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KGB議長言明 論文で露専門家指摘 旧ソ連「最後まで協力」
【モスクワ9日=斎藤勉】北朝鮮の核開発計画は半世紀も前の朝鮮戦争後に始動し、ソ連崩壊前年の一九九〇年の段階で当時のクリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長が「最初の核起爆装置が寧辺(平壌の北九十キロ)で完成した」とクレムリンで言明していた事実が九日、産経新聞モスクワ支局が入手したロシアの核軍縮専門家の論文で明らかになった。さらに、ソ連が北朝鮮の核開発に深く関与し、核起爆装置の開発状況まで把握していた実態も論文により裏付けられた。
この論文は長年の核軍縮の専門家で北朝鮮の核開発にも詳しい国際応用研究所のユーリ・フョードロフ副所長による「朝鮮半島における核不拡散と国際安全保障」で、すでに九七年九月にモスクワでの学界の会議で内々に発表していた。
論文によると、北朝鮮の内部情報に精通していたクリュチコフKGB議長は九〇年のソ連共産党政治局(クレムリンの最高意思決定機関)会議で「寧辺で最初の核起爆装置の開発が完了した」と報告した。「北朝鮮はしかし、国際社会や国際的監視機関から核兵器製造の事実を隠すため核実験は予定していなかった。
ソ連は情報機関による(北朝鮮の核開発の)明らかな結論、評価にもかかわらず、核分野での協力を最後まで続けた」と論文は批判している。
北朝鮮が初めて核開発計画を始動したのは、論文によると五〇年代半ばで、「朝鮮戦争の結果、平壌は北京と同様、核兵器への関心を刺激され」、フルシチョフ時代の五六年、ソ連との間で原子力エネルギーの平和利用の協力に関する初協定を締結した。同協定では北朝鮮の核物理・技術の専門家をソ連の大学や科学センターで養成することに力点が置かれた。
平安北道・寧辺に核センターの建設が始まったのは四十年前の六三年。八六年にはソ連が提供した小型の実験用黒鉛減速型原子炉(五メガワット)が稼働を始めた。
「さまざまな評価から、この原子炉では一年に一・八−五キログラムのプルトニウムの生産能力があり、(米朝枠組み合意の前年の)九三年までには第一世代の核爆弾を数個製造するのに十分なプルトニウムを持ち得ていたはずだ」と論文は述べている。
寧辺には八四年、ソ連の技術支援でもう一つ別のガス黒鉛減速型原子炉(五十メガワット)が、次いで八九年には泰川でさらに大きい二百メガワットの同型原子炉の建設がそれぞれ始まった。
論文は「この二つの原子炉が計画通り九五−九六年に稼働を始めていたとすれば、一年間に総量で最高五十キログラム(核爆弾約六個分)のプルトニウムを生産できる能力を備えていたはずだ」と明かし、「北朝鮮の核開発が軍事的志向を強めている兆候として最も憂慮されたのは、使用済み核燃料からプルトニウムを抽出するプラントが北朝鮮に存在した事実だ」と強調している。
北朝鮮は八五年、ソ連から二千メガワットの大型原子炉を二基獲得することでも合意した。その見返りにソ連は北朝鮮に核拡散防止条約(NPT)への加盟を求め、北朝鮮は同年中にこれを実行したが、九一年のソ連崩壊で大型原子炉は現在に至るまで供給されないままとなっている。