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ドイツの海軍総監にもナンセンスと言われる話を宣伝、軍事的緊張を高める好戦派
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202201250000/
2022.01.25 櫻井ジャーナル
ドイツ海軍の海軍総監だったケイ-アヒム・シェーンバッハ中将は1月22日に辞任を申し出た。ロシア軍がウクライナへ軍事侵攻しようとしているとする話は「ナンセンス」であり、ウクライナがクリミアを取り戻すことは不可能だと21日にニューデリーのシンクタンクで語ったのだが、これが問題にされたという。この発言は常識的なものだが、こうした常識的な発言を許さない雰囲気が西側では広がっている。
そうした雰囲気を作り出してきたのはアメリカ、イギリス、NATOの好戦的な支配グループであり、その宣伝をしているのが有力メディアだ。このグループはロシアや中国を恫喝してきたが、屈服させることはできていない。今も兵器を運び込み、ウクライナ兵を訓練、ロシア周辺で軍事演習を実施するなど挑発を続けている。追い詰められた鼠のような状態とも言えるだろう。
恫喝しながらロシアの隣国であるウクライナまで軍事的な支配地を拡大させようとしているが、ロシア政府は自国の安全を脅かす行為だと抗議、保証する文書を作成するように求めている。ウラジミル・プーチン露大統領は「戦争を望まないが、戦争したいなら受けて立つ」という姿勢だ。
ロシア政府はこれ以上恫喝に付き合っていられないという意志を鮮明にしはじめた。アメリカのウェンディ・シャーマン国務副長官らは1月10日にジュネーブでロシアのセルゲイ・リャブコフ外務次官らと会談したが具体的な進展はなく、ロシア側から交渉を再開する理由が見つからないと言われた。
EUの外務安全保障政策上級代表を務めるジョセップ・ボレルは自分たちの行うことにロシアは口をはさむなと脅し、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務局長はウクライナをめぐり、NATOはロシアとの軍事衝突に備えなけらばならないと発言。それに対し、1月18日にドイツのアンナレーナ・ベアボック外相はモスクワでロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を会談している。事態の沈静化を図ったのかもしれないが、今後のことはアメリカ政府次第だと言われたという。
現在の状況を作り出したのは19世紀のイギリスであり、同じアングロ・サクソン系のアメリカが引き継いできた。その戦略をまとめたのが地政学の父とも言われるハルフォード・マッキンダーで、彼は大陸を締め上げる「三日月帯」の西端をイギリス、東端を日本に設定。中東でイギリスは帯の上にサウジアラビアとイスラエルを作り上げた。
イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルは第2次世界大戦でドイツが降伏した直後、日本が降伏する前にソ連への奇襲攻撃を目的とする「アンシンカブル作戦」を立てた。1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるという内容だったが、参謀本部が拒否してため、実行されなかったという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)
1945年7月26日にチャーチルは首相の座を降りるが、その10日前にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可、広島と長崎に落とされた。
核兵器の開発はハンガリー出身のふたりの物理学者、レオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナーが草稿を書いたアルバート・アインシュタイン名義の勧告書がフランクリン・ルーズベルト米大統領へ送られた1939年8月から始まると言われている。
1940年2月にイギリスではバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの案に基づいてMAUD委員会が設立され、その委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会い、同年10月にフランクリン・ルーズベルト米大統領は計画を許可してアメリカとイギリスの共同開発が始まった。これが「マンハッタン計画」だ。
この原爆開発計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。その目的はドイツの脅威に対抗するためでも日本の降伏を早めるためでもなかったということだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
大戦が終わった翌年、1946年3月にアメリカのフルトンでチャーチルは「鉄のカーテン演説」を行った。バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステに至る「鉄のカーテン」が存在しているというのだ。FBIの文書によると、チャーチルは1947年、アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようトルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
ソ連を核兵器で壊滅させたいというチャーチルの思いはその後も消えず、彼は1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していた。このことを示す文書が発見されている。その半年後にチャーチルは首相へ返り咲く。
チャーチルの父親はロスチャイルド家に膨大な借金があり、ウィンストンも金銭的に縛られていた。チャーチルの言動にはそうした背景がある。ロスチャイルド家はイギリスを含む国々で大きな影響力を持っていたが、その一員であるネイサン・ロスチャイルドはエリザベス1世の時代にセシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・バリオル・ブレットたちと政策を決定する力を持っていた。
ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物。1877年には「信仰告白」を書き、その中で彼はアングロ・サクソンを世界で最も高貴な人種だと表現、その人種が支配地域を広げることは義務だとしていた。
こうした優生学的な考え方でまとまったグループも存在した。トーマス・ハクスリーが1864年にイギリスで創設した「Xクラブ」だ。そのメンバーには支配階級の優越性を主張する社会ダーウィン主義を提唱したハーバート・スペンサー、チャールズ・ダーウィンの親友だったジョセフ・フッカー、このダーウィンのいとこであるジョン・ラボックも含まれていた。
マッキンダーの理論はこうしたグループが考え出したもので、それは1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけての第2次アヘン戦争(アロー戦争)、そして明治維新にもつながる。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその戦略に基づいていた。
1995年2月にジョセイフ・ナイが「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表して以来、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれたが、それはマッキンダーの戦略に日本も従うことを意味する。アメリカやイギリスと共通の価値観を持つとはそういうことでもある。
マッキンダーがまとめた戦略の最終目標はロシアを制圧して覇権を握ること。ウクライナを含む中央ヨーロッパを支配することはロシアを制圧して長期戦略を実現するための重要なステップだ。ロシア側もこうしたことを理解している。
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