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1945年8月に広島と長崎へアメリカが投下した原爆はソ連との開戦を告げる合図
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2021.08.03 櫻井ジャーナル
アメリカ軍は1945年8月に2発の原子爆弾を日本へ投下した。まず6日に広島でウラニウム235を使った爆弾を使い、9日には長崎でプルトニウム239を使った。原爆が投下されてから最初の2カ月から4カ月までの間に広島では9万から16万6000人、長崎は6万から8万人が死亡したと推定されている。
ハンガリー出身のふたりの物理学者、レオ・シラードとユージン・ポール・ウィグナーが草稿を書いたアルバート・アインシュタイン名義の勧告書が1939年8月にフランクリン・ルーズベルト米大統領へ送られ、40年2月にイギリスではバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてMAUD委員会が設立された。
その委員会のマーク・オリファントが1941年8月にアメリカでアーネスト・ローレンスと会い、同年10月にフランクリン・ルーズベルト米大統領は計画を許可してアメリカとイギリスの共同開発が始まる。これがマンハッタン計画だ。
この原爆開発計画を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。言うまでもなく、日本の降伏を早めることが目的だったとする話は信用するに足らない。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
1945年4月にルーズベルト大統領は急死、その翌月にドイツは降伏、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を目論む。そしてJPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令、「アンシンカブル作戦」ができあがった。
その作戦によると、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)
アメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ(三位一体)実験場では1945年7月16日にプルトニウム原爆の爆発実験を行って成功、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可する。そして広島と長崎に落とされた。
チャーチルがソ連を攻撃しようとしたのは、ドイツ軍がソ連軍に負けたからである。そのドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃、バルバロッサ作戦をスタートさせている。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。
大規模な軍事作戦で、その準備に半年から1年程度は必要だっただろう。1940年9月から41年5月までドイツ軍はイギリスを空爆している。
ドイツ軍は1941年7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたというが、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。
ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的で、日本の負けは決まった。
この敗北に慌てたイギリスはアメリカとその年の5月に協議、両国軍は1943年7月にシチリア島へ上陸している。シチリア島でもコミュニストが住民に支持されていたため、アメリカ軍はコミュニスト対策として犯罪組織と手を組んだ。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。
スターリングラードでの戦い以降、ナチスの幹部はアメリカの戦時情報機関OSSの幹部としてスイスにいたウォール街の弁護士、アレン・ダレスと接触して善後策を協議している。これはルーズベルト大統領に無断だった。
その後、ダレスたちはナチスの元高官や協力者をラテン・アメリカへ逃がすためにラットラインを作り、大戦が終わると国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇い入れる。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。そもそもナチスを資金面から支えていたのイギリスやアメリカの巨大金融資本、つまりシティやウォール街だ。
一方、日本はポツダム宣言の受諾を8月9日の「御前会議」で決定、その旨を翌日に連合国側へ打電している。そして8月15日に天皇の声明が日本人に対して発表された。「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれているものだ。
チャーチルは1945年7月に下野するが、46年3月にはアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたる「鉄のカーテン」が存在していると語ったのだ。
FBIの文書によると、チャーチルは1947年、アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようトルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
ソ連を核兵器で壊滅させたいというチャーチルの思いはその後も消えず、彼は1951年4月に自宅でニューヨーク・タイムズ紙のジェネラル・マネージャーだったジュリアス・アドラーに対し、ソ連に最後通牒を突きつけ、それを拒否したなら20から30発の原爆をソ連の都市に落とすと脅そうと考えていると話していた。このことを示す文書が発見されている。その半年後にチャーチルは首相へ返り咲く。
アメリカにも核攻撃を望む人がいた。例えば1945年8月末にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)
1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告には、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと書かれている。1952年11月には初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てる。
1957年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだのはそのためである。その基地は中国やソ連を攻撃するためのものであり、核兵器が持ち込まれるのは必然だった。勿論、「核の傘」ではなく、「核の槍」だ。そこに駐留するアメリカの海兵隊は「殴り込み」が目的だ。
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、アメリカの先制核攻撃は1963年後半に実行されることになっていたが、大きな障害が存在していた。ソ連との平和共存を訴えていたジョン・F・ケネディ大統領だ。そのケネディは1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺される。それを口実にしてソ連との戦争を始めようという動きがあったが、これは挫折した。
そして今、アメリカの私的権力は支配者であり続けるため、ロシアと中国を屈服させようとしている。経済戦争をしかけ、軍事的に恫喝しているのだが、効果はないようだ。恫喝をエスカレートさせていくと、どこかの時点で開戦になる可能性があるが、その戦争では核兵器が使われるかもしれない。そうした事態になれば、日本はアメリカの先兵にさせられるだろう。そのための準備が進められている。
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