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そもそも戦前の日本陸軍や226事件の将校は全員共産主義者だよ
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/666.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 8 月 02 日 15:19:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 林千勝先生の yudaya 陰謀論は 1945年から全然進歩してないよ 投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 24 日 19:10:48)

また嘘八百言ってる、昭和に流行った yudaya 陰謀論を繰り返しているだけだろ
そもそも戦前の日本陸軍や226事件の将校は全員共産主義者だよ
戦後共産党が合法化されてから日本陸軍の幹部はみんな日本共産党に入党したんだ  

日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった。
戦後も GHQの共産主義政策のお陰で、バブル崩壊までの日本は階級が無い共産主義国家だった。
日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者。戦前の陸軍や226事件の青年は殆どが共産主義のシンパで反資本主義だったから、共産革命を起こさない様に憲法第九条を作って軍隊を持てない様にしたんだよ。
現在でも保守・反動・愛国政党は日本共産党一つだけで、皇族や官僚・自民党は新自由主義・グローバリストですが、それは戦前からの伝統です:

1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。
 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。

 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。

 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。
こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭
こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。
世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。

軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本
どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
____

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists

近衛上奏文
このままでは日本陸軍における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

東条内閣打倒を図った近衛文麿は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。  

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コメント
1. 中川隆[-17107] koaQ7Jey 2021年8月18日 15:50:13 : XWQRzBKQ8k : NmxkNDluOU5BbVk=[34] 報告

77 7
1 秒前
@アテナパラス
>自分の国や文化を守ろうとするのが保守なの。

だからJPモルガンやアメリカ資本の為に食べて行けなくなった日本人を救う為に、日本の保守・右翼が全員マルクス主義者になったんだよ。
近衛文麿はそれを昭和天皇に上奏して、陸軍軍人を武器・食料無しで太平洋の最前線に送らせて餓死させたんだ。 日本への空襲と原爆も日本人が共産主義者ばかりになったから、アメリカに頼んでやっつけて貰ったんだ。

2. 2021年8月18日 18:27:33 : WdGm7K8lKM : bktkaTByV1NwZ0E=[66] 報告
近衞が共産主義者なんだが?

https://www.nagaitoshiya.com/ja/2009/konoe-fumimaro-communist/

近衛が、若いころ、左翼思想の感化を受けたことは、間違いない。近衛は、マルクス経済学の研究をしていた河上肇に学ぶため、東京帝国大学から京都帝国大学にわざわざ転学し、さらに、在学中に、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、それを『新思潮』に発表したなど、近衛がマルクス主義、共産主義、社会主義に共感していたことを示す逸話は、多数ある。

近衛家は五摂家筆頭であり、文麿はその当主であった。通常、こうした特権階級に属する人々は、共産主義の対極にある保守主義になりやすい。それにもかかわらず、近衛文麿はなぜ共産主義に惹かれ、革新貴族になったのか。理由として、二つ考えることができる。

第一に、父の影響である。文麿の父、近衛篤麿は、1885年に渡欧し、白人が東洋人に対して偏見を持っていることを実感した。日本国内で差別されている人が海外で差別を体験しても、なんとも思わないだろう。しかし、国内で誰からも尊敬されるような高い身分の貴族ほど、海外で見下された時の屈辱感は大きくなるものだ。篤麿は、渡欧後、アジアは日本を盟主として団結し、白人の横暴に対抗しなければならないというアジア主義の考えを抱くようになり、その理想を実現するために東亜同文会を設立し、その会長に就任した。

東亜同文会は、東亜同文書院を設立し、文麿は、その院長となった。文麿は、27歳の時(1918年)に、「英米本位の平和主義を排す」という論文を『日本及日本人』に掲載し、白人が黄色人種を差別し、移民を制限していること、後発工業国である日本が、資源や領土の配分という点で、英米より不利な立場にあることに不満を述べ、こうした格差を維持することになる「英米本位の平和主義」に異を唱えている[5]が、ここで彼が訴えた国際的な革新は、父の遺志を受け継いだものだった。


1933年に、近衛文麿は、貴族院議長に就任し、さらに、京都帝国大学時代の学友でもあった後藤隆之助に、昭和研究会という、近衛を囲む私的な勉強会を発足させた。近衛が将来の首相候補として注目されるにつれて、昭和研究会には、近衛内閣のもとで革新を行おうとする左翼や右翼たちが集まるようになった。

1937年6月4日に第1次近衛内閣が発足すると、近衛は左翼や右翼、特に近衛と人的交流があった皇道派将校の逮捕者や服役者を大赦しようとしたが、昭和天皇や西園寺公望の革新勢力に対する警戒心は強く、大赦は実現されなかった。「近衛上奏文」でも皇道派の復帰を提案していることを考えるならば、近衛は皇道派の本質を最後まで見抜くことはできなかったと考えることもできる。

7月7日に盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まると、近衛内閣は、不拡大方針を表明したのにもかかわらず、実際にはそれを拡大し、1938年1月16日には、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」との、所謂「近衛声明」を発表して、日中戦争の終結を絶望的にした。これは、近衛の主体的な判断というよりも、日中戦争を長引かせることにより、東アジアに共産主義革命を起こそうとする昭和研究会内の革新勢力の画策によるものであった。

昭和研究会内の革新勢力の中で重要な役割を果たしたのが、近衛内閣の書記官長に抜擢された社会主義者の風見章と彼が内閣嘱託として重用した尾崎秀実である。尾崎はソ連のスパイであり、主催した朝飯会で、近衛のブレーンたちにコミンテルン経由の情報を流し、その巧みな工作活動により、盧溝橋事件に端を発する日中戦争を不必要に長引かせた。


敗戦後、東久邇宮内閣の国務大臣となった近衛は、1945年10月4日に、マッカーサーに会って、以下のような、近衛上奏文と同趣旨の見解を披露した。

軍閥ト極端ナル国家主義者カ世界ノ平和ヲ破リ日本ヲ今日ノ破局ニ陥レタコトニ付テハ一点ノ疑モナイ、問題ハ皇室ヲ中心トスル封建的勢力ト財閥トカ演シタ役割及其ノ功罪テアル、此ノ点米国ニ於テハ相当観察ノ誤カアルノテハナイカト思フ。即チ米国テハ彼等ハ軍国主義者ト結托シテ今日ノ事態ヲ齎シタト見テ居ルノテハナイカト思フ、然ルニ事実ハ其ノ正反対テアツテ彼等ハ常ニ軍閥勢力ノ向上ヲ抑制スル「ブレーキ」ノ役割ヲ努メタノテアル。所謂日本ノ重臣層及財閥カ軍閥ノ勢力ニ乗セラレタコトハ事実テアルカ彼等カ如何ニ其ノ羈絆ヲ脱シ其ノ跳梁ヲ阻止シヤウトシタカ最モ雄弁ナル証拠ハ彼等ノ中ノ有名ナル人カ幾人モ暗殺ノ対象トナツタ事実ニ依リ明テアル。日本ハ嘗テ暗殺ノ国ト呼ハレタノテアルカ其ノ暗殺カ何人ニ依ツテ又何人ニ向ツテ行ハレタカヲ究明セネハナラヌ。

軍閥ヤ国家主義勢力ヲ助長シ其ノ理論的裏付ヲナシタモノハ実ニ「マルキシスト」テアル、満洲事変以来国内ノ急進的ナル革新カ之等勢力ニ依テ叫ハレタノハ実ニ其ノ背後ニ左翼分子カ喰入ツタコトニ依ルノテアル、彼等ハ資本主義ヲ排除シタ一ノ理想国家ヲ満洲ニ築カントシ又満洲ヲ拠点トシテ国内ノ急激ナル革新ヲ実現セントシタノテアル、満洲事変以来日米戦争ニ至ル全過程ノ観察ニ於テ此ノ点ヲ観過スルナラハ其ノ真相ヲ掴ムコトハ出来ナイノテアル。左翼分子ハ又一部ハ極右翼ニ接近シ又一部ハ官僚ニモ喰入ツタ、少壮軍人ヤ官僚ハ公然ト戦争状態ノ早期終了ニ反対シタ、戦争ヲ長引カシテ置イテ国内ノ急進的革新ヲ断行スルノタト言出シタ、従テ軍閥ヲ利用シテ日本ヲ戦争ニ駆立テタモノハ財閥ヤ封建的勢力テハナクシテ実ニ左翼分子ノ活動ニ依ルモノテアツタコトヲ知ラネハナラナイ。

[…]

今日ノ事態ニ於テ若シ軍閥及国家主義的勢力ト共ニ封建的勢力及財閥等既存ノ勢力ヲ一挙ニ除去セントスルナラハ日本ハ極メテ容易ニ赤化スルテアラウ、日本ノ赤化ヲ防止シ建設的ナ「デモクラシー」国家タラシムルニハ軍閥的勢力ノ排除ノ必要ナルコト勿論テハアルカ、一方ニハ封建的勢力及財閥ヲ存在セシメテ一歩一歩漸進的方法ニ依リ「デモクラシー」ノ建設ニ向ハナケレハナラナイ。

第一次欧州大戦後独逸ニハ社会民主党ナルモノアリ独逸ノ安定勢力トシテ共産主義革命ヲ阻止スル役割ヲ努メタノテアル、然ルニ日本ニハ財閥及封建的勢力ヲ除イテハ此ノ独逸ノ社会民主党ニ比スル安定勢力ハナイノテアル、最近議会方面ニハ無産党、自由党等擡頭シツツアルカ其ノ勢力ハ未タ微々タルモノニ過キス、自分ハ所謂封建的勢力ノ出身テアリ、斯カル議論ハ言ヒ悪イ訳テアルカ自分ハ決シテ斯カル勢力ヤ財閥ヲ弁護シヤウトスルモノテハナイ、唯今日直ニ且一挙ニ日本カラ此ノ安定勢力ヲ除去スレハ即チ日本カ直ニ赤化ニ走ルコトヲ大ニ指摘シ度イト思フノテアル。[7]
近衛との対談を通して、マッカーサーは近衛を大いに信用するようになり、近衛に憲法改正という重要な仕事を委託した。近衛・マッカーサー会談の内容は、陪席したジョージ・アチソンGHQ政治顧問団団長から、同じ国務省内の中国派である政治顧問団団員のジョン・エマーソンに伝わった。エマーソンは毛沢東を礼賛する共産主義者で、近衛の反共産主義的で封建的保守勢力を擁護する見解を聞いて驚き、同じ共産主義の同志であるハーバート・ノーマンGHQ対敵諜報局調査分析課長と共に、近衛を失脚させるための反撃に出た。

ハーバート・ノーマンは、日本生まれのカナダ人で、ハーバード大学で、当時共産主義者に傾倒していた都留重人と知り合った。ノーマンは、大学卒業後、共産党に入党した経歴を隠して、カナダの外務省に就職し、第二次世界大戦後、カナダの外交官として日本に赴いたが、その日本語の能力と日本に関する知識から、GHQに調査分析課長としてスカウトされた。ノーマンは、都留とともに謀って、1945年11月5日に近衛文麿についての、8日に木戸幸一についての「戦争責任に関する覚書」を書いてGHQに提出した。この覚書は近衛に関しては厳しく、木戸に対しては甘かった。これは、木戸が都留の妻の伯父であったためと考えられている。

だが、この覚書が提出される前から、ノーマンとエマーソンによる近衛攻撃の工作活動は始まっていた。これが功を奏して、10月24日以降、米国のメディアが近衛叩きを始め、11月1日には、GHQは、近衛に対する憲法改正の依嘱を否定する声明を発表した。11月9日には、近衛は、米軍軍艦内に連行され、1941年9月6日の御前会議で対米決戦を決断したとして、戦争責任を詰問され、12月6日に、GHQによって逮捕され、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれると聞いて、12月16日に自殺した。

近衛の自殺を聞いて、昭和天皇は「近衛は弱いね」と言ったと伝えられるが、近衛の自殺には、天皇系廃絶を防ごうとする、もっと戦略的な意味があった。振り返ってみると、天皇に戦争責任があることを知っていた近衛は、天皇系廃絶を防ぐために以下の二つの手段を試みていたのである。

近衛が最初に試みたのは、昭和天皇に退位してもらい、太平洋戦争とは無関係であった新しい天皇を即位させ、昭和天皇の戦争責任が明らかになっても、皇統断絶にならないようにするという方法であった。1945年10月21日、近衛はAP通信の記者と会い、新憲法が天皇退位の新しい規定を含むことを漏らしたが、23日に朝日新聞がそのAP特電を掲載すると、近衛は、国内で激しい批判を浴び、昭和天皇退位を断念せざるをえなくなった。
戦時中に内大臣として昭和天皇を補佐した木戸幸一は、昭和天皇と自分に戦争責任の累を及ぼすことを怖れ、1941年9月6日の御前会議で、昭和天皇が「四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらむ」という明治天皇の御製を引用して反戦の意思を示す中、近衛が対米開戦を決定したというストーリを作り上げた。そして、姪の夫である都留重人、都留重人の親友であるハーバート・ノーマンを通じて、近衛の戦争責任を強調することとなった[8]。
もとより、ノーマンの筋書きには無理があった。昭和天皇は、「波風」を「敵波」に擦り替えて明治天皇の御製を詠った[9]ので、この歌は、敵を非難する歌であり、日本の軍部を批判した歌ではなかったし、近衛は対米決戦を先延ばしにするための妥協策をとったに過ぎなかった。しかしながら、近衛と木戸は、皇統を絶やすべきでないという点では意見が一致しており、近衛は、軍事裁判に出て真実を語るよりも、このまま自分が全ての戦争責任を負って、黙して死んだ方が、昭和天皇に累を及ぼさないと判断して、自殺したと推測できる。

こうして、近衛は、日中戦争と太平洋戦争が共産主義者の共産主義者による共産主義者のための戦争であったとする近衛史観とともに葬り去られた。

3. 2021年8月18日 18:35:51 : WdGm7K8lKM : bktkaTByV1NwZ0E=[67] 報告
各研究者の分析は、日本官僚やマスコミが一方的に報道するような「軍部の独走」ではない。

日中戦争は、当時共産主義のスパイであった東亜同文会ほか、日本国内に芽生えた共産主義の政党群の敗戦誘導で、彼らは、日本政府の言いなりにならない日本財閥系各組織の解体的乗っ取りを画策していたため、戦争の泥沼化〜敗戦という共産革命の方向性「革命的祖国敗北主義」を政策化・選択している。

4. 2021年8月18日 19:14:08 : WdGm7K8lKM : bktkaTByV1NwZ0E=[68] 報告
近衞文麿は、彼自身はマルクスレーニン文献の翻訳に奔走したり、次々と共産系政治結社を設立させ、おそらく近衞の中で「資本」に当たる当時の日本の財閥群を革命によって抹殺、政府経営化、成果を政府予算化すべく画策する黒幕となっている。

現在日本共産党がよく言う「大企業に大増税せよ」という方向性は、実は近衞文麿と京都大学学閥同志が戦前に示した方向性と驚くほど同一基軸と言える。

近衞文麿は、資本は国策企業として官僚の経営下でのみ存続させ、財閥としては解体することを目的として、それには、日本の政治家を輩出している財閥を自浄できない以上、外国の圧力で財閥を排除する「日本を戦争に引き釣りこんで敗戦させる」という方針を選択したのだろう。

レーニン文献の翻訳に当たっている近衞は、レーニンの革命的祖国敗北主義を日本の中で最も良く知る人物である。

近衞の誤算は、その当時アメリカ合衆国がコミンテルンに乗っ取られていることを知らなかったことによる。

近衞をA級戦犯として立件することになるノーマンはコミンテルンであったし、コミンテルンの都留の妻の叔父が本来A級戦犯であるべき木戸幸一、コミンテルンは、A級戦犯を木戸から近衞にすり替え、近衞はこれを察して自殺したのか、または殺害されて自殺ということにされている。

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