http://www.asyura2.com/21/kokusai31/msg/688.html
Tweet |
ネオナチ、ネオコン、巨大資本に蹂躙されるウクライナ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202205140000/
2022.05.15 櫻井ジャーナル
ウクライナに住む人びとに対して残虐な行為を続けている親衛隊。その中心的な存在がアゾフ大隊である。2014年3月13日、右派セクターを基盤にして組織された。
その右派セクターは2013年11月、ビクトル・ヤヌコビッチ政権の政策に反発したドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーによって組織され、13年11月から14年2月にかけてのクーデターで主体になった。
クーデターを成功させた右派セクターは2014年5月2日にオデッサで反クーデター派の市民を虐殺、5月9日にはクーデター軍の戦車がマリウポリの市内へ突入、住民を殺している。
ウクライナのネオ・ナチはステパン・バンデラを信奉、OUN-B(バンデラ派)の流れをくむ。バンデラは1920年代からOUNの幹部だが、この組織は41年3月に分裂、バンデラ派はOUN-Bと呼ばれるようになった。その3カ月後にドイツはバルバロッサ作戦を始める。
このOUN・Bをイギリスの情報機関MI6のフィンランド支局長だったハリー・カーが雇う一方、バンデラの側近だったミコラ・レベドはクラクフにあったゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入った。第2次世界大戦後、バンデラはMI6に守られ、レベドはCIAのアレン・ダレスに保護された。
ところで、OUN-Bと関係が深いナチスはアメリカやイギリスの金融資本から資金の提供を受けていたことが明らかになっている。例えばディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなどの金融機関がそうした資金を流すパイプだった。
その経営陣にはジョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。
プレスコットが働いていたウォール街にはアレン・ダレスが弁護士として働いていた。そうしたことからふたりは親しくなる。プレスコットの息子、ジョージ・H・W・ブッシュは1976年1月から77年1月にかけてCIA長官を務めることになった。
ブラウン・ブラザース・ハリマンやユニオン・バンキングでプレスコットはW・アベレル・ハリマンと重役仲間だったが、このふたりはエール大学で学生結社のスカル・アンド・ボーンズに入っていた。ハリマンの弟子にあたる人物がジョー・バイデンである。
OUN-Bの戦闘員は1943年春にUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立、反ボルシェビキ戦線は1946年4月にABN(反ボルシェビキ国家連合)と呼ばれるようになり、バンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコが指揮するようになった。
東アジアで1954年に設立されたAPACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)とABNは1966年に合体してWACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)になるが、この組織はCIAと緊密な関係にあった。(Scott Anderson & Jon Lee Anderson, “Inside the League”, Dodd, Mead & Company, 1986)
OUN-Bの人脈はKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)を組織、スラワ・ステツコが指導者になった。この人物はバンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコの妻だ。1991年に西ドイツからウクライナへ帰国している。
1986年に死亡したヤロスラフを引き継いたスラワはOUN-Bの指導者になり、2003年に死ぬまでKUNを率いた。KUNの指導者グループに所属していたひとりにワシル・イワニシンなるドロボビチ教育大学の教授がいたが、その教え子のひとりがヤロシュ。イワニシンが2007年に死亡すると、ヤロシュが後継者になった。このタイミングでヤロシュはNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。
ウクライナでネオ・ナチを資金面から支えてきたのはシオニストの富豪であり、黒幕として動いているアメリカのネオコンもシオニストの一派だ。シオニストは第2次世界大戦の前、パレスチナへヨーロッパに住むユダヤ人を移送させるためにナチスと接触している。勿論、ユダヤ人自身はそうした場所へ移り住む意思はなく、ナチスがコミュニストなどと同じようにユダヤ人を弾圧し始めた後、逃げた先は主にアメリカやオーストラリアだ。
ところで、ネオコンの思想的な支柱と言われているレオ・ストラウスは1899年にドイツの熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれ、17歳の頃にウラジミール・ヤボチンスキーのシオニスト運動へ接近している。カルガリ大学のジャディア・ドゥルーリー教授に言わせると、ストラウスの思想は一種のエリート独裁主義で、「ユダヤ系ナチ」だ。(Shadia B. Drury, “Leo Strauss and the American Right”, St. Martin’s Press, 1997)
1932年にレオ・ストラウスはロックフェラー財団の奨学金でフランスへ渡り、中世のユダヤ教徒やイスラム哲学について学んだ後、プラトンやアリストテレスの研究を始めている(The Boston Globe, May 11, 2003)が、その段取りをしたのはカール・シュミット。1934年にストラウスはイギリスへ、37年にはアメリカへ渡ってコロンビア大学の特別研究員になり、44年にはアメリカの市民権を獲得、49年にはシカゴ大学の教授になった。
ストラウスと並ぶネオコンの支柱とされている人物が、やはりシカゴ大学の教授だったアルバート・ウォルステッター。冷戦時代、同教授はアメリカの専門家はソ連の軍事力を過小評価していると主張、アメリカは軍事力を増強するべきだとしていたが、その判断が間違っていたことはその後、明確になっている。
ネオコンのポール・ウィルフォウィッツは国防次官だった1992年2月にアメリカの国防総省はDPG草案という形で世界制覇プラン、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」を作成した。その時の国防長官はディック・チェイニーだ。
旧ソ連圏を乗っ取るだけでなく、EUや東アジアを潜在的なライバルと認識、叩くべきターゲットだとされた。支配力の源泉であるエネルギー資源を支配するため、中東での影響力を強めることも重要なテーマになる。1991年12月にソ連を消滅させることに成功、アメリカが唯一の超大国になったと認識してのプランだ。
しかし、アメリカ支配層の内部にも単独行動主義を危険だと考える人がいた。その中にはジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブレント・スコウクロフト国家安全保障補佐官、ジェームズ・ベーカー国務長官も含まれている。こうした勢力を沈黙させる出来事が引き起こされたのは2001年9月11日のことだった。
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。