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「改憲」の黒幕はアメリカの支配層
米国の手先として中露との戦争の準備を進める日本で憲法改定の動きが強まる必然
6月29日から30日にかけてスペインで開かれる予定のNATO(北大西洋条約機構)首脳会議に岸田文雄首相が出席する。ウクライナや台湾の情勢に対応するため、アメリカやヨーロッパとの連携を強めることが目的だというが、NATOは軍事同盟であり、その提携は軍事的なものになる。
日本とアメリカはすでに軍事同盟を結んでいる。1951年9月8日にサンフランシスコのオペラハウスで日米両国は「対日平和条約」に調印、同じ日の午後にプレシディオで「安保条約」に調印した。その1週間前に同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約を結んでいる。
この安保条約が締結されたのは朝鮮戦争の最中で、アメリカが中国との戦争を想定していた。その条約ではアメリカ軍による日本占領の継続と日本の内乱や「付近の安全の乱れ」への介入が認められていた。
大戦後の中国を支配するのは蒋介石が率いる国民党だと推測する人は少なくなかったが、大方の予想に反して国民党は劣勢になり、1949年に入る頃には敗北が決定的になる。国民党に肩入れしていたシェンノートは同年5月にトルーマン大統領と会談、蒋介石を支援するため、さらなる資金援助を求めたものの、拒否された。そこに手をさしのべたのがOPCだ。
OPCが最初に行った作戦は中国共産党の幹部を砲撃で皆殺しにし、偽装帰順させていた部隊を一斉放棄させるというものだが、これは途中で計画が漏れて失敗した。そして始まるのが朝鮮半島で緊張を激化させるための秘密工作。
戦争を行うためには輸送を支配する必要があり、国鉄の強力な労働組合を潰す必要が生じた。そうした中、1949年に引き起こされたのが国鉄を舞台とした下山事件、三鷹事件、松川事件だ。これらの事件で労働組合は総攻撃を受け、致命的なダメージを受けた。
朝鮮戦争が始まる3日前の1950年6月22日、ニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で夕食会が開かれ、パケナムのほかニューズウィーク誌の外信部長だったハリー・カーン、ドワイト・アイゼンハワー政権で国務長官に就任するジョン・フォスター・ダレス、ダレスに同行してきた国務省東北アジア課長ジョン・アリソン、そして、日本側から大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三が参加した。
1951年1月にジョン・フォスター・ダレスは講和使節団を率いて来日し、占領後の日本をめぐる交渉が始まる。ダレスは日本に対し、自分たちが「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を求めようとしていたという。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)
1953年にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任するとジョン・フォスター・ダレスは国務長官に任命される。この当時、インドシナではフランスがこの地域を再植民地化するために戦っていたのだが、1953年11月にディエンビエンフーを守るフランス軍をベトミン軍が包囲、翌年の5月にフランス軍は降伏した。
それに対し、ダレス国務長官は1954年1月にNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。ここからアメリカのインドシナへの軍事介入が始まるが、本格的な介入はジョン・F・ケネディが暗殺され、リンドン・ジョンソンが大統領になってからだ。
この間、アメリカの好戦派はソ連や中国に対する核攻撃を計画している。1945年8月15日に天皇の声明が日本人に対して発表されてから半月ほど後にローリス・ノースタッド少将はレスニー・グルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出している。
グルーブス少将は1944年、マンハッタン計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
1945年9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出していた。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)
1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという記載がある。1952年11月にアメリカは初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てる。
1957年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。沖縄の軍事基地化はこの作戦と無縁ではないだろう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないタイミングで先制核攻撃をすると考えた好戦派の中には統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイが含まれる。彼らは1963年後半に先制攻撃する計画を立てた。
沖縄が軍事基地化されていく背景にはこうした核攻撃計画がある。アメリカにとって沖縄への核兵器持ち込みは戦略上、必然であった。
そして現在でも沖縄はアメリカが中国やロシアを攻撃する拠点だ。自衛隊は2016年に与那国島、奄美大島、宮古島に施設を建設、23年には石垣島にも建設する予定だ。
1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が発表されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。
1991年12月にソ連が消滅、アメリカが「唯一の超大国」になり、単独で行動できると考えた人は少なくなかったが、ネオコンもその中に含まれている。その当時、国防総省はネオコンのディック・チェイニー長官とポール・ウォルフォウィッツ次官補を軸に動いていた。
そのウォルフォウィッツを中心に「DPG草案」という形で世界制覇プランが1992年2月に作成されている。いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」だ。
それに対して細川護熙政権は国連中心主義を掲げていた。そこでこの政権は1994年4月に潰される。この時、最初に動いたのはマイケル・グリーンとパトリック・クローニンのふたり。カート・キャンベルを説得して国防次官補だったジョセイフ・ナイに接触し、ナイは1995年2月に「東アジア戦略報告」を発表したのだ。グリーン、クローニン、キャンベルはウォルフォウィッツやチェイニーと連携している。現在、キャンベルはアメリカのアジア政策を指揮している。
大戦後、ドイツと同じように、日本でもアメリカに協力的な軍人を保護、協力させていた。有末精三陸軍中将、河辺虎四郎陸軍中将、辰巳栄一陸軍中将、服部卓四郎陸軍大佐、中村勝平海軍少将、大前敏一海軍大佐らは特に有名で、そのイニシャルをとって「KATO機関」、あるいは「KATOH機関」とも呼ばれている。
アメリカ軍に対する敵対的な意志を持つ軍人は処分されていたが、処分しきれたとは言えない。そこで日本国憲法の第9条はアメリカにとって必要な条項だったと言えるが、すでにそうした心配をする必要はなくなっている。つまり、アメリカの支配層にとって第9条は邪魔になっている。「改憲」の黒幕はアメリカの支配層だと言うべきだろう。
- 「なぜ政権はこれほど性急に防衛予算の拡大に進むのか」 保守や右翼には馬鹿し 2023/4/03 20:00:47
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