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日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/225.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 06 日 17:53:22: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった 投稿者 中川隆 日時 2021 年 11 月 06 日 17:17:42)

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった


2021年07月22日
戦前も晩婚化が進んでいた 食料不足から人口抑制し現在に至る

戦前戦後の食糧不足から、日本は人口抑制を徹底した。
そのまま70年が経ち、政府はまだ人口抑制策を続けている。

引用:http://haofu.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_ec0/haofu/naissances_au_japon.jpg

戦前も結婚が遅かった

少子高齢化は日本の病理のひとつで、中でも子供が少ない少子化は、年金問題や経済の低成長などを引き起こしている。

少子化の原因は結婚しない人が増えたのと、結婚年齢が遅くなったのが原因だが、戦前は結婚が早かったわけではなかった。

1920年代(大正末期から昭和初期)はアメリカで空前のバブル景気になり、すでに個人がスポーツカーを乗り回していた。

当時は今より世界の結びつきは少なかったが、日本も好景気の恩恵を受けて「大正デモクラシー」が流行した。

伝統主義に対して西洋化、資本主義、民主主義がもてはやされ、東京では消費文化が始まりました。

サラリーマンは西洋風のスーツを着てOLが着物ではなくスカートを履き、お昼は洋食のランチを外で食べるのが流行った。


1930年代になると既に日中戦争は始まっていたが、田舎にも西洋化の波は押し寄せ、急速に晩婚化が進みました。

1920年に女性の結婚年齢は23歳だったのに、1943年ごろには25歳になり、男は平均30歳になりました。

この間出生率も低下して5.0(女性一人が平均5人出産)から1940年頃3.8くらいまで低下しました。


出生数は増減はあるものの概ね上昇し、1950年には269万人まで増加しました。

これはいわゆる人口ピラミッドの下の方が大きく、若者が多かったので、少々晩婚になっても絶対数が多かったからでしょう。

戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。

日本政府が人口を減らす政策を進めた

日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。

人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。

そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。


旧日本軍の政治は大体こんな風で、とりあえずやってみたが失敗した、というパターンが多い。

大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

皮肉な事に1945年ごろの日本で最も食料が豊富だったのは、日本が養った朝鮮や満州や樺太だった。


1945年を境に戦地から兵士が帰還して爆発的な人口増加が起こり、1947年から49年に出生数と出生率で過去最高を記録しました。

当時の製造業や農業は自動化されておらず全て人力だったので、社会は膨大な労働力を必要としていました。

日本政府はやはり人口増加による食糧不足を懸念し、戦後すぐに人口抑制政策を始めました。

子供を産んでも何のメリットもなくなった

女性の社会進出、子供の人権、中絶合法化、などがそれでいずれも女性が子供を産まなくなるように調整する目的でした。

女性が働けば子供を産まなくなり、子供の人権や教育によって子育てには金がかかり、5人以上も産むことはできなくなった。

昭和の中期以前は子供が家事や仕事の手伝いをするのは当然だったが、これも禁止したので一人当たりの養育費は高騰した。


1960年代までは「子供は産めばなんとかなる」社会だったが、以降は金がなくては子供を作れない社会に変わった。

貧乏人の子沢山という言葉があり、たくさん産んで一人でも立身出世した家族は貧乏から抜け出せたが、そういうサクセスストーリーもなくなった。

子供が多かった時代には、子供は働いたり近所の子供の世話をし、成人したら親の面倒を見るのが当然だったので、親には子供を育てる金銭的メリットがあり、愛情だけで育てたのではなかった。


現代では子供は親と別居して面倒を見ないのが当たり前になり、子供は「ただの負債」になってしまった。

戦後70年ずっと日本政府は、昭和初期に軍部が決めた人口抑制策を続け、人口がマイナスになった現在も続けています。

人口減少、少子化の犯人は誰かと言えば、それは他の誰でもなく日本政府自身でした。
http://www.thutmosev.com/archives/74335274.html  


▲△▽▼


朝鮮人が反日になった理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/706.html

間違いなく日本の朝鮮統治は全てが悪
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/500.html

日本の朝鮮統治は摂取と収奪の地獄だったとは歴史の捏造、朝鮮は一番、得をした。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/414.html

アホ?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/415.html

朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html

「特亜」以外のアジアは「親日」だという妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/733.html  

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コメント
1. 中川隆[-15535] koaQ7Jey 2021年11月06日 18:14:47 : qnSOkLpEXs : MEtMU3VFLjZpQXc=[20] 報告
敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者


2017-06-20
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427


敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]

 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

1946年の食糧危機
しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]

 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)
「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)
「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。

朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]

 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。
「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」
 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]

(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)
 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

お通しもの
平貝
胡瓜
ノリ
酢のもの
おでん
鮪刺身
焼物
から揚げ
御煮物
竹の子
フキ
このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]

 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

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