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再びフランスとの関係が微妙になったNATO
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2022.02.10 櫻井ジャーナル
フランスのエマニュエル・マクロン大統領はモスクワでロシアのウラジミル・プーチン大統領と2月7日に会談、ウクライナ情勢などについて話し合ったようだ。
プーチン大統領は記者団に対し、ウクライナがNATOへ加盟し、クリミアの奪還を試みるなら戦争になると語ったが、マクロンによると、ロシアはウクライナ危機をエスカレートさせる意思はないと断言したという。アメリカがロシアの安全を脅かさない限り、軍事行動はありえないということだろう。
ロシアとフランスは1月26日、ウクライナやドイツとパリで会談、ウクライナをめぐる緊張を平和的に解決することで合意した。「ミンスク議定書」を尊重するということだが、そうした動きに関係なく、アメリカのジョー・バイデン政権は「ロシアが攻めてくる」と連呼している。
その会議から2日後、ウクライナのボロディミル・ゼレンスキー大統領は、ロシアの侵略が差し迫っているという間違った警告によってウクライナの経済は危険な状態になると主張、パニックを作り出そうとしないよう西側の記者に求めている。
この構図は世界各地で現れてきた。例えば、バラク・オバマ政権がリビアで体制転覆に成功した後、ジハード傭兵を中心とする戦闘員や兵器をシリアへ集中させ、シリアでの戦闘を強化しているが、その際、アメリカの手先になっていた戦闘員は住民を虐殺する。特にキリスト教徒が犠牲になっていたが、そうした人びとを守っていたのはシリア政府軍。その政府軍を西側の有力メディアは国民を虐殺していると宣伝していた。
そうした状況の中、2012年の前半、メルキト東方典礼カトリック教会の修道院長、フィリップ・トルニョル・クロがシリアへ入って実態を調査、その報告をローマ教皇庁の通信社が伝えている。本ブログでは繰り返し書いてきたが、再度、触れておきたい。
クロは、「もし全ての人が真実を語るならば、シリアに平和をもたらすことができる。1年にわたる戦闘の後、西側メディアの押しつける偽情報が描く情景は地上の真実と全く違っている」と報告していた。
虐殺しているのは外国から侵入したサラフィストの戦闘員で、資金や武器はカタールやサウジアラビアから得ているともしていたが、これは事実。その侵略にはアメリカ、イギリス、フランス、トルコなども加担していた。
2014年のクーデター以来、ウクライナの治安部門や軍はネオ・ナチやアメリカの影響下にあるが、ゼレンスキー内閣はアメリカの好戦的な宣伝を嫌がっている。国が滅びかねないからだろう。周辺国も危機感を持ち始めたようだ。
今回の件ではアメリカの手先としてNATO(北大西洋条約機構)という軍事同盟が動いている。1949年にアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクによって創設されたが、その際、すでに存在していた極秘のゲリラ戦部隊がNATOへ入り込む。
その極秘部隊は第2次世界大戦の終盤、ドイツの敗北が決定的になった後にレジスタンス対策としてアメリカとイギリスの情報機関が編成した「ジェドバラ」が母体になっている。この組織は大戦の終結で解散したことになっているが、人脈は消えない。戦後、その人脈が中心になってアメリカでは軍の特殊部隊や破壊工作機関OPCが組織される。OPCが中心になってCIAの破壊工作部門が作られた。
秘密部隊は全てのNATO加盟国に存在するが、特に有名な組織はイタリアのグラディオ。1960年代から80年代にかけてイタリア国内で「左翼過激派」を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターを計画していた。1990年にイタリア政府はその存在を公式に認めている。
フランスの秘密部隊も有名。1947年6月に社会党系の政権が誕生した際、アメリカとイギリスは秘密部隊を使って政権を不安化するために「青計画」を作成したという。これは内務大臣を務めていたエドアル・ドプの話だ。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)
1961年にはOAS(秘密軍事機構)が組織される。この軍事機構はアルジェリアの独立を認めようとするシャルル・ド・ゴールに反発する軍人らによって構成され、フランスの情報機関SDECEや第11ショック・パラシュート大隊と結びついていた。この組織の背後にもアメリカやイギリスの情報機関が存在していた。
この秘密組織はアルジェリアの主要都市、アルジェ、オラン、そしてコンスタンチンの支配を宣言した後でパリを制圧しようと計画、1961年4月22日にクーデターは実行に移されるが、その直前、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じている。CIAとアメリカ軍が戦うことになりかねない状況になった。そこでクーデターは4日間で崩壊してしまう。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
フランスでクーデターが失敗に終わった後、ド・ゴール大統領はSDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。クーデター失敗後もOASはアルジェリアの政府要人を暗殺したほか爆破事件を繰り返し、イスラム教徒を殺害、銀行を襲撃するなど暴走状態になるが、1962年1月にOASの幹部が逮捕され、その5カ月後にOASは休戦を宣言する。(Henrik Kruger, “The Great Heroin Coup (2nd),” Trine Day, 2015)
この宣言に従わなかったのがジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐に率いられた一派。その年の8月22日にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試みて失敗、暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン-チリー大佐だけだったという。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)
ド・ゴールを助けたケネディ大統領は1963年11月にテキサス州のダラスで暗殺されてる。その3年後、ド・ゴール大統領はフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出した。
NATOとはそうした組織である。つまりソ連の侵略に備えるという大義名分は嘘八百。実際はアメリカやイギリスの私的権力がヨーロッパを支配する仕組みに他ならず、その先には世界を完全に制覇しようという野望がある。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年、完全復帰したのは2009年だ。今後、その関係がどうなるかはわからない。
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