とは「長期信用銀行」の略で、吉田茂首相がかつて唱えた「金融の長短分離(短期資金は銀行から、長期資金は長銀から)」をめざして設立された三行(日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本債券信用銀行)だ。 三行は1952年から順次設立され、そこに深く関わったのは、後に首相となる池田勇人。 戦後復興と高度成長のための設備投資資金を支えることが主な目的だ。 しかし長銀も、バブル期には客が減って苦労した。 もう高度成長期ほど設備投資もないし、好景気のせいで運転資金も足りている。 なら長銀も、客を確保するには、もはや時代遅れの産業金融じゃなく、もっとバブル的な方向(つまり土地や株)への投資をと思ってしまった。この辺は、他の銀行や住専と同じだ。 というわけで、長銀もよそ同様、バブル物件を求める顧客やリース会社にジャブジャブ金を貸し、バブル後破綻してしまったのだ。しかしこの長銀、実はかなりの伏魔殿で、すでに破綻しているのに、謎の力で守られているかのようにつぶれなかった。 というか、本人はもう死んで楽になりたいのに、不自然な力がムリヤリ死なせてくれないみたいな感じ。 それはまるで、誰かが長銀に糸を付けて、傀儡よろしくムリヤリ生かそうとしているようだった。 では、誰が長銀を生かそうとしたのか? ここがつぶれるとまずい人って誰だ? 長銀は池田勇人の肝煎りでつくられた銀行であり、自民党「宏池会」(保守派閥)とのつながりが非常に深かった(というか“宏池会の財布”的な銀行だった)。 長銀は産業金融メインでやってきたため、ゼネコンへの貸付が多いが、そのゼネコンは自民党の“活力の源(集票&献金)”なので、これを支える長銀が破綻するのは、自民党的にはまずかった。 つまり、自民党が必死に守りたがったということだ。 長銀には、石油公団や東京電力への融資という「政策金融の一翼を担う」側面があったため、自民党的には破綻されるとまずかった。“長銀の別働隊”ことノンバンクの「日本リース」は、農協マネーの借り入れも多く、自民党としてはツブせなかった。 結局この年、7月発足の小渕内閣では、首相自らまで長銀の“縁談”(身売り相手探し)に奔走し、それがご破算になるや、今度は10月に金融再生法をつくって長銀を「特別公的管理」(一時国有化)にした。 そして「宮澤喜一蔵相─柳沢伯夫金融再生委員長」の宏池会ラインで長銀をガッチリ守りつつ、受け皿が見つかるまで何が何でも長銀をつぶさない方針が採られた。 その後長銀では、粉飾決算や飛ばしがらみで何人もの逮捕者が出たが、なぜか最高裁では無罪になることが多かった。 また、粉飾決算に関わった長銀の幹部2人は「立て続けに自殺」した。 (※この原稿は書籍『やりなおす経済史』から一部を抜粋・修正して掲載しています)
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