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ロシア大統領もトルコ大統領もパレスチナ問題から距離を置く事情
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105160000/
2021.05.16 ■櫻井ジャーナル
アメリカでジョー・バイデン政権が誕生して以来、イスラエルの行動は過激度を高めている。東エルサレムではイスラエルの治安部隊によるパレスチナ人に対する暴力的な弾圧が繰り広げられ、アル・アクサ・モスクが襲撃された。ガザではイスラエル軍が高層住宅を破壊、その直後から3日間にハマスはガザから1500発以上のミサイルをテル・アビブに向けて発射、テル・アビブの南東にあるロドでは非常事態が宣言されている。
そうした中、3月12日にロシアのウラジミル・プーチン大統領とトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領が電話で会談、パレスチナ情勢がさらに悪化しないよう、国連が決議した「2国家解決案」に従って自体のさらなる悪化を防ぐべきだということで意見が一致したという。
イスラエルと共存するパレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区で構成され、首都は東エルサレムとされている。その東エルサレムをイスラエルは制圧しようとしているわけだ。すでに「ユダヤ人」の入植でヨルダン川西岸は浸食され、「2国家解決案」の基盤は崩壊しているが、東エルサレムの制圧は「止めを刺す」行為だと言えるかもしれない。
イスラエルの建国が宣言されたのは1948年5月14日のことだが、そこには多くのアラブ系住民が住んでいた。「パレスチナ人」と呼ばれる人びとだ。その住民を追い出すため、シオニストの武装勢力は4月上旬に「ダーレット作戦」を始めている。これは1936年から39年にかけてシオニストがアラブ系住民を殲滅する作戦を展開した作戦の延長線上にあるとも見られている。
シオニストの軍隊、ハガナの副官だったイェシュルン・シフがエルサレムでイルグンのモルデチャイ・ラーナンとスターン・ギャングのヨシュア・ゼイトラーに会ったのは4月6日。イルグンもスターン・ギャングもシオニストのテロ組織だ。
その3日後にイルグンとスターン・ギャングはデイル・ヤシンという村を襲撃、住民を虐殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字の人物によると、254名が殺され、そのうち145名が女性で、そのうち35名は妊婦だった。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
こうした虐殺に怯えた少なからぬ住民は逃げ出した。約140万人いたアラブ系住民のうち、5月だけで42万人以上がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ移住、その後1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。国際連合は1948年12月11日に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。そしてイスラエルの建国が宣言された。
しかし、シオニストは「建国」の際、予定していた地域を全て占領することができなかったと言われている。そして1967年6月5日に第3次中東戦争が始まる。
この年の3月から4月にかけてイスラエルはゴラン高原のシリア領にトラクターを入れて土を掘り起こし始めて挑発、シリアが威嚇射撃するとイスラエルは装甲板を取り付けたトラクターを持ち出し、シリアは迫撃砲や重火器を使うというようにエスカレートしていった。この時にイスラエルはシリアに対し、イスラエルに敵対的な行動を起こさなければイスラエルとエジプトが戦争になってもイスラエルはシリアに対して軍事侵攻しないと約束していたとされている。
軍事的な緊張が高まったことからエジプトは1967年5月15日に緊急事態を宣言、部隊をシナイ半島へ入れた。5月20日にはイスラエル軍の戦車がシナイ半島の前線地帯に現れたとする報道が流れ、エジプトは予備軍に動員令を出す。そして22日にナセル大統領はアカバ湾の封鎖を宣言した。
イスラエルはこの封鎖を「イスラエルに対する侵略行為」だと主張、イスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官が5月30日にアメリカを訪問、リンドン・ジョンソン米大統領に開戦を承諾させた。そして6月5日にイスラエル軍はエジプトに対して空爆を開始、第3次中東戦争が勃発したわけだ。
戦争が勃発した4日後にアメリカは情報収集船のリバティを地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣するが、そのリバティをイスラエル軍は8日に攻撃している。偵察機を飛ばしてアメリカの艦船だということを確認した後の攻撃だった。ロケット弾やナパーム弾が使われているが、これは船の乗員を皆殺しにするつもりだったことを示している。
それに対し、リバティの通信兵は壊された設備を何とか修理、アメリカ海軍の第6艦隊に遭難信号を発信するが、それをイスラエル軍はジャミングで妨害している。
遭難信号を受信した空母サラトガの甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあった。艦長はその戦闘機を離陸させたが、その報告を聞いたロバート・マクナマラ国防長官は戦闘機をすぐに引き返させるように命令している。
その後、ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、しばらくして空母サラトガと空母アメリカは8機の戦闘機をリバティに向けて発進させた。
この戦争で圧勝したイスラエル軍はガザ、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を占領している。ゴラン高原の西側3分の2は今でもイスラエルが不法占拠している。勿論、イスラエルはそうした占領地を返すつもりはない。残りの地域を制圧する作戦を進めているのだ。
イスラエルは「建国」以来、ユーフラテス川とナイル川で挟まれている地域を支配するという「大イスラエル」計画を捨てていない。アメリカ、イスラエル、サウジアラビアが中心になり、2011年3月に始められたシリアへの侵略戦争で、イギリスとフランスが「サイクス・ピコ協定」の亡霊に取り憑かれていることもわかった。こうした国の支配者はパレスチナ人の人権など考えていないだろう。
サイクス・ピコ協定とは1916年5月、秘密裏にイギリスとフランスが中東を分け合う目的で結んだもので、後に帝政ロシアも協定に同意している。話し合いはフランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスによって行われた。
協定が結ばれた当時、中東を支配していたオスマン帝国を乗っ取ろうというような話。大雑把に言って、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスが支配、フランスはトルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンを支配下に置くとされた。
協定が結ばれた翌月、「アラブの反乱」が始まる。その「反乱」で中心的な役割を果たしたのはデイビッド・ホガースを局長とするイギリス外務省アラブ局。そこにはマーク・サイクスやトーマス・ローレンスもいた。一般に「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。
この段階ではすでにイギリスの支配層はユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部、つまり中国(清)やロシアを締め上げるという長期戦略を立てていた。この戦略を可能にしたのは1869年に完成したスエズ運河だと言えるだろう。1875年に運河はイギリス系企業の所有になる。
イギリスは第1次世界大戦の際、ウィリアム・シェークスピアというエージェントを後のサウジアラビア国王、イブン・サウドに接触させている。このエージェントは1915年1月に戦死、ジョン・フィルビーが引き継ぐ。この頃、イギリスはイブン・サウドとライバル関係にあったフセイン・イブン・アリを重要視するようになり、ローレンスもイブン・アリを支援する。
このイブン・アリは1915年7月から16年1月にかけてイギリスのエジプト駐在高等弁務官だったヘンリー・マクマホンと書簡のやりとりをしている。その中で、イギリスはアラブ人居住地の独立を支持すると約束した。いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だ。
イブン・アリは1916年、アラビア半島西岸にヒジャーズ王国を建国した。1924年にカリフ(イスラム共同体を統合する指導者)を名乗るものの、イスラム世界から反発を受けてしまい、追い出される一因になった。ヒジャーズ王国は1931年にナジェドと連合、32年にはサウジアラビアと呼ばれるようになる。
その一方、1917年にはイギリスのアーサー・バルフォア外相がロスチャイルド卿宛ての書簡で、「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。この書簡を実際に書いたのはアルフレッド・ミルナーだ。その延長線上にイスラエルの建国はある。
ミルナーはイギリスのシンクタンク、RIIA(王立国際問題研究所)を創設した人物で、「ミルナー幼稚園」や「円卓グループ」は彼を中心に組織されたという。ミルナーの前にイギリスをコントロールしていたメンバーはネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・バリオル・ブレットたちだ。
サウジアラビアとイスラエルはイギリスの長期戦略に基づいて作り出されたが、その戦略で想定された大陸周辺の三日月帯の東端が日本列島である。
そこでは19世紀後半にイギリスを後ろ盾とするクーデターがあり、「明治体制」が成立、新体制は琉球を併合、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、そして日清戦争、日露戦争へと進んだ。大陸の国を締め上げていったわけだ。
ところで、イスラエルはフランス、イギリス、アメリカなどの富豪から支援を受けて核兵器を保有している。核兵器を製造している場所は砂漠地帯であるネゲブにあるディモナ。ここで1977年から約8年にわたって技術者として働いていたモルデカイ・バヌヌによると、イスラエルが保有している核弾頭の数は200発以上。イツハーク・シャミール首相の特別情報顧問を務めたこともあるアリ・ベン・メナシェによると、1981年にイスラエルはインド洋で水素爆弾の実験を成功させたが、その時点で同国がサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上だった。バヌヌは中性子爆弾も製造していたとしている。
ネゲブ地方でイスラエルが地質調査を始めたのは1949年。1952年にはIAEC(イスラエル原子力委員会)が創設された。核開発の開始だ。
このプロジェクトで重要な役割を果たしたひとりがフランスのCEA(原子力代替エネルギー委員会)で1951年から70年まで委員長を務めたフランシス・ペリン。1956年にはシモン・ペレスがフランスでシャルル・ド・ゴールと会談し、フランスは24メガワットの原子炉を提供することになった。
また、イスラエルの核兵器開発には欧米の富豪、例えばフランスを拠点とするエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアメリカのアブラハム・フェインバーグが資金を提供していたと言われている。フェインバーグはハリー・トルーマンやリンドン・ジョンソンのスポンサーとしても知られている。
1958年にCIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ち、CIAの画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。
コラムニストのチャールズ・バートレットによると、フェインバーグは1960年の大統領選でジョン・F・ケネディに対し、中東の政策を任せてくれるなら資金を提供すると持ちかけている。その提案をケネディは呑んだとされている。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” 1991, Random House)
ところが、ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディは送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告しているというのだ。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)そのケネディは1963年11月22日に暗殺され、副大統領だったジョンソンが昇格した。
イスラエルは欧米の巨大な私的権力が生み出した国である。パレスチナ問題に首を突っ込むということは、その私的権力の利権に触れることを意味する。
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