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Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。
(2003/2/17)
華族の話
1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。
大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?
つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。
5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。
1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。
当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。
この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。
伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。
旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。
学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。
侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。
華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。
1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。
1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。
財産税の税率
財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%
すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。
現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。
多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。
このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。
1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。
秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。
ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。
皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。
1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。
◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
◆◆ さて、国債バブルが弾けて、政府が本当に困った時、◆◆
◆◆この財産税が現在の日本に甦るような気がしてなりません。◆◆
◆◆お金持ちの方は、ご用心◆◆