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Re:「構造改革」が招き、深刻化させた後期不況
投稿者 PBS 日時 2003 年 1 月 18 日 20:33:27:

(回答先: 構造改革か 投稿者   日時 2003 年 1 月 18 日 14:11:53)

■再度の不況へ、引き金となった財政「構造改革」

97年の景気について振り返るとき、もっとも見やすいのは円相場変動の影響である。アメリカがドル高政策に転じたこともあって、円の対ドル
相場は95年4月を境に円安へと逆転していった。96年の円の対ドル相場は年平均108円、95年比14%の円安であった。96年末には116円
であり、97年はさらにいま少しの円安が予想されていた(事実、97年の年平均は120円、年末は129円であった)。こうした円安への動きは
日本の輸出を伸ばし、輸入の伸びを抑えるだろう。97年の日本経済の成長率はその分だけ高まるはずであった(結果としての97年を96年と
比較してみると、輸出のプラス寄与度は1.1%と96年比0.5%高まり、輸入の寄与度はマイナス0.1%と96年のマイナス1%に比べ0.9%
縮小している。こうした輸出入の変化は、97年の日本経済の成長率を96年よりもあわせて1.3%高くしている)。

国内民間需要についてはどうか。もっとも比重の大きい消費についてみると、97年の消費の伸びは96年の伸びを上回る可能性は十分にあった、
といえる。景気回復の筋道からいってもそれは当然のことであるが、統計によって裏付けられてもいるからである。例えば、「家計調査」である。
これによって、97年を96年と対比してみよう。

勤労者世帯の一世帯当たりの収入を見ると97年の前年比伸び率は2.7%であって、96年の1.5%よりかなり高い。96年までの景気回復に
よって企業収益が持ち直し、97年は春闘ベース・アップ率も、夏・冬のボーナスの伸び率も96年を上回ったからである。もっとも、可処分所得を
見ると97年の伸び率は1.7%と、96年の伸び率1.3%にかなり接近をしてくる。この年、特別減税が取りやめとされたり、社会保険料率の
引上げが行われたためである。次に消費支出の伸び率を見ると、97年は1.7%と可処分所得の伸び率をそのまま反映しており、96年の支出
の伸び率0.6%と比べると再びその差が広がっている。96年までは不景気を反映して年々消費性向が低下していたのが(95年の72.5%から
96年の72%へ。ちなみに90年は75.3%であった)、97年に至って下げ止まったからである。しかし、物価上昇を加味した実質消費支出は
どうか。97年の伸び率は0.1%に止まり、96年の伸び率0.6%を下回るに至る。もちろん、97年4月からの消費税率2%の引上げ、それに
伴う物価上昇を反映したものである。

つまり、こういうことである。

収入の伸び率や消費者心理の動きからみて、加えて、景気回復を反映して雇用が増加していることもあって97年の実質消費の伸び率が96年
のそれを相当程度上回る可能性は十二分にあった。

たとえ、特別減税が97年から取りやめにされても、それはなお可能であったろう。消費税率の引上げさえ実施されなければ....。

いま一つの国内民間需要の柱、設備投資についても見ておこう。97年のその伸び率は実績においても96年のそれを上回っている。消費が堅調
を保っていれば97年のその伸び率はさらに高まっていた可能性もある。

とすれば、である。景気を自然の流れに任せておけば、97年の成長率は、輸出入の動きや民間需要の動きが一段とそれを高める方向に作用
し、96年に比べ高いものとなっていた可能性が濃い。そしてその延長線上に98年、あるいは99年、さらには2000年や2001年の日本経済の
姿を描いてみると、事態は現状とは相当に違ったものになっていたに違いない。96年までの景気回復や97年初の日本経済の状況はその可能性
をはっきりと展開させてくれるものだったのである。

1997年初においては本格的な回復へ向かう可能性も十分にあった景気が、97年3月を山に4月から再び下降へ向かった、その背景に何が
あったのか。明らかに見えてくるのは消費税率の引上げを始めとする財政「構造改革」政策の影響である。

97年の経済成長率は1.8%となり、96年の3.5%から大幅に低下した。この低下を成長率の寄与度の変化で見ると、公的需要の寄与度の
低下が1.6%(96年、1%⇒97年、マイナス0.6%)と最も大きく、民間需要の寄与度の低下1.4%(96年、2.9%⇒97年、1.5%)がこれ
に次ぐ(両者を合算すると3%の成長率低下となり実際の成長率の低下1.7%を上回るが、これは別に輸出入の寄与度の上昇1.3%がある
ためである)。

この数字からも明らかなように、97年の成長率の低下は明らかに財政再建を目指した財政「構造改革」政策の結果である。すなわち、時の橋本
内閣は、96年度下期から公共投資を削減、97年には特別減税の取りやめ、消費税率の引上げを実施したが、その結果として97年において
公的需要が前年比縮小し、また、先に見たように消費を中心とした民間需要の伸び率が縮小して景気の後退を招くことになったのである。

また、97年7月以降、タイ・バーツの下落を引き金にアジア通貨危機が発生したこと、財政再建政策やアジア通貨危機の影響を懸念しての株価
の大幅下落があったことも、景気後退に拍車をかけた。

■不況を深刻化させた金融「構造改革」

本格的回復の可能性も見えていた日本経済は財政「構造改革」が引き金となって、97年4月以降、再び下降局面に入ることになった。そしてそ
の下降は、単なる成長減速にとどまらず、98年のマイナス成長へと局面は悪化していく。その際、一段の景気悪化の要因となったのは97年秋
に発生した金融危機である。三洋証券、山一證券、北海道拓殖銀行といった、しにせの、そして大手の金融機関がこの時期、あいついで経営
破綻をきたす。それが金融機関経営に対する一般の不安を招いて多くの金融機関の資金調達難を招き、果ては信用収縮(貸し渋り)を招いて
景気を一段と悪化させたのである。

こうした景気悪化の過程での最大の問題は何かを探るとすれば、それはこの時期、大手金融機関の経営破綻を放置した金融行政の誤りにある。
景気は次第に悪化しつつある、多くの金融機関がなおかなりの不良債権を抱えて経営に不安があると見られている。そうした時期には行政は
大手金融機関の経営破綻を放置すべきではなかったのである。あらゆる手段を使ってその延命を講じる、あるいは、破綻をさせるのは止むを
えないとしても、その波及を最小限に止める、そうした工夫が必要であった。そうすれば、その後に生じた金融危機の進行、「貸し渋り」の深刻化、
それに伴う企業倒産の増加、企業経営の消極化、消費者心理の冷え込み、それらの結果としての98年のマイナス成長(戦後最大の景気の落ち
込み)はある程度避けられたはずである。

そうした可能性があったにもかかわらず、なぜ、金融行政は適切な対応をしなかったか。そこには、96年秋から始めていた金融「構造改革」
(金融ビッグバン政策)の影響がある。


金融ビッグバン政策の最大の柱は金融の規制緩和、いわば市場原理の働きに金融を委ねる、というところにある。市場の選択に金融機関を
従わせる、ということである。こうした「構造改革」政策を進行させ始めて間もないところで、市場が否との答えを出した金融機関を行政としては
救済できなかった、ということである。というよりも、救済しないことが行政としては正しい対応だ、と判断したというべきだろうか。

その誤った対応の結果が97年末から98年にかけての日本経済の惨状である。さすがに、98年に入って一連の金融安定化策が講じられ、
ビッグバン路線は一部、臨時的に修正されることになるが、遅きに失した、というべきだろう。

金融「構造改革」路線が、あるいはそれへのこだわりが、90年代後期不況を一段と深刻化させたと見るゆえんである。

「構造改革」がらみで言えば、いま一つ、指摘しておくことがある。財政「構造改革」へのこだわりである。97年度の緊縮・財政再建型予算の後を
受けて、98年度以降の歳出も厳しく抑制していこう、そうすることによって2003年までに赤字国債の発行をゼロにして行こう、などという趣旨の
「財政構造改革法案」を97年秋の臨時国会に提出しているのである。財政構造改革法の成立は97年の11月28日となる。この法案の審議が
行われている時期に大手銀行、証券会社の経営破綻が生じ、日本経済はその危機を一段と深めていたが、それでも、政府としては、提出した
法案は成立させなければならない、成立させるためには、法案の趣旨に反する政策を打ち出すわけにはいかない、という論理がおそらく働いた
のだろう。この間、有効な景気対策が全く打ち出されないままに月日は経過していった。橋本首相が政策転換を打ち出すのは97年も押し詰まっ
た、12月半ばのことであった。財政「構造改革」へのこだわりが政策転換を遅らせた、とみるゆえんである。

さらにあと一つ、税制「構造改革」の影響についても触れておこう。

97年から98年の景気の落ち込みに対処しての、最も効果的な対応策の一つは、おそらく消費税の減税であったろう。96年から97年にかけて、
そして97年から98年にかけて消費の伸び悩みが著しく、そしてそれが不況の主因となっていた。それは消費税率の引上げに起因するもので
あったし、加えて消費者心理の冷え込みも大きな原因をなっていた。こうした状況に対処するためには減税が、それも所得税減税よりも消費税
減税が有効なのは理の当然である。当然であるのだが、それは実施されなかった。なぜか。将来は消費税の一段の引上げを図り、その収入を
税収の柱に据えるという、税制「構造改革」の路線に反するからである。実施されたのは所得税減税であった。加えて、99年に至っては累進税率
の引き下げを柱とする減税(98年比、高額所得者には大幅減税となるが、中層以下の所得者には増税となるという、税制「構造改革」の路線に
沿った、しかし景気対策に逆行する減税)、法人税率の引き下げという減税(これも税制「構造改革」の路線に沿う、しかし景気対策としてはほと
んど無力な減税)が実施されたりもした。99年以降の景気回復が遅々たるものとなった一因である。

こうしてみると、90年代前期の不況は、バブル景気に浮かれた日本経済がそのツケを支払わされた自然な不況であったことがわかる。高くなり
過ぎた株価、高くなり過ぎた地価、膨らみ過ぎた需要、膨らませすぎた供給力、そして信用、この期の不況はそうした異常な状態から日本経済が
脱却するための、必要な不況であった、というべきかもしれない。円高の進行もまた、膨らみ過ぎた対外黒字を正常な範囲に収縮させるための
一つの試練であった、といえなくもない。

そして、見てきたように、日本経済はその不況、試練に耐え、また、様々な対策を講じもして、復活を展望できるところまでは回復してきていた。
96年末、97年初のことである。

そこに後期の不況の到来である。この不況は財政「構造改革」という政策が招き、金融「構造改革」政策が深刻化させ、税制「構造改革」政策等
がそれからの脱却を遅らせた、人為の、そして日本経済にとって無用の、もしくは有害の不況とも言うべきものであった。

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