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(回答先: 2013年度にはプライマリーバランスを黒字化させたい=塩川財務相 [ロイター] 投稿者 あっしら 日時 2003 年 1 月 19 日 02:26:25)
■財政「構造改革」路線の強行で拡大した財政赤字
1997年度は「財政構造改革元年」という触れ込みであった。97年度予算において、政府は消費税率の引き上げなどの増税を実施するとともに、
公共事業費等の歳出も抑制し財政赤字の削減に乗り出した。しかし、皮肉なことに、翌98年度から財政赤字は一段と拡大、財政再建ははるか
に遠のくことになった。財政「構造改革」政策の下で急激に景気が悪化、税収が落ち込んだ一方で、景気浮揚のために財政政策を出動させざる
をえない状況が生じたからである。加えて、同時に採られていた金融「構造改革」政策の下で金融危機が発生したが、その進行を防ぐためにも
巨額の財政資金の支出が必要となった。
財政赤字拡大の状況を国の一般会計で見よう。まず、税収は97年度は54兆円近くまで増加していたのが景気後退の影響と減税が実施された
ことから98年度には49兆円台、99年度は47兆円台へと、2年間でおよそ7兆円の減少となった。一方、新規国債発行額は、96年度は21.7
兆円であったものを97年度は18.5兆円へと抑え込んだ。しかし、98年度は34兆円と97年度の倍近い金額へと膨張し、99年度は37.5兆円
へとさらに膨れ上がってしまった。
この結果、国債残高は2000年度末には368兆円となった。財政「構造改革」に乗り出す前、96年度末の残高は245兆円であったから、4年間
で120兆円増加した、およそ1.5倍となった、ということである。ちなみに、過去を振り返ると、国債残高が120兆円増加するには85年度から
96年度まで12年間、1.5倍に膨張するには90年度から96年度まで7年間かかっている。そうした増加が財政「構造改革」のおかげで4年間
で生じてしまった、ということである。
■600兆円を越した政府債務残高
ことは、国と自治体、それに社会保障基金を合わせた一般政府(以下、単に政府と言おう)の財政収支で見ても同様である。すなわち、96年度
は24兆円であった年間の財政赤字を、97年度には20兆円まで抑え込んだ。それが98年度には国鉄と林野事業の債務(約26兆円)を継承
したこともあったが、58.5兆円と急膨張し、99年度も38兆円と巨額の赤字を出すに至ったのである。
結果として、政府の債務残高もまた膨張している。今度は暦年の統計となるが、96年末に469兆円であったものが99年末には618兆円へ、
3年間でおよそ150兆円増加している。対国内総生産で見たその比率も、97年までも上昇傾向ではあったが、98年以降はさらにその傾向が
強まり、99年には100%を越すに至った。先進国中最悪、と言われるゆえんである。
■純債務残高は、なお「最悪」ではない
もっとも、「先進国中最悪」とは、5年前の96年において既に言われていたことであった。96年7月に財政制度審議会は「財政構造改革を考え
る」と題する報告書を発表したが、そこでは、「先進国の中でも最悪」との表現で当時の日本政府の赤字の状況を捉えている。そうした認識に
基づき「財政赤字の削減ことそが経済の発展を可能とする」という哲学のもとに財政「構造改革」は出発したのであった。当時に比べさらにいち
だんと悪くなっている日本の財政の状況をどう表現すべきであるか、もはや、表現することばもない、ということになりそうである。
しかし、当時はもとより、現状においても、日本の財政の状況は「先進国中最悪」というほどのものではない。純債務残高、すなわち政府の総
債務残高から政府保有の金融資産残高を差し引いた債務残高で政府債務を捉え、その対国内総生産の比率を見ると、日本の比率はなお
アメリカやドイツを下回っているのである。
すなわち、こういうことである。利用できる最新の統計である99年末の数字を見ると(「国民経済計算」)、日本政府の抱えている総債務(負債)
残高は618兆円である。対して、保有している金融資産(過半が預金、あと、証券、株式・出資金、貸出など)の残高は390兆円である。従って、
日本政府の純債務残高は99年末で228兆円、その対国内総生産比は40%程度で、50%前後のアメリカ、ドイツ(その他多くのヨーロッパ
諸国)より低い。98年以降の財政状況の急速な悪化がここにも反映されていてその比率は急上昇中であるが、それでもなお、日本の財政赤字
の状況は先進国中「最悪」ではない、「まだまし」といった状況にある。
■両建てゆえに膨らんで見える日本の総債務残高
対国内総生産比で総債務残高を見ると先進国中最高の水準にあるのに、純債務残高を見ると先進国中で最低といった水準にある、なぜこの
ようなことが生じているのか。話は単純である。欧米諸国の政府は日本政府ほどには金融資産を保有していない、だから対国内総生産比で
見ての総債務残高と、純債務残高との間にさほどの開きはない、ひとり日本政府だけが巨額の金融資産を保有している、だから両者の比率に
かなりの開きがある、ということである。
あと少し付け加えるならば、日本政府は金融資産を単位多く保有しているというだけではない。その資産を増やし続けてもいる。96年から99年
にかけて、先にみたように、日本政府は総債務残高を469兆円から618兆円へ、約150兆円増加させたが、同時に金融資産残高の方も
358兆円から390兆円へ、32兆円増加させている(さすがにその増加幅は、90年代前半に比べかなり小さくはなっている)。要するに、日本
政府は債務と金融資産とを両建てで増やしている、その分だけ、債務の増え方は大きくなっている、従って総債務残高が膨らんでいる、という
ことである。
どこに、そのような金融資産が蓄えられているのか、という疑問が出るであろう。かなりの部分は年金基金であるが(99年末で230兆円)、それ
だけではない。国の特別会計、自治体の種々の基金、積立金等もある。ちなみに外貨準備残高は99年末で2880億ドル(約30兆円)、世界一
の規模となっているが(直近では3500億ドル)、これも政府の保有する金融資産である。
■総債務残高で見るべきか、純債務残高で見ていいか
財政状況の厳しさ、あるいは悪さを見るについて、総債務残高で見るべきか、純債務残高で見ていいか、という問題がある。財政「構造改革」
論者は一貫して総債務残高で見ていて、日本政府の財政状況は先進国中「最悪」と評価し、「国民一人当たりにして500万円の借金」などと
表現する(後者の表現をする場合には、せめて、一方で「国民一人当たりにして300万円以上の金融資産もある」と付け加えるべきであろう)
なぜか。その理由は必ずしも明らかではない。その数字しか知らないか、その数字が世間に流布して危機を喧伝するのに都合がいいからなの
か。そうではないとして一部に主張されている理由は、「年金基金は将来の年金支払いに必要な資金である」、「その他の金融資産もすぐに
換金できて政府債務の返済に充当できるものではない」といった類の説である。
こうした見方については、どう考えるかである。そうした年金基金を保有している政府(日本、アメリカ)と保有していない政府(その他多くの国)
の財務状況を比較するに当たっては、総債務残高ではなくて純債務残高を採る方が公平ではないか、と指摘しておこう。なお、換金できるか
どうか云々については、この問題は債務をどう返済するかを問題とする時に初めて生じてくる問題であり、債務の状況を見る場合にはほとん
どかかわりのない問題である、と言うべきではないか。
純債務残高で見ていい、むしろ見るべきである、ということである。そうすると、日本の財務状況は、96年末では先進国中「かなりまし」な状況
にあったということになる。そのように理解して初めて、その後の急激な悪化をみても格別な問題はおこらず、日本経済や日本政府がなお耐え
られていることの説明が可能となる。そうではなく、当時世間で言われていたように、96年末で最悪の状況だったと見ると、それより格段に悪く
なってもなお大丈夫である状況をどう説明するのであろうか(たまたま幸運にも、もしくは奇跡的にとでもいうのか)。
そして、純債務残高で見ると、現状は、なお他の先進国「並み」か、「それでもまだまし」の状況、ということになる。加えて、日本政府が返済しな
ければならない債務は、618兆円ではなく228兆円であり(99年末時点)、国民一人当たりにして500万円ではなくて200万円である、という
ことになる。
なお、参考までに記しておくと、財政赤字のために政府が負担して支払っている金利支払い額の対国内総生産比は、99年において、日本1.3%、
アメリカ2.8%、ドイツ3%である(OECDの統計)。これは、日本の低金利の反映ということもあるが、純債務残高の比率の低さの反映でもある。
財政赤字による国民経済面での負担は、現在のところ主要先進国中最も軽い状況と解釈できるわけであり、この負担の軽さも、総債務残高を
見ていては説明ができず、純債務残高の方を見て初めて納得できるというものである。
■財政危機説を支える三つの「思い込み」
財政赤字が危機的と見られている背景には三つの「思い込み」がある。
一つは、日本政府が600兆円超え、国民一人あたりにして500万円以上の債務を抱えている。これは先進国中最悪である、とする「思い込み」。
二つは、政府債務はあると良くないものである、できるだけ早期に、それも完済しなければいけない、という「思い込み」。
三つは、とは言っても巨額の政府の債務は早急には返せない。返そうとすると国民は耐乏生活を強いられることになる。返さないでも困った状況
が起る。あげく、政府は、実質的に返済負担を軽減する政策をとるだろう、大インフレがくるのは必死である、などとする「思い込み」である。
このうち、第一が過大な思い込みであることは既に見た。では第二についてはどうなのだろうか。
■大幅資産超過の日本政府
債務は必ず返さなければいけないものなのか。
個別の債務についてはそうである。期限がくれば返済しなければならない。だが、そのことと債務残高をゼロにすることとは話が別である。
債務残高は必ずゼロにしなければならないか。これは借手の状況次第である。
個人が借手である場合は、ほぼそうだ、と言ってよかろう。個人の命には限りがある。債務残高はどこかでゼロにしておくか、少なくとも、死亡時
に資産が債務を上回る状況を作り出しておくか、債務を継承してくれる人を見つけておく必要がある。
しかし、法人(企業)の場合はどうか。法人は生き続けることが前提である。生き続ける限り、債務残高をところでゼロにしなければいけない、と
いうことはない。債務に見合う資産があり(つまり、最終的には債務の返済能力があり)、利息等の支払い能力があり、そして貸手から強く返済
を迫られるという状況が発生しなければ、債務残高をゼロとする必要はない。逆に言うと、そういう条件が揃っていれば借り続けていていいわけ
である。
このことは、同じく、生き続けることが前提となっている政府についても同様である。先にふれた条件が揃っていれば、債務を早急に、完済しなけ
ればならない、というものではない。
さて、日本政府の「条件」はどうか。
第一に、日本政府の資産・負債の状況を見ると、1999年末時点で259兆円の資産超過となっている。債務に見合うだけの資産は十分にある
わけである(この点を見ると、「日本政府は国民一人当たりにして500万円以上の借金を抱えている」という言いかたはことの一面しか見ていない。
「国民一人当たりにして300万円の金融資産を保有している」と補ってもまだ不十分である。「そうした借金は抱えているが、一方で、国民一人
当たりにして700万円以上の資産を保有している」と補うべきだろう)。
もっとも、資産の方に不良資産が含まれている、ということはあろう。また、近年の財政赤字の拡大(資産の増加を伴わない債務の増加−−
赤字国債の発行がその代表例である)で、資産超過額が減ってきつつあるという問題はある。そして問題はあるが、ただし、なお相当の資産
超過の政府であり、借金の返済を急がねばならない財務状態ではない。
■大幅資金余剰の民間部門
第二の条件である利息等の支払能力について見てみよう。国の一般会計で見ても、地方自治体の予算・決算の状況で見ても、次第にそれが
重荷になりつつあるのは事実である。ただし、国民経済として見ると、先に見たように、政府債務に関する利息支払額の対国内総生産比は
先進国中もっとも低い。日本経済全体としてみるとさほどの負担にはなっていないと言ってよかろう。
第三の、貸手の側の状況について見ると、財政赤字資金の貸手は、もっぱら国内民間部門である。そして、国内民間部門の貯蓄超過額は、
周知の通り、このところきわめて大きく、巨額の財政赤字をまかなってもなお、年間10兆円を越す資金余剰となっている。貸手の側にも返済を
迫る理由はないわけである。
このように見てくると、政府債務はできるだけ早期に、それも完済しなければいけないというものではない、それは単なる「思い込み」に過ぎない、
ということである。
■政府債務は家計の資産でもある
政府債務を返済しようとすると大変なことが起る、返済しないでも困った状況が起るという「第三の思い込み」についてはどうか。「第二の思い込み」
が単なる「思い込み」に過ぎないとすると、返済しようとする状況は想定しなくて良くなるからこの「第三の思い込み」の前半部分の回答は不要と
なるわけだが、念のために、一つだけ、事実を指摘しておこう。それは、日本の財政赤字は家計部門の余剰資金が支えている、という事実である。
すなわち、99年末における経済部門毎の金融資産・負債の状況を見ると、これまで何度か触れたように、政府部門にあっては、負債(総債務)
残高が618兆円、金融資産残高が390兆円で228兆円の(純)債務を負っているという状況になっている。問題はどの部門に対して、というこ
とだが、家計部門で1000兆円を越す金融資産の余剰が生じており、これによって政府債務は支えられている、ということである。
すなわち家計部門の1000兆円超えの資金余剰は、企業部門の資金不足を賄い、政府部門の資金不足を賄い、それでもなお余剰があって
海外へ流出している、というのが99年末時点における日本の資金循環の姿なのである。
そして、ここから言えることは、政府がその(純)債務を完済するとすると、その資金は家計部門に帰っていく、すなわち、国内から流出していく
わけではない、ということである。政府部門の債務返済のための資金は、税金等として国内の家計部門、企業部門から取りたてられる(だから
大変な状況が生じる、と「思い込まされている」わけだが)、そうして取り立てられた資金は、債務の返済という形で債権者、すなわち家計部門、
企業部門に返ってくるわけである。これのどこに大変なことが生じるのだろうか。
■財政赤字の弊害は起りにくい、インフレも起らない
財政赤字を返済しないままにしておいたらどうであろうか。困った状況があいついで起るであろうか。財政赤字の弊害として主張されていること
が三つある。一つは、金利が上昇し民間企業の資金調達ができにくくなる(クラウディングアウトが起る)、二つは、インフレが起る、三つは、通過
価値の下落が起る、ということである。果たして、そういうことが生じるのか。
これまでそうした弊害は生じてこなかった、現に今も生じていない。という事実にまずは注目すべきであろう。数年にわたり大幅な財政赤字が生じ
ているにもかかわらず、である。そして、そうした事実が存在するについては、それなりの理由がある。
一つは、国内の民間部門の資金余剰額が大きく、財政赤字を吸収してもなお余剰資金がある、すなわち国内が金余りとなっている、しかも金融
緩和政策がとられている、ということである。こうした状況下では金利の上昇は生じないし、民間企業の資金調達が困難になる、ということも起り
ようがない。
二つは、財やサービス、あるいは労働力の分野で大幅な需給ギャップが存在するという状況がある。政府部門が赤字で、すなわちその収入以上
に支出を拡大して、需要を創出してもそのギャップは埋めきれないという状況があっては、インフレは起りようがない。
三つは、日本の経常収支、貿易収支が大幅な黒字となっている、ということがある。通過の価値はその国の貿易面での競争力を相当程度反映
して決まるので、これだけの黒字となっている国の通貨価値が下落するという可能性も低い。
こうした基本的な状況は、これから先、少なくとも数年は続くと予想される。当面、日本において財政赤字の弊害が表面化してくるおそれは少ない、
と見ていい。
■社会の高齢化と国民負担、基本的な考え方
とはいえ、日本の財政については、いま一つ、現状はともかく、今後の展望は厳しいのではないか、という点についても考えておかなければなら
ない。今後の日本にあっては人口構成の高齢化が急速に進展していく。そのもとで政府の社会保障関係支出も増加していくとみられることが、
そのことが財政赤字を拡大していく、あるいは国民負担を増加させていく、そのことを考えると、やはり日本の財政は危機的状況にあると言えるの
ではないか、という見方があるからである。
人口構成の高齢化と財政問題、という本題に入る前に、まずは二つのことに注意を喚起しておきたい。
一つは、高齢化社会の負担がその実態以上に大きく見られているのではないか、ということである。高齢者人口を生産年齢人口で割る、その
比率が高くなることをもって生産活動の担い手の負担が異常に高まるとする、そうした見方がその代表である。生産活動の担い手の負担を言う
なら、分子には高齢者人口だけでなく幼少年人口も当然加えるべきだろう。そして、そうした算出の仕方をしてみれば、生産活動の担い手の負担
は、かつてなかったほどに高まるというわけではない。今から10年後に、1960年前後の水準に、20年後に1955年前後の水準に戻る、という
ことである。その頃に比べて日本経済の生産力は比較にならないほどに高まっている。支えきれないほどに生産活動の担い手の負担が高まる
わけではけっしてない。
ことのついでにあと一つ、年金の世代間負担の公平の問題にも触れておこう。生涯にわたって負担する保険料と、受け取る年金額を計算すると、
現在の若年層の負担が重く、既に年金を受け取る年齢に達しつつある年齢層の負担は軽い、世代間の公平を図るべきである、とする考え方
がある。この考え方は、若年層の負担を軽くする方向へ、つまり、年金給付を減らしていこうとする制度改革へと話を運んでいく。
しかし、この考え方は視野の狭い不公平な考え方である。世代間の負担・受益の関係は何も年金だけに限るわけではない。育児・教育期にお
ける負担・受益、あるいは高齢に達してからでも年金制度によらない部分での負担・受益というものがある。それらを総合的にとらえるならとも
かく、年金制度だけを取り出して負担・受益を議論する、そしてそこから一定の結論を導き出すという思考は、ためにする議論でないとしても
視野が狭く公平性を欠く。
加えて、これは不毛の議論である。先に見たように、現在の若年層、すなわち将来の生産活動の担い手達の負担は(一人の働き手が何人を
支えるかという計算をしてみると)、現状よりは確かに高まる。しかし、それは人口の構成がそうなるのであり、避けられないことである。経済学が
この問題に対して対応策を出すとすると、一つは、将来に備えて現在の消費を抑えるべしと主張することになるのだろうか。そうすれば、将来に
おいて高齢者は、貯蓄を取り崩しての生活が可能となるから、その分将来の生産世代の負担が軽くなる、といえるわけである。いま一つは、
将来に備えて現在の投資を増やすべしと主張することになるのであろうか。そうすれば、将来の生産性が上がるから、将来の生産世代の負担が
軽くなる、と見られるわけである。このふたつの主張は相矛盾する(需給ギャップの大きい現状からすると、消費を抑えると投資も抑えられて生産
性は上がらない、生産性を上げるために投資を増やそうとすると消費も増やす必要がある)。さて、どちらの方が賢明か、こうした議論ならまだし
も意味がある。
ところが、世代間会計の議論は、要は社会保障会計を通じての若年世代の負担を抑えろと主張しているだけなのであるから、将来世代の負担
の増加に対しては何の解決にもならない。先に見たように、その提案により社会保障会計を通しての若年世代の負担は軽減されても、個人負担
という形で、生産世代の負担自体は残るからである。本質に切り込まない、不毛な議論と見るゆえんである。
最後にいま一つ、さらに問題なのは、この考え方の思想の貧しさである。この考え方は、世代間の負担・受益を金銭のやり取りで計算してみよう
とする、そして、その計算結果に基づいて制度変更の必要性を主張する。しかし社会保障制度はそうした金銭面での負担・受益を中心に考える
べきものであろうか。幼児のあどけない行動で負担が負担と感じられず、むしろ楽しみであるということもある。年老いた人が満足感につつまれ
て余生を送る姿を見るとき、年金保険料の負担が何であろうか、と考えることもできる。よい制度というものは、そういう要素も考えて設計すべき
ではないか。
もとより。財政赤字の状況が日々、厳しさを増していることは事実である。どこかで歯止めをかけることは必要だが、現状では、これまでに見て
きたように、なおこの問題が日本経済にとって何をおいても優先させなければならない課題とはなっていない。現在の経済状況の中で財政再建
を急ぐと、橋本内閣の時のようにかえって財政赤字を増大させていまうおそれの方が強い。
財政危機の問題は、ひとり財政収支だけでなく、一国全体の問題の中でとらえるべきであろう。