2022年08月08日 支那と米国は裏で繋がっているのかも?! / 戦前から続く赤い絆 http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html米支共通の敵だった日本 John Paton Davies center & Mao & ZhouPhilip Jaffe & Owen Lattimore & Agnes Smedley (左 : ジョン・デイヴィスと親しくなる周恩来と毛沢東 / 右 : 支那大陸に赴いたフィリップ・ヤッフェとオーエン・ラティモア) 日本の保守派言論人というのは、目の前の事件に振り回されるばかりで、世界政治を歴史的に鳥瞰することはない。つい最近、テレビや新聞では下院議長のナンシー・ペロシが台湾を訪問したことで、ちょっとした政治騒動になっていた。だが、大局的に観れば大したことじゃないだろう。一部の政治評論家やジャーナリストは、「台湾を巡って米支の熱い対決が起こるのでは?」と心配しているが、合衆国海軍が本腰を入れる大規模な軍事衝突にはならないだろう。おそらく“プロレス”のような“喧嘩”程度じゃないのか。 令和の小学生や中学生は知らないと思うが、1973年11月5日、「狂える虎」との異名を持つインド人レスラー、タイガー・ジェット・シンは、倍賞美津子と一緒のアントニオ猪木を新宿の伊勢丹前で発見し、猪木夫人に罵声を浴びせル暴挙に出た。猪木にライバル心を燃やすインド人レスラーは、いきなり猪木を襲撃したというが、両者の乱闘は警察沙汰にはならなかった。(良い子のみんなは、お爺ちゃんかお父さんに当時の話を訊いてね。昔は、夜9時台のテレ朝で放映されたほど大人気だった。ちなみに、報道番組のアンカーマンをしていた古舘伊知郎は、元々プロレス中継のアナウンサーであった。) たぶん、新宿の警察署も「ヤラセ」と判っていたのだろう。この喧嘩は無料のTV宣伝になったらしい。だいたい、街中で乱闘騒ぎを起こした「猛虎」が、宿泊先の京王プラザ・ホテルに帰ると、仔猫のように“おとなしかった”なんておかしいじゃないか。警官の方も馬鹿らしくなったと思う。そう言えば、シンは試合のリングに現れた時、いつも愛用のサーベルを持っていたけど、それを使って猪木や藤波辰巳、坂口征二を刺すことはなく、グリップの部分で叩くだけだった。試合の無い時は、猪木とシンは結構仲良しだったというから、日本のプロレスは微笑ましい。 脱線したので話を戻す。大東亜戦争の前から、日本は既に米国の仮想敵国だった。共産主義に好意的なフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)大統領は、西歐列強の支那進出くらいは容認できても、東洋の異国である日本が満洲支配を握り、支那大陸での権益を拡大する事には我慢がならなかった。彼が日本人を嫌い、銭ゲバの支那人を好んだのは祖父(Warren Delano)からの伝統だろう。(尚、デラノ家の闇歴史に関しては、「James Bradley, The China Mirage, New York : Little, Brown and Company, 2015」の第1章が詳しい。) Warren Delano 001Sara Delano & FDR 009932FDR 4432FDR & James Roosevelt & Sara ( 左 : ウォーレン・デラノ / サラ・デラノ / フランクリン・D・ローズヴェルト / 右 : 父のジェイムズと母のサラ、息子のフランクリン)
また、以前にも紹介したように、大富豪のロックフェラー家が財団を通して支那大陸に食指を伸ばしていた。つまり、4億ないし6億の人口を擁する支那は、涎(よだれ)が出るほどの巨大市場であったから、アメリカのエスタブリッシュメントは何としても支那を独占したかったようである。(註 : FDRの母親サラ・デラノはウォーレン・デラノで、フランクリンの祖父は「Russel & Company」に雇われた密輸業者であった。彼は冒険商人のように支那大陸で阿片貿易に携わっていたという。一時は財産を失ったものの、ウォーレンは香港で財産を築き、戦争省の医薬部局に阿片を納入していたそうだ。) ローズヴェルト政権は真珠湾攻撃を画策して大東亜戦争を引き起こしたが、「敵の敵は味方」ということで、合衆国政府は日本軍と対峙する国民党軍を支援した。重慶の蒋介石には二人の強力な参謀が附いており、その一人が支那・ビルマ・インド・ルートの戦線で総司令官を務めていたジョセフ・スティルウェル(Joseph Warren Stilwell)大将である。もう一人は「フライング・タイガース」を率いていたことで有名な陸軍航空隊のクレア・シェノールト(Claire Lee Chennault)少将であった。共産党に敗れた蒋介石と一緒に台湾へ逃れたシェノールト少将は、戦争終結を機に軍を退き、民間航空会社を創設する。そして、1946年、彼は最初の妻であるネル・トンプソン(Nell Thompson)と離婚した。ちょっとビックリするけど、二人の間には8人の子供ができていたというから凄い。これじゃ「猛虎」はなく「種馬」みたいだ。 Joseph Stilwell 1Joseph Stilwell 2Claire Lee Chennault 111 ( 左 : ジョセフ・スティルウェル / 中央 : 蒋介石と宋美齢と一緒のスティルウェル / 右 : クレア・シェノールト ) 英国系アメリカ人の妻と別れたシェノールト少将は、これまた鰥(やもめ)の中年男らしく、赴任先の支那で現地妻を娶ることにした。彼は「アンナ(Anna)」と呼ばれる陳香梅という支那人と再婚し、二人の子供をもうけた。(夫が54歳で妻は22歳。) この新妻は元々通信社に勤めるプロパガンダ記者であったが、やはり単なる平民じゃない。彼女は結構、裕福な家庭に生まれた御嬢様。「アンナ」の父親である陳應榮は外政官で、メキシコの領事をしていたらしい。上流階級の支那人は老獪で利益に目敏く、子供達には西歐の教育を授けたりする。彼も客家のように国際的であったから、娘を香港の学校に入れて英語を習わせることにした。ところが、西洋の勉強をしていた香梅は、日本軍の進撃によって香港を逃げ出す破目に。 Claire Lee Chennault 222Claire Lee Chennault 4435 ( 左 : 陳香梅とシェノールト少将 / 右 : 子供をもうけたシェノールト夫妻) 年の離れた亭主と結婚すれば、若い女房は早めの未亡人になりやすい。23歳も年上だったから、シェノールト少将は1958年に他界する。夫を亡くした陳香梅は、専業主婦で終わる気など更々無く、米国に移住してチャイナ・ロビーの活動家となった。如何にも在米の支那人らしいが、この通訳未亡人は、反共主義の共和党に目を附け、大統領候補になったバリー・ゴールドウォーターを支援すべく、彼の資金集めに奔走したそうだ。反共のユダヤ人と銭ゲバの支那人がタッグを組むなんてゾッとするが、冷戦時代には民族を超えたイデオロギーで異民族が結束することもあったし、狡猾な民族は共通の利益で悪党になることもある。 外国での諜報活動と謀略戦ともなれば、OSS(戦略情報局)や国務省の役人が黙っちゃいない。心理戦の尖兵となれば、モスクワ本店に忠誠を誓う赤レンジャーや桃レンジャーの出番となる。丁度、その頃、米国本土から軍事顧問団の『ディキシー・ミッション(Dixie Mission / U.S. Army Observatopn Group)』が延安に派遣されたので、OSSは身内の局員を米国代表団に潜り込ませようと謀った。派遣隊長となったのは陸軍のデイヴィッド・バーレット(David Dean Barrett) 大佐で、彼のもとには数名のOSS要員が送り込まれていた。その中でも卓越していたのは、国務省から選抜された「三人のジョン」と呼ばれた役人達だ。支那通のジョン・S・サーヴィス(John Stewart Service)に、同類のジョン・P・デイヴィス(John Paton Davies, Jr.)、そして日本通のジョン・K・エマソン(John Kenneth Emmerson)という面々である。 David Barrett & Chou 2232David Barrett & Mao (左 : デイヴィッド・バーレット大佐と若き周恩来 / 右 : バーレット大佐と若き毛沢東) 支那研究者の間で有名なジョン・サーヴィスは、1903年に四川省の成都で生まれた。支那で育ったから当然なんだけど、彼は7歳で支那語をマスターし、上海のアメリカン・スクールに通ったそうだ。15歳になるとアメリカへ帰国し、カルフォルニア州の高校を卒業する。進学先はオハイオ州にあるオーベリン大学であった。その後、外政官の試験に受かって、雲南省の昆明にある領事館に勤めたという。 5歳下のジョン・デイヴィスも四川省で生まれている。彼の両親はパプティスト教会の宣教師で、少年時代を支那の田舎で過ごした。アメリカ人の子供がいない僻地なら、現地語が上手になるのも当然だ。後に「チャイナ・ハンド」と呼ばれるデイヴィスは、米国のウィスコンシン大学に入るが、その途中で北京に赴き、燕京大学で1年ほど勉強したという。しかし、卒業したのは編入先のコロンゴア大学だった。まぁ、さすがに難解な漢字を使っての論文は書けまい。 John Stewart Service 222John Paton Davis 445John Kenneth Emmerson picture 01 (左 : ジョン・S・サーヴィス / 中央 : ジョン・P・デイヴィス / 右 : ジョン・K・エマソン ) 一方、日本語が達者なエマソンは、日本じゃなくコロラド州のキャノン・シテイー生まれ。学んだ大学もフランスのソルボンヌやコロラド、ニューヨークの大学だ。1932年に外政官の試験を受け、見事合格するが、不運なことに世界恐慌のせいで外政官の募集が無かった。しかし、1935年の秋、国務省から採用の知らせが届いたのでワシントンに赴くことに。だが、そこでは国内の勤務か異国での海外赴任かを迫られたそうだ。当時、国務省は東アジアの専門家を欲しがっていたので、支那語か日本語を選ぶ役人が求められていた。そこで、エマソンは日本語を選ぶ。英語とは似ても似つかない言語を選んだ動機には、ハリーという伯父の影響があったらしい。少年時代のエマソンは、伯父が持ち帰った極東の珍しい話や写真に興味を持ったそうだ。若くて希望に満ちたエマソンは、極東の日本で冒険的な生活をして見ようと思ったらしい。(ジョン・エマーソン『嵐のなかの外交官』宮地健次郎 訳、朝日新聞社、1979年、 pp.2-3.) ところが、エマソンは日本にやって来ると、いきなり「二・二六事件」に遭遇して当惑する。それから後に支那へと派遣され、対日工作の任務を命じられたそうだ。重慶から延安へ向かったエマソンが面会を求めたのは、「岡野進」という偽名を使っていた野坂参三である。令和の高校生だと野坂の名前を聞いても判らず、「誰それ? 吉本のお笑い藝人?」と尋ねてしまうが、この共産主義者はコミンテルン日本支部(俗に言う「日本共産党」)で第一書記となり、名誉議長にもなった大物だ。しかし、晩年になるとソ連のスパイだったことが発覚し、1992年に共産党から除名処分を受けてしまった。一部の知識人はもっと懐疑的で、「米国や支那のスパイも兼ねていたのでは?」と思われている。まぁ、野坂のような狡賢い奴なら、自分の利益を考えて二重・三重の裏切者になってももおかしくはない。 日本の敗戦後、ジョン・エマソンは再び日本へ派遣され、ダグラス・マッカーサー元帥の政治顧問となった。エマソンは支那大陸にいた時から、既に戦後処理の方針に着手していたそうだ。彼は重慶の頼家橋(らいかきょう)にいた鹿地亘(かじ・わたる)に会いに行き、「米国に協力する意思があるのか?」と尋ねた。というのも、鹿地はプロパガンダ作戦で使えそうな「駒」であったからだ。彼は治安維持法で検挙された共産党員であった。牢獄の中で思想転向したものの、その本質には変わりがなく、釈放後に武漢へ渡り、重慶で「日本人反戦同盟」を作っていたという。ただし、彼は「籠の中の鳥」状態。一応、鹿地研究室を与えられていたが、実質的には載笠(たいりゅう)による半隔離状態に陥っていた。 日本語を流暢に話すエマソンは、鹿地に向かって日本軍に対する宣伝工作を語り、その協力者になってはくれないか、と頼んだらしい。話を聞いた鹿地は納得したのか、「同じ目的なら協力を拒む理由はありません」と答えたそうだ。プロパガンダ作戦を担当するOSSの第三部門は、日本の文字で書かれた新聞を作りたかったようで、依頼に応じた鹿地は米国から派遣された日系人志願兵等と一緒に働いていた。しかし、米軍のキャノン機関とへ移された時、彼と米軍の相違が明らかになってきた。朝鮮戦争を迎えた米軍は、北鮮に対する後方攪乱を求めていたが、野望に燃えた鹿地は「祖国革命工作」に専念したかったようだ。(大森実『赤旗とGHQ』講談社、昭和56年、 p.47.) 後に、彼は自殺を図り、沖縄の知念に移された。晩年の鹿地は日本で執筆活動に励み、1982年に亡くなっている。 Kaji 002Kaji in ChinaNosaka 22324 (左 : 鹿地亘 / 中央 : 支那での鹿地 / 右 : 野坂参三 ) もう一人、エマソンが協力者にしたかったのは野坂参三である。エマソンは日本の天皇制をどうしたらいいのか、野坂に意見を求めたという。「日本革命の三段階論」を説いた野坂は、意外なことに、終戦に伴う天皇制の廃止に反対した。なぜなら、日本の人民はまだ、天皇制廃止に伴う心の準備ができていないからだ。野坂曰く、急激な天皇制打倒は得策ではないという。 しかし、野坂は無条件に天皇制を認めた訳じゃなく、標的に対するアプローチを述べていた。 (1) 天皇に代表権を全く持たせないこと。これは連合国側の直接軍政を意味し、天皇の全権能を停止すると共に、皇族を軟禁することを意味する。天皇の主権は否定しないが、事実上の植民地化にする。 (2) 天皇の代表権能は認めるが、天皇を軟禁状態にする。これは天皇の名を用いて軍政を進める方法だ。 (3) 天皇や皇族を軟禁し、連合軍の軍政下における責任を天皇に課す。(上掲書、 p.38.) 共産党の戦略を体現する野坂は、「天皇制廃絶」の方針に反対していたが、だからといって皇室を擁護したり温存する気持ちは微塵も無かった。コミュニストどもは表面上、「民衆政治と平和祈願」を口にするが、その本音は相も変わらず君主政の撲滅にある。ただ、日本国民の大多数が配線にもかかわらず天皇陛下を敬愛し、皇室の存続を熱望しているから、もし占領軍が無理矢理にでも廃絶しようとすれば、いつ何時、激昂した民衆が暴動を起こしてもおかしくはない。それなら、徐々に天皇の権能を削ぎ落とし、実権の無い「お飾り」にした方が悧巧である。野坂は「天皇制打倒」というスローガンを掲げることで、旧来の支配層を刺戟し、支配階級と庶民が再び天皇のもとで結束するんじゃないか、と恐れていた。 かつて会田雄次先生がぼやいたように、我が国は米国によって「嬲(なぶ)り殺し」の目に遭ってしまった。しかし、対日戦争は八月の停戦で終わらず、国民精神を改造するという静かな攻撃が続いていた。日本が永続的に米国の属州になるよう工作したのは、主に深紅やピンクの左翼分子であったけど、それを裏から操っていたのは、軍服を身に纏ったニューディーラーの一団であった。これはトルーマン政権の狙いなのか、それとも単なる嫌がらせなのか、日本に派遣された法律家や行政官の多くは、アメリカでも毛嫌いされるような劣悪な人物ばかり。つまり、アメリカで拒絶される左翼思想を日本で実現させたいと望む連中であった。これなら、日本人に対するロボトミー(脳内改造)が陰湿だったのも当然だ。 以前紹介したように、占領軍にはチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)やセオドア・コーエン(Theodore Cohen)とった赤いユダヤ人に加え、ローズヴェルト大統領に共感する革新派や人権派が数多く潜んでいた。仕置き憲法の中に結婚条項をネジ込んだベアテ・シロダ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)も、褌よりも赤い極左であった。彼女は戦前、日本に流れ込んだ根無し草のユダヤ人。これまた、ベアテの上司もゴリゴリの人権派で、ピーター・ロウスト(Pieter Kornelis Roest)中佐はネーデルラント出身の左翼リベラル派であった。 Charles Kades 3243Beate Sirota Gordon 66Pieter K Roest 99912Robert Guillain 001 ( 左 : チャールズ・ケーディス / ベアテ・シロダ・ゴードン /ピーター・ロウスト / 右 : ロベール・ギラン) 公式的には特定の思想に組みしていないと表明するエマソンも、本音ではニューディール政策の共鳴者で、米国共産党(CPUSA)に属していないが、共産主義に好意的なリベラル派であった。しかも、彼は日本国内の共産主義者達を釈放する方針に前向きなんだから、どんな人物なのか普通の国民でも解るだろう。在日フランスにも共産党に親近感を抱く左翼がいた。『ル・モンド(Le Monde)』から東京に派遣された記者、ロベール・ギラン(Robert Guillain)はエマソンよりも一足先に府中刑務所を訪れ、徳田や志賀と会っていた。ギランには後れを取ったが、エマソンも日本の悪党に興味を抱き、政治顧問となっていたジョン・サーヴィスやカナダ人外政官のハーバート・ノーマン(Egaeron Herbert Norman)を伴って府中刑務所を訪ねることにした。彼らは徳田球一や志賀義雄、そして朝鮮人の金天海と面会し、日本共産党の過去や未来について事情聴取を行ったそうだ。エマソンによれば、徳田と志賀は、訪れたコーエンを完全に「味方」だと思っていたらしい。やはり、隠れ共産主義者のユダヤ人には同類の臭いが漂っていたのだろう。 Herbert Norman 111(左 / ハーバート・ノーマン) ちなみに、このハーバート・ノーマンは限りなくコミュニストに近い人物であった。彼は軽井沢で生まれ、17歳くらいまで日本で過ごしていたから、日本語や日本人の生活に関して詳しかったようだ。その後はケンブリッジ大学やハーバード大学に入り、歴史学を勉強したそうだが、再び日本に戻ることになった。彼は東京にあるカナダ大使館に務めていたが、公務の傍らでちょいと東京帝國大学に立ち寄ることがあると、あの羽仁五郎を教師にして日本史を学んでいたという。しかも、その交際相手が凄い。例えば、マルキストの英文学者たる中野好夫、フランクフルト学派の政治学者になっていた丸山眞男、日本の國體を憎む憲法学者の鈴木安蔵などである。さらに、ノーマンの親友というのが、これまた凄く、左翼の巣窟たる一橋大学で経済学を教えていた都留重人。もう聞いただけで目眩がしそうになるが、ノーノマンは反共主義者のチャールズ・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)少将に目を附けられ、ジワジワと窮地に陥るようになった。1958年、ノーマンはソ連のスパイじゃないかと疑われ自殺を遂げる。こんな奴を持ち上げた加藤周一と工藤美代子は頭がおかしい。 我々日本人が第二次世界大戦を学ぶ時、必ず頭に浮かぶのは「自由主義を掲げるデモクラシー陣営vs独裁政治で世界征服を目論む全体主義陣営」という図式である。しかし、これは常識的に考えれば間違いだ。むしろ、「共産主義のソ連を守る英米vs共産主義と闘う独伊」といった構図にすれば解りやすい。米国は支那大陸でも共産党の味方で、ソ連軍や八路軍と戦う日本を打ちのめした。しかも、戦後はジョージ・ケナン(George F. Kennan)の「封じ込め政策」に従って、ソ連を攻撃せず、核大国になるよう見守っていた。もちろん、米軍の正常な将兵や本国の一般人は、共産主義なんておぞましくて、とても決して容認できない。ステイルウェル将軍達は仕方なく蒋介石を支援していたが、本音では毛沢東や周恩来といった共産主義者を味方にしたかったそうだ。 George Kennan 1133Philip Jaffe 324Frederick Vanderbilt Field 1121 ( 左 : ジョージ・ケナン / 中央 : フィリップ・ヤッフェ / 右 : フレデリック・ヴァンダービルト・フィールド ) 普通のアメリカ人とは違って、エマソンやサーヴィス、デイヴィスらは、毛沢東が民衆主義者に見えたようで、共産党への支援を本国の政府にそれとなく説いていた。それもそのはずで、彼らは思想的に共産主義のシンパ。特に、ジョン・サーヴィスは「アメラシア事件」でFBIに疑われた過去を持つから、この役人が国務省の赤い同志と連携していても不思議じゃない。この『アメラシア(Amerasia)』というは、ユダヤ人コミュニストのフィリップ・ヤッフェ(Philip Jacob Jaffe)とフレデリック・ヴァンダービルト・フィールド(Frederick Vanderbilt Field)が創刊した雑誌である。そして、これまたソ連贔屓のエドワード・カーター(Edward Clark Carter)が副主幹を務めており、共産主義者の巣窟となっていた。 ちなみに、このカーターは「太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations / IPR)」の研究者でもあった。また、ヤッフェの相棒となっていたフィールドは、アメリカの名門財閥であるヴァンダービルト家の出身者である。日本の赤い華族と同じで、フレデリックは共産主義に惹かれる上流階級のリムジン・リベラルであった。一方、ヤッフェはロシア帝國生まれのユダヤ移民の息子だ。1915年には「米国社会党(Socialist Party of America)」に入り、図々しくも彼は1923年にアメリカ国籍を取っていた。 Andrew Roth 77342(左 / アンドリュー・ロス ) 支那贔屓のジョン・サーヴィスが、ソ連贔屓のヤッフェと知り合ったのは、元IPR研究員だったアンドリュー・ロス(Andrew Roth)の仲介によるものだった。このロスはハンガリー系ユダヤ人の両親から生まれ、左翼の牙城であるコロンビア大学で東歐史と支那語を学んでいた。卒業後、彼は合衆国海軍諜報局の極東担当者になったが、その親ソ連的な思考は拭いがたく、反共主義者のFBIのエドガー・フーヴァー長官に怪しまれ、スパイ容疑を掛けられてしまう。だが、狡猾なロスはフーヴァー長官の嫌疑を掻い潜り、英国で活動するジャーナリストに鞍替えだ。彼は世界的に有名な主流メディア、例えば「ガーディアン」紙とか「インディペンデント」紙に寄稿していた。一般の日本人は気づかないが、歐米のマスコミには正体を隠すユダヤ人がウジャウジャいる。 戦後、OSSの局員が『アメラシア』のNY事務所をガサ入れし、編集部に連なるジョン・サーヴィスやアンドリュー・ロス、マーク・ゲインなどを検挙する快挙があった。検察側は容共色の強い『アメラシア』が、合衆国政府の内部資料や機密文書をソ連に流したんじゃないか、と疑っていたのだ。(M. Stanton Evans, Blacklisted By History : The Untold Story of Senator Joe McCarthy and His Fight Against America's Enemies, New York : Crown Forum, 2007, p. 113.) しかし、サーヴィスらは有罪とされず、起訴は証拠不充分で却下されてしまった。もし、ジョン・サーヴィスがソ連に通じる赤色スパイと判明したら、少なくとも国家機密をソ連に渡す人物ということでブラックリストに載っていたら、米国の対支那政策は違ったものになっていただろう。 Andrew Roth 8832Mark Gayn 546stanton Evans 222 ( 左 : ジャーナリストに転向したアンドリュー・ロス / 中央 : マーク・ゲイン / 右 : メドフォード・スタントン・エヴァンス ) ちなみに、『ニッポン日記』で有名なマーク・ゲイン(Mark Gayn)は、ユダヤ人の赤色ジャーナリストで、本名は「ジュリリアス・ギンズバーグ(Julius Ginsberg)」という。日本人読者層には、著者の素性に無徳着という人が多い。実際、ゲインの著書は知っていても、彼の血統を知っている者は少なかった。米国の左翼に関しては上記で紹介したメドフォード・スタントン・エヴァンス(Medford Stanton Evans)の本が詳しく、アメリカの政治思想に興味のある人は是非とも読むべきだ。 エヴァンスの著書は日本人にとっても非常に有益なんだが、なぜか大手の出版社から和訳されず、彼の経歴すらも紹介されることはない。彼はルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ(Ludwig von Mises)のもとで経済学を学び、保守派雑誌の『National Review』や『Human Events』に記事を投稿する知識人であった。彼は若い頃から保守的活動に勤しみ、「自由アメリカ青年(Young Americans for Freedom / YAF)」という政治サークルに属し、1970年代には「米国保守同盟(American Conservative Union)」の会長を務めていた。YAFの集会は、よくウィリアム・バックリー(William Buckley, Jr.)の家で開かれ、この団体には若き日(1960年代)のロナルド・レーガンも属していた。 Ludwig von Mises 002William Buckley 552Ronald Reagan 213Evans Carlson 213 (左 : ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ / ウィリアム・バックリー / ロナルド・レーガン / 右 : エヴァンス・カールソン) 脱線したので話を戻す。不思議なことに、アメリカは共産主義を「敵」と見なしていたのに、なぜか政府の対支那政策では蒋介石の国民党を見限り、毛沢東の共産党に支配権を譲っていたのだ。本来なら、重慶の国民党を支援し、劣勢にあった八路軍を叩くべきだろう。ところが、重慶にいるジョセフ・スティルウェル将軍や彼のスタッフ達は、国民党よりも共産党の方が優れていると述べていた。シェノールト少将によれば、将軍の取り巻き連中は大っぴらに共産党を褒め称えていた、というのだ。確かに、スティルウェルとジョン・デイヴィスは1938年以来の友人であったし、漢口にいた海兵隊のエヴァンス・カールソン(Evans Carlson)大尉も共産主義者に好意的であった。そして、ジョセフ・マッカーシー議員によれば、スティルウェルとカールソンは極東の戦争において、共産主義者から英雄扱いされていたそうだ。(ジョセフ・マッカーシー『共産中国はアメリカがつくった』本原俊裕 訳、成甲書房、2005年、p.121.) 確かに、合衆国政府へもたらされる支那情報というのは、支那大陸に派遣された国務省やOSSの赤色分子からの報告であったし、本国の省庁や大学にも共産主義のシンパが至る所に潜んでいた。支那やソ連の宣伝係となっていたのは、『大地の娘(Daughter of Earth)』や『支那赤軍の行進(China's Red Army Marches)』を執筆したジャーナリストのアグネス・スメドレー(Agnes Smedley)や、『支那の赤い星(Red Star Over China)』で有名になったエドガー・スノー(Edgar Snow)である。彼ら以前だと、支那で宣教活動をしていた作家のパール・バック(Pearl Buch)だ。彼女も支那人の本質を判っていながら、本国のアメリカ人を欺き、支那人に有利な偽情報を教会の仲間に送っていた。 Agnes Smedley 2324Edgar Snow 435Pearl Buch 111 (左 : アグネス・スメドレー / 中央 : エドガー・スノー / 右 : パール・バック ) アメリカの行政機構にも多くの赤色分子が跋扈しており、有名なのは国務省のアルジャー・ヒス(Alger Hiss)で、「米国共産党」に属していたというから呆れる。彼はソ連諜報機関(GRU)のエージェントになっていた。重慶の延安派には、ジョン・サーヴィスやジョン・エマーソン・ジョン・デイヴィスらに続いて、支那学者のジョン・フェアバンク(John King Fairbank)が加わることになった。こんな連中が「専門家」となっていれば、米国の支那政策が毛沢東に傾いても当然だ。このフェアバンク博士も容共主義者で、IPRと繋がる左派の知識人であった。こんな光景を目にすれば、誰だって「アメリカのチャイナ・ハンドは共産党の応援団なのか?」と言いたくなる。 Alger Hiss 9921John King Fairbank 001Joseph McCarthy 088 ( 左 : アルジャー・ヒス / 中央 : ジョン・フェアバンク / 右 : ジョセフ・マッカーシー) 日本ではアカデミック界の大御所みたいに扱われているが、フェアバンクはマッカーシー議員からも目を附けられ、共産主義者のエージェントではないかと疑われていた。(Leonard H. D. Gordon and Sidney Chang, 'John K. Fairbank and His Critics in the Republic of China', The Journal of Asian Studies, Vol. 30, Issue 1, 1970, p.139) さらに、このフェアバンクは支那の歴史や言語に関する知識も疑われており、漢字だって300語くらいしか読めないんじゃないか、と疑われている。(上掲論文、p.146.) 支那学の専門家として知られるオーエン・ラティモア(Owen Lattimore)も非公式の共産主義者で、これまたIPRの一味だった。国務省には他にも赤色分子がいて、ラティモアと繋がる外政官、ジョン・カーター・ヴィンセント(John Carter Vincent)も要注意人物だったが、それよりも深刻なのは、トルーマン政権で国務長官になったジョージ・マーシャル(George C. Marshall)将軍やディーン・アチソン(Dean G. Acheson)が容共主義の大御所であったことだ。特に、マッカーシー上院議員は支那を共産化したマーシャル長官を激しく批判していた。 Owen Lattimore 11John Carter Vincent 21George C Marshall 8832Dean Acheson 4 (左 : オーエン・ラティモア / ジョン・カーター・ヴィンセント / ジョージ・マーシャル / 右 : ディーン・アチソン ) 話を戻す。普通のアメリカ人なら到底信じられないが、ジョン・サーヴィスの現地報告書は明らかに“支那寄り”であった。毛沢東と会談したサーヴィスの見解を要約すると以下の通り。 (1) 支那と米国の人民は、共に民主的で個人主義的だ。両国民とも元来、平和を愛し、非攻撃的、非帝国主義的である。それゆえ、相互理解が可能である。 (2) 支那は経済発展を望むが、それを達成するための資金や技術を独自に調達できない。だから、アメリカには経済支援をしてもらいたいし、アメリカは支那の経済発展を助ける最も適した国家だ。将来、支那が重工業国家になっても、アメリカの競合国になることはないし、今のところ、支那は人民の生活水準を上げることに精一杯であるから、高度工業国家であるアメリカの敵になることはない。 (3) 支那人口の4億5千万のうち3億6千万人は農民だから、支那はこれからも長期間に亙って農業国であり続けるだろう。 (4) 国民党は人民の声を無視している。国民党は内戦の構想を持っており、それは国民党の自殺を意味する。米国は蒋介石の実態を解っていない。蒋介石は米国の力だけに頼っている。もし、アメリカがその支援を止めれば、人民からの支持が無い蒋介石は瀕死の状態隣、国民党は崩壊してしまうだろう。 (『赤旗とGHQ』pp.37-38.) こんな報告書はガセネタどころか、悪質な偽情報である。支那人が平和の愛好者なんて大笑いだ。もし、サーヴィスが「毒蝮は入れ歯だから危険じゃない」と言ったら、国務省のアメリカ人は彼を信じるのか? 旧約聖書の創世記ではヘビがイヴを唆したが、現実の世界では支那人がルシファー(悪魔)を手玉に取るくらいの詐欺師となっている。しかも、アメリカ人を歓迎する毛沢東は、インテリ風のマルクス・レーニン主義者ではなく、秦の始皇帝を何倍も残酷にした20世紀の独裁者でしかない。理知的な知識人に見えた周恩来だって、一皮剝けば伝統的な支那人の策士だ。周が温厚な紳士を演じていたのは、毛沢東の狂暴性を熟知していたからで、「この男だけには刃向かってはならない !」と解っていたのだろう。笑顔の毛主席が、急に冷酷な表情に変わった時の瞬間ほど恐ろしいものはない。 Mao Zedong 1111Zhou Enlai 88132Mao & Zhou 222 (左 : 支配者となった毛沢東 / 中央 : 主席の右腕となった周恩来 / 右 : 長征時代の毛と周 ) とにかく、ジョン・サーヴィスは明らかにアグネス・スメドレーやエドガー・スノーと同じ赤いムジナである。もちろん、アメリカの一般国民や正常な軍人は、共産主義の拡大に反対していたが、ローズヴェルト路線に共感するニューディーラーや財界の大御所、CFRのようなシンクタンクの知識人などは、密かに「赤い支那」を望んでいたのだろう。それゆえ、田中角栄や竹下亘たちが、せっせと日本の税金を北京に貢いでも、これといった折檻は無かったし、「お咎め無し」という処分が罷り通っていたのだ。 これはちょっと過去を振り返れば判るだろう。例えば、東芝はイチャモンとも思える「ココム違反」で袋叩きに遭った。本当に東芝の技術で、ソ連の潜水艦の音が消えたのか? 一方、田中派や創政会の連中は大っぴらに私腹を肥やし、加藤紘一や中曾根康弘も支那利権で幅を利かせていた。支那利権を巡っては米国でも同じで、民衆党や共和党の区別は無い。政治家のパトロンであるウォール街の旦那衆は、常に支那のマーケットを念頭に置いていた。ネルソン・ロックフェラーの子飼いであるヘンリー・キッシンジャーは毛沢東と密約を結んだし、実質的な「駐支那大使(Head of U.S. Liaison Office)」を務めていたジョージ・H・W・ブッシュも、将来性のある支那との関係を損ねないよう気を配っていた。だから、ブッシュ大統領は天安門事件の後、小姓の宮澤喜一首相を使って関係修復に努めたのだろう。徴兵逃れの宮澤が天皇陛下を江沢民に売り渡したのも、ワシントンからの「OK」サインがあったからだ。いきなりブッシュが訪問すれば、米国の世論が沸騰するから、属州の日本を使って事態の改善を図った方が「お得」という訳である。 Henry Kissinger & Zhou Enlai 223George Bush in China 111 (左 : 周恩来と ヘンリー・キッシンジャー / 右 : 支那に赴任したジョージ・H・W・ブッシュ夫妻 ) アメリカは形式上、共産主義国の支那と対立する。だが、テーブルの下ではしっかりと脚を絡めて愛情を確かめ合っている。たとえ、台湾周辺で軍事衝突が起こっても、それがエスカレートして大規模な戦争、あるいは核攻撃にまで発展することはない。たぶん、バイデン政権は台湾海峡で波を高くして日本人の恐怖心を煽り、高価な米国産兵器を売りつける魂胆なのかも知れない。とにかく、日本の保守派知識人は人民解放軍の侵掠に騒いでいるけど、案外これは米支共同のプロレス・イベントなのかも知れないぞ。 次回に続く。 http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html
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