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中国に新自由主義を継続させるため、CIAがMI5と手を組んで仕組んだ天安門事件
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202206030000/
2022.06.04 櫻井ジャーナル
この時期になると、西側の有力メディアは「天安門事件」を話題にする。1989年4月15日から6月4日まで新自由主義を支持する学生らが中国政府に対する抗議活動を行ったのだが、西側では最終日に軍隊が学生らに発砲して数百名を殺したと主張している。6月5日、広場から引き上げる戦車をクローズアップした写真を使い、「広場へ入ろうとする戦車を止める英雄」の話を作り上げてもいた。
しかし、その時に天安門広場で学生が虐殺されたという話を否定する西側のジャーナリストや外交官もいる。例えば、6月4日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場では誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
内部告発の支援活動をしているウィキリークスの公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官だったカルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけであり、群集への一斉射撃はなかったと話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)
実際、治安部隊との衝突で死傷者が出たのは広場から少し離れた場所で、相手は新自由主義に反対していた労働者が中心だったと言われている。この衝突では治安部隊員も殺害されている。
イギリスのデイリー・テレグラム紙によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと2009年に認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。(Malcolm Moore, “Wikileaks: no bloodshed inside Tiananmen Square, cables claim” The Daily Telegraph, 4 June 2011)
6月4日に天安門広場で学生が殺されたという話を流したひとりは抗議活動の指導グループに属していた吾爾開希。200名の学生が殺されたと主張しているのだが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていた。
北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
それに対し、西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信に書かれていたのを見たという話だが、これが事実なら死体の処理だけでも大変だっただろう。ドナルド大使は「信頼できる情報源」の話として伝えたのだが、その情報源が誰かは明らかにされていない。ただ、そのほかの虐殺話は学生の指導者から出ていた。
アメリカは軍事クーデターを仕掛ける時も労働組合などを使って抗議活動を演出する。こうした組織は幹部をコントロールできれば全体をコントロールできる。そうした工作を現地で指揮する人物はアメリカ大使館にいるのが通常だ。
1989年4月、中国駐在アメリカ大使としてジェームズ・リリーが赴任してきた。1951年にエール大学からCIA入りしたと言われている人物だが、大学時代にリクルートされた可能性が高い。この大学でCIAのリクルート担当はボート部のコーチだったアレン・ウォルツだと言われている。
リリーと同じ頃、ジョージ・H・W・ブッシュもエール大学の学生。父親のプレスコットがアレン・ダレスとウォール街仲間だったことは本ブログでも繰り返し書いてきた。大学ではウォルツと親しかったことでも知られ、ブッシュも大学時代にCIA入りした可能性が高い。
リリーは中国山東省の青島生まれで中国語は堪能。一方、ブッシュはカリブ海で活動した後、1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務めている。こうした背景があるためブッシュとリリーは親しく、1989年1月にアメリカ大統領となったブッシュは4月にリリーを中国駐在大使に据えたのである。ちなみにリリーの前任者であるウィンストン・ロードもエール大学の出身であり、いずれも学生時代にスカル・アンド・ボーンズに所属していた。
中国は1972年2月にアメリカと国交を正常化させている。リチャード・ニクソンが大統領だった時代の話だ。ニクソン訪中を実現するために裏で中国側と交渉していた人物は国家安全保障補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャーだ。交渉の過程でキッシンジャーは周恩来に対し、日本の核武装について話したという。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、アメリカと中国が友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したという。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)
1980年9月には新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが中国を訪問、同国でも新自由主義が浸透していくのだが、80年代の後半になると社会の歪みが深刻化、88年に実施した新自由主義的な「経済改革」は深刻なインフレを招き、社会は不安定化した。
中国政府は軌道修正を図るが、胡耀邦や趙紫陽を後ろ盾とするエリート学生は「改革」の継続を求めた。エリート学生は新自由主義で甘い汁が吸える立場にあったからだろう。学生たちは投機家のジョージ・ソロスともつながっていたが、学生の活動を指揮していたと見られているのはジーン・シャープだ。
しかし、学生の要求は認められず、労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正、胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任、89年4月に死亡した。その死を切っ掛けに天安門広場で大規模な抗議活動が始まり、5月に戒厳令が敷かれることになる。
天安門広場での抗議活動が沈静化した後、学生の指導者たちは「イエローバード作戦(黄雀行動)」と呼ばれる逃走ルートを使い、香港とフランスを経由してアメリカへ逃れた。このルートを運営していたのはアメリカのCIAとイギリスのMI6(SIS)だ。
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