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グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)
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投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 06 日 16:52:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 20世紀の作曲家 投稿者 中川隆 日時 2021 年 9 月 27 日 23:28:53)

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)

厭世的、世紀末的で、独特の時間感覚を感じる巨大な交響曲と、独特の絹の肌触りのような滑らかな音使いが特徴の歌曲を書いた。あまり品がいい音楽では無いし冗長さや支離滅裂さもあるが、音楽の可能性を遥かに大きく広げた。


交響曲・管弦楽曲

交響曲第1番ニ長調「巨人」
3.5点
1楽章の冒頭のフラジオレットが印象的。自然の描写など、メロディーや楽想に新鮮な魅力がある。2楽章は非常に分かりやすく、個性は発揮しているもののまだ普通の作曲家らしい印象。3楽章は有名な民謡を使い素朴な味を演出する曲。後のマーラーからは聞けない世界。4楽章は後年の多層性を連想する複雑な音の使い方など、多くの要素を盛り込み詰め込んだ野心的な力作。最後のトランペットによる英雄的なフレーズは心踊る。
全体に聞きやすく分かりやすく、メロディーがかなり魅力的。若々しい新鮮さも魅力。曲が短いので聞くのが楽など、いい点が沢山ある。まだ成熟しきっていない音の薄さやまとまりがあるが、むしろそれが青年らしい魅力になっている。冗長な部分はあるが、曲が長くないので苦にならず、集中力をもって聞ける。ただ、この次作からのお腹いっぱいになる感じはこの曲の場合は薄い。

交響曲第2番ハ短調「復活」- 独唱(ソプラノ、コントラルト)、合唱付
4.0点
単純で明快な和声と分かりやすい構成で、後年の複雑な音楽とはかなり異なる。叙情的でスケールの大きな音の絵巻物にゆったりと安心して浸れる。一方で単純ゆえの音楽の刺激の少なさや、4楽章の作り物っぽいわざとらしい大仕掛けには、まだ未熟という印象を持ってしまう面もある。とはいえ、瑞々しく下品でない叙情性と物語性と声楽の優秀さと最後の感動は大きな魅力がある。曲は長いが他の普通のロマン派に近い聞き方が出来る。

交響曲第3番ニ短調 - 独唱(コントラルト)、合唱、少年合唱付
4.0点
1楽章は30分オーバーの大作で、ブルックナー的な壮大さによる自由な自然賛歌。明るくて大らかで夢のように幻想的な、多くの素材がごった返す愉しい曲である。長いが聴きやすい。2楽章は1楽章と雰囲気が似ており、よりメルヘンチックで柔らかい。3楽章は薄暗くなった夜の精が戯れるのを連想させる遅めの曲。曲想は良いが間延びし過ぎ。4楽章はしっとりした歌曲で雰囲気がよい。5楽章はクリスマスみたいな小品。6楽章の前半の弦楽合奏は感動的でかなりの聞き物で非常に素晴らしい。後半はオルガン的な持続音の効果で感動的に盛り上げて締めくくる。非常に長い曲だが気力が充実している時に聴けばかなり楽しめる。全体に2番よりも精神も技術も成熟しており、明るい曲調なので気楽に聴ける。ただ、ここまで長いと1度に集中して聞くのはやはり困難。

交響曲第4番ト長調 - 独唱(ソプラノ)付
3.5点
1楽章は牧歌的でメルヘンチック。簡素な書法でたまに多義性を垣間見せるものの、全般に聞きやすい。2楽章のスケルツォは雰囲気は悪くないがインパクトに欠けるのであまり印象に残らない。3楽章の緩徐楽章は、美しくしなやかで、ゆったりした時間の流れの中で刻々と雰囲気が移り変わっていく様子が楽しい。夕焼けから夜に移っていく大自然のようなゆっくりとした時間である。4楽章は天上的な世界の不思議な雰囲気だが、交響曲の締めくくりとしてはあまり効果的でない気がする。全体に、楽曲の規模の小ささに比例ではなくそれ以下の小さな世界が構築されており、聞きやすいしインパクトに欠ける。前後の巨大な交響曲群は1つの映画のような規模感だが、この曲は映画をクライマックスを削除して半分位にまとめたイメージ。美しさなどこの曲独特の価値はあるのだが、3楽章以外は真骨頂が現れていると言いにくい。

交響曲第5番嬰ハ短調
4.0点
1楽章はマーラーには珍しい少ない動機の徹底的な展開でかなり分かりやすい。動機の提示もトランペットの独奏で分かりやすくて印象的。2楽章は1楽章をもう少し複雑でカオス的で闘争的な方向に持っていった曲で、複雑過ぎて印象はやや薄まるが、内容はかなり濃い。
3楽章はお得意のメルヘンチックな音楽で始まるが、刻々と雰囲気を変えていき、2楽章同様にやはりかなり内容が濃い。しかし冗長なので後半は聞いていて疲れてくる。4楽章のアダージェットは有名だが、世界が凍ったようにゆったりした時間と透明な水色のような透き通った世界は非常に素敵。このような世紀末的な破滅をはらんだ美しさをたたえた曲はそれまで無かったのではと思う。5楽章の牧歌的に始まり、対位法的な活気のある明るい陽のあたるような世界も素晴らしい。喜ばしい気分は心地よいものだが、長さのバランスを取るためか冗長な部分がある。
全体に、チャイコフスキーなどを連想するような、普通の後期ロマン派らしい音による説得方法を見せており、偏りが少なくバランスが良い。また、闘争から勝利へのテーマと流れが分かりやすい。肥大化した音楽ではあるが、まとまりは良い。多層性は、まだここぞという場面のみで出るため、効果的に使われている。聞きやすく内容も濃いので高く評価出来るが、一方で正統派過ぎるゆえに、他の大作曲家と比較して密度や偏りの点である種の物足りなさがある。また、隙間を埋めているだけのような冗長さを感じる場面があるのが残念。


交響曲第6番イ短調「悲劇的」
3.5点
1楽章は長いが緊密である。悲劇的で大仰な激しい起伏を楽しむ曲。2楽章のスケルツォ(3楽章と逆の場合も)は、トリオが聞きやすいのに不安定で、主部は1楽章同様に騒々しい。3楽章は牧歌的であり、中間の夜の世界や最後の盛り上がりは素敵。2楽章までの疲れを癒せる。4楽章は初めは素晴らしいのだが、段々わけの分からないカオスになる。全編の半分以上は混乱したカオスである。とはいえこの楽章が一番優れているだろう。最後はまさに悲劇的。全体に打楽器が活躍し、管楽器の使い方が激しくて、大変に騒々しい。音に説得力があり過ぎで疲れるし、気合いが入りすぎで大人げない。ただ、豊富な楽器数と大仰な劇的さを大作を通して貫いた創作意欲は敬服する。既存の管弦楽の限界を突き破ってる。間延びした部分は少なく、ギッシリと音を詰め込んでいる。音楽の多義的で多層的な音作りは7番ほどのやり過ぎにはまだ至っていないので、聞きにくくは無い。

交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
3.0点
1楽章はヒステリックな高音の弦楽やドンチャン騒ぎが耳につく。劇的な効果を狙っていると思われるが、不自然であり病的に聞こえる。2楽章も猥雑な音楽であり、マーラーが後期に向かって音楽の複雑性を増していく過渡的な作品との印象。3楽章は落ち着かないグロテスクで悪魔的なスケルツォ。間奏的な価値の曲。4楽章は室内楽的な響きの薄さで愛嬌がある。5楽章は突然の凱歌となり驚く。ノリが良く分かりやすい曲だが冗長。全体としては、まとまりが悪く気まぐれで猥雑であり、多層的で多義的な世界を突き進み過ぎである。良いメロディーや素晴らしい楽想は少なく、一つの作品としての完成度は低いと思う。

交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」 - 独唱(八声部)、2群の合唱、少年合唱付
3.5点
舞台一杯に並んだ大合唱団と巨大オケによる作品。1楽章は非常に分かりやすい曲。分かりやすいメロディーの大合唱とオーケストラで圧倒する曲。2楽章は非常に長く構成が複雑で、耳につくような分かりやすいメロディーがなく、1楽章との関連も分かりにくい難解な音楽となっている。


交響曲第9番ニ長調
5点
1楽章は冒頭から大変魅力的で素晴らしい。マーラーの管弦楽法や作曲技法の粋を尽くしている。多くの素材を交錯させて、繊細な織物のように作り上げたよる世にも美しい作品。たっぷりと時間を使って切々と別離と人生の邂逅や死を歌う、はかなく悲しく美しい曲。2楽章は、楽しいレントラーであり、悲しさを裏に秘めつつも、初期のマーラーに戻ったかのような素朴な美しさが良い。3楽章は多声的な落ち着かないスケルツォ。この名曲の中にあってはあまり完成度も高い感じではなく、ピリッとしたスパイスとなる間奏という印象。中間に突然泣けるフレーズが来るところがよいが。4楽章は長大なアダージョで、緊密に書かれており無駄は少ない。別離の悲しみに浸りきる事が出来る。
この曲は遅いテンポの1楽章と4楽章は主であり、どちらも別離の感情と死の予感に満ちているので、そのまま曲全体の印象となっている。崇高な特別感がある。特に1楽章が特別な名作である。6番7番での実験を通過して音楽が昇化し浄化され、シンプルな世界に戻っており無駄も少ないので、代表作らしい完成度に至ったと思う。初演されないままとなり、推敲を経なかったのが非常に残念である。


交響曲第10番嬰ヘ長調(未完成。デリック・クックらによる補作あり)
3.3点
長い1楽章は音が薄く、音楽の密度もあまり濃い印象が無い。退廃的で刹那的な雰囲気は好きだし美しさもあるが、1楽章についても演奏できるレベルに達しているというだけで完成作とは言えないと思う。


交響曲「大地の歌」イ短調 - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)
5.5点
1楽章は冒頭から激しく、かっこよくてノックアウトされる。ボーカルの激しさに心を揺さぶられる。2楽章のはかなさもよいが、3楽章がメルヘンチックでありながらアンニュイさがある絶妙さ。そして、なによりも最後の第6楽章の「告別」が大変素晴らしい。30分間という独唱曲としては大変な長編だが、別れの気分をゆったりと存分に歌を堪能してお腹一杯になれるという点では、クラシック音楽全体でも屈指だろう。この楽章はバーンスタイン指揮のフィッシャー・ディースカウが好きだ。何回聴いたことか。
1時間の大作だが、交響曲の中では唯一、全体を通して無駄が全く無い曲であり、完成度はもっとも高いと思う。

歌曲

カンタータ『嘆きの歌』 (Das klagende Lied,1878-80)
3.0点
マーラーの原点ともいえる作品だが、のちに何度も改作されている。あまり強く耳を捉えるような魅力は無いと思った。交響曲や歌曲の作品と比べると、編曲こそ立派だが、メロディーや楽想に個性が確立されていないし薄味で面白くない。40分とそこそこ長いわりには、内容が盛り沢山という感がない。ところどころにマーラーらしさの萌芽はあり、コアなファンならそれを楽しむことが出来るかもしれない。


歌曲集『若き日の歌』 (Lieder und Gesänge,1880-91) - 全3集14曲
歌曲集『さすらう若者の歌』 (Lieder eines fahrenden Gesellen,1883-85) - 全4曲
4.0点
4曲全てが描写力に優れた名曲である。マーラーの歌曲では大地の歌に並ぶのではと思われる。心を強く打つ旋律の良さと分かりやすさがあり、管弦楽の上に乗って独特の旋律で歌うマーラーの魅力が発揮されている。曲が短いため自由すぎない聴きやすさがある。一曲目の最初の切な旋律の場面がまず魅力的でそれが最後まで魅力を保ち続ける。何度でも聴きたくなる曲。

歌曲集『少年の魔法の角笛』 (Des Knaben Wunderhorn,1892-98) - 全12曲
3.0点
この曲集はマーラー独特の魔法がかかっていない。バラエティには飛んでいるし、オケはゴージャスではあるが、曲の魅力としてはごく普通である。耳は楽しませるが、心が動かない。安っぽくて下品という自分の苦手なマーラーになっている場面が大半の場面を占めている。このボリュームで期待させるものがあったのに残念だ。マーラーとしてはこちらも本線の一つなのかもしれないが。

リュッケルトの詩による5つの歌 (Rückert-Lieder,1901-03) - 全5曲
3.8点
3曲は短く小品レベルである。とはいえマーラーの世界が全開でとても楽しい。どの曲も魅力的でどっぷり浸かれるマーラー歌曲の世界。私はマーラーが得意ではないが、歌曲は文句なしによい。壮大さと、感情的な揺れ動きの揺さぶられる感じと、何か大きなものに包み込まれている感じがとにかく心地よい。心を曲に任せていられる。そして聴き終わったら、感動にまた聴きたくなってしまう。小品も中程度の長さの曲も変わらずそれぞれに魅力的。

歌曲集『亡き子をしのぶ歌』 (Kindertotenlieder,1901-04) - 全5曲
3.8点
濃密で爛熟感の強いロマン的曲集。悲しみの感情が大規模のオーケストラによる包み込むような伴奏と、たゆたうような歌唱が存分に表現している。5曲目までもなかなか高いレベルだが、最後の曲はかなり感動的である。不安に心を揺さぶったあとに、大交響曲の終わりに匹敵するするじわっとした感動とその余韻に包まれて終わり、もう一度聴きたくなる。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。


生涯

出生
1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。

夫妻の間には14人の子供が産まれている[注釈 1]。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し[1][注釈 2]第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという[2]。

父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた[3]。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた[4]。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した[5]。

母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄は良かったが心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった[6]」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた[7]。

ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている[8]。

成長と音楽家への歩み
本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる[9]。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏でピアノをいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという[10]。1869年(9歳)にイーグラウのギムナジウムに入学。10歳となった1870年10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。ただし曲目は不明である[11]。1871年(11歳)にはプラハのギムナジウムに移り[注釈 3]、この時期様々な文学にも親しんだ。1872年(12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った[12][注釈 4]。

1875年(15歳)、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んだ[13]。この年に弟エルンストが死去する。1876年(16歳)にはピアノ四重奏曲を作曲。またウィーン楽友協会音楽院でフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した[14]。1877年(17歳)、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』作曲。

指揮者・交響曲作曲家としての活躍
1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。

1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。

1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(ドイツ語版)(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。

1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。

12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか[15]」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。

夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。

晩年と死
1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。 1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月、再び渡米。

1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーやポール・デュカスと会う。8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。

9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。1911年2月(50歳)、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)![16][注釈 5]」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない[17][18]。


人物
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている[19][注釈 6]。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず[注釈 7]、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている[20][21][注釈 8]。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった[22]。しかし本人はあまり酒に強くなかった[23]。

アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき[24][25]、そのことについて後年までマーラーに感謝していた[26][注釈 9]。そのほか、オスカー・フリートやウィレム・メンゲルベルクなど当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでも非ユダヤ系のメンゲルベルクは、マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した[27]。

一方、マーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ[注釈 10]。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った[28]。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。

なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している[29]。

“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”
加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ[30]、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定している。

マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ[31]。

しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場している。以下がその一文である[32][33]。

“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”
指揮者として

マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。その代表的なカリカチュアである『超モダンな指揮者』(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルターによる証言)と変化した[34]。

マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったといわれ[35]、1892年1月にハンブルクでオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮した際は、同席した作曲者チャイコフスキーが友人への手紙で指揮者マーラーの才能を称賛している。

マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている[36][注釈 11]。もっとも、ロベルト・シューマンの『交響曲第2番』『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。

オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。

指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている[37]。

“全ての音の長さが正確に出せるなら、そのテンポは正しい”
“音が前後互いに重なり、フレーズが理解できなくなるとしたら、そのテンポは速過ぎる”
“識別できる極限のところがプレストの正しいテンポである。それを超えたらもはや無意味である”
“聴衆がアダージョについてこられない時は、テンポを速くするのではなく、逆に遅くせよ”
マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した[38]。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーはさくらを廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した[39]。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせの拍手やブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。

ブルックナーとの関係
ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。

17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている[40]。

ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが[41]、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している[42]。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している[43]。

シェーンベルクとの関係
マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。

彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モル(英語版)が男を押さえ込んだ[注釈 12]。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた[44][45]。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った[46][47][48]。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している[49]。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている[50]。

ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった[51]。

作風
マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である[52]。

“諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてこれらの主題は、リズムの性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーとの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”

マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。

楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた[53]。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)

歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。

多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり[54]、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された[55]。

現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにも関わらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている[56]。

“マーラーが偶像視されるようになったのは偶然ではない。演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう”


主要作品

交響曲・管弦楽曲

交響曲第1番ニ長調(1884-88) - ジャン・パウルの小説に由来する副題『巨人』は、最終的にマーラー自身により削除されている。
交響曲第2番ハ短調(1888-94) - 独唱(ソプラノ、アルト)と合唱を伴う。広く知られる副題『復活』は、マーラーによって付けられたものではない。
交響曲第3番ニ短調(1893-96) - 独唱(コントラルト)、合唱と少年合唱を伴う。
交響曲第4番ト長調(1899-1900) - 独唱(ソプラノ)付。独唱は終曲である第4楽章で歌われる。
交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02) - マーラー絶頂期の作品。
交響曲第6番イ短調(1903-04) - 広く知られる副題『悲劇的』は、マーラーによって付けられたものか不明。中間楽章の配置(演奏順)には、今なお議論がある。
交響曲第7番ホ短調(1904-05) - 第2、第4楽章『夜曲(Nachtmusik)』に由来する『夜の歌(Lied der Nacht)』という通称は、後世のものであり、マーラーおよび作品には無関係である[57]。
交響曲第8番変ホ長調(1906) - 独唱(各8声部)、2群の合唱、少年合唱付と大オーケストラのための。『千人の交響曲』という名でも知られるが、これは初演時の興行主であるエミール・グートマンが話題づくりのために付けたものであり、マーラー自身はこの呼び名を認めていない[58]。
交響曲イ短調『大地の歌』(1908) - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)付、最後の歌曲としての分類もある。
交響曲第9番ニ長調(1909)
交響曲第10番嬰ヘ長調(1910) - 未完成。デリック・クックらによる補作(完成版)あり。


声楽曲
カンタータ『嘆きの歌』(Das klagende Lied, 1878-80)
歌曲集『若き日の歌』(Lieder und Gesänge, 1880-91) - 全3集14曲
歌曲集『さすらう若者の歌』(Lieder eines fahrenden Gesellen, 1883-85) - 全4曲
歌曲集『少年の魔法の角笛』(Des Knaben Wunderhorn, 1892-98) - 全12曲
リュッケルトの詩による5つの歌(Rückert-Lieder, 1901-03) - 全5曲
歌曲集『亡き子をしのぶ歌』(Kindertotenlieder, 1901-04) - 全5曲


その他の作品
ピアノ四重奏曲断章 イ短調(1876) - ウィーン音楽院に在籍していた頃の室内楽曲。1973年に再発見されている。
交響的前奏曲ハ短調(1876頃) - 偽作とみなされることが多い。ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲も参照のこと。
交響詩『葬礼』(Todtenfeier, 1891) - 本来、交響曲第2番の第1楽章の初稿である。
花の章(Blumine, 1884-88) - 本来、交響曲第1番の第2楽章として作曲されたが、1896年の改訂で削除された。


オペラ
以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。

『シュヴァーベン侯エルンスト』(Herzog Ernst von Schwaben, 1875-78)
『アルゴー船の人々』(Die Argonauten, 1878-80)
『リューベツァール』(Rübezahl, 1879-83)


編曲作品
ウェーバー:オペラ『3人のピント』の補筆
原曲は1820年から21年にかけて作曲されたが未完成に終わったため、作曲者の孫にあたるカール・フォン・ウェーバーがマーラー(当時26歳)に補筆を依頼し、1887年に完成された。補筆版の初演は1888年にライプツィヒの市立歌劇場でマーラーの指揮により行われている。
ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調『ワーグナー』
1878年に原曲を4手ピアノ用に編曲したもの。
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』・第5番 ハ短調 作品67『運命』・第7番 イ長調 作品92・第9番 ニ短調 作品125『合唱付き』
交響曲第9番の第1楽章や第3楽章にトロンボーンを取り入れている。
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番『セリオーソ』
原曲を弦楽合奏版にしたもの。
シューベルト:交響曲第8番ハ長調『ザ・グレート』 D944
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』
原曲を弦楽合奏版にしたもの。
シューマン:交響曲全曲
近年ではリッカルド・シャイーがこの編曲版を全曲録音している。
J.S.バッハ:管弦楽組曲(1909年)
原曲の第2番と第3番のなかから5曲を選び、新しい組曲の形式へと編曲したもの。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC  

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コメント
1. 2021年10月06日 16:58:17 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[30] 報告
最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/190.html

グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html

グスタフ・マーラー 『大地の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/887.html

グスタフ・マーラー 交響曲第9番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/885.html

グスタフ・マーラー 交響曲第10番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/892.html

マーラー ピアノロールで自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/699.html


最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー 『交響曲 第1番 ニ長調 巨人』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/607.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『交響曲 第2番 ハ短調 復活』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/605.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『交響曲 第4番 ト長調』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/604.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『交響曲第6番 イ短調』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/603.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『フリードリヒ・リュッケルトによる5つの歌曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/610.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『さすらう若人の歌』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/609.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『亡き子をしのぶ歌』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/608.html

2. 2021年10月06日 17:01:20 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[32] 報告
アムステルダムでのマーラー作品演奏記録

メンゲルベルクが第4番を録音した1930年代は驚く数の上演をしており
第8番や第7番のようなものでも定期的に演奏会に載せていた。
ワルターも1933〜38年に客演しておりその中には3番の演奏も含まれている。


Amsterdam Royal Concertgebouw Orchestra (RCO) Mahler performances (1903-2017)
https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/amsterdam-royal-concertgebouw-orchestra-rco-mahler-performances/

メンゲルベルクのコメントは、彼の作品への感謝と賞賛からだけでなく、
彼の音楽との完全な一体性から生じたものであるため、
彼が非常に真剣に受け止めたものでした。
マーラーの作曲方法を理解していたため、メンゲルベルクはわずかな欠落や
欠陥を指摘することができました。
多くの場合、いくつかの小さな調整で解決できる問題。
さらに、マーラーの作業方法には、実際に音に不満がある場合に
スコアを変更することが含まれていました。彼はリハーサルのたびに変更を加え、
メンゲルベルクに直接渡しました。これらは偶発的な変更ではありません。

マーラーは、彼が指揮するスコアに何百もの音符と楽譜を書きました?
4番目には、1000以上ありました!

メンゲルベルクは、新しい提案で各改訂に対応します。
彼はマーラーの友達以上のものになりました。
彼は信頼できる相談役に成長しました。
(その他、第7番の自筆譜の贈呈などの記事あり)

https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/gustav-mahler-himself-in-amsterdam/
https://mahlerfoundation.org/wp-content/uploads/2015/01/mov1remarksmahlerandmengelberg500.jpg


210名無しの笛の踊り2021/03/07(日) 17:53:27.59ID:ddVbadUn

ワルターのアムステルダムでの巨人(1947)に微妙な食い違いに感じるのは
引退してまもないメンゲルベルクが託した奏法の書き込みを
必死に掻き消そうとあれこれテンポを動かそうとしてるとこだろうと思う。

というのも、マーラーは5〜8番について楽譜に書いていないアイディアを
手紙でメンゲルベルクに託すほど、緊密な仲にあったと言われ
ACOのパート譜には、メンゲルベルクの独自の見解も含め
多くの書き込みがしてあり、団員がそれを血肉のように消化していたからだ。

2楽章も中間を過ぎる頃になって、ワルターも諦めがついたのか
オケの自由に任せるようになって、歌い回しがこなれてきている。
最終楽章では、それが災いして統率を取らずに響きが乱れる。
(バイエルンではこうしたひねくれた態度を取らずキッチリ決めている)

クレンペラーも1951年に復活のアムステルダム客演を果たしているが
その堂々とした振舞いとは全く逆の態度のようにみえる。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1613632372/l50

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