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(回答先: 構造改革か 投稿者 日時 2003 年 1 月 18 日 14:11:53)
1990年代の日本経済を指して「失われた10年」としばしば言われている。しかし、「失われた10年」という表現は、この10年間の日本経済の
低迷をひと括りに捉えている点において、間違えである。諸経済統計で見る限り、90年代の日本経済は2つの不況が連続しているのである。
■2度あった景気の下降局面
まず、経済企画庁(現在は内閣府)の発表している「景気変動の基準日付」をもとに、この間の景気変動を振り返ってみる。
「基準日付」によるとバブル景気の山は1991年2月である。バブルの崩壊は90年初に既に生じていたが、バブル景気の、いわば余熱もあっ
て景気拡大は91年初まで続いた。91年3月から景気は下降局面に入る。その谷底は93年10月である。翌93年11月から、日本経済は回復・
上昇の局面に入っていく。遅々たる回復であったがその回復は97年3月まで続く。そして一転、97年4月を山として景気は再び下降局面に陥る。
その谷は99年4月である。
こうしてみると、90年代において、93年11月から97年3月までの回復・上昇局面があった、そしてそれを間に挟んで、90年代の前半と後半と
に景気の下降局面が2度あった、ということになる。景気の谷前後を不況局面と名づけると、90年代においては、前期の不況と後期の不況、
不況局面は2度あった、ということでもある。
このことは、この間の実質成長率の推移によっても裏付けられる。すなわち、経済成長率は90年(暦年、以下同じ)の5%台から91年は3%台
に降下、92年、93年と0%台で推移した後、94年から徐々に上昇して95年1.5%、96年には3.5%にまで高まった。それが一転して97年
には1%台に、98年には−1%にと落ち込んでいるのである。
もとより、90年代央の景気の回復・上昇を示すものは実質成長率の数字ばかりではない。ほとんど全ての経済指標が94年から97年にかけて
の景気の好転を示す動きを残している。代表的なものとしては、「日銀短観」にみる企業の業況判断DIがある。97年央の調査結果を見ると、
製造業・大企業のそれは+13、すなわち、「業況が良い」と判断する企業の数が「悪い」とする企業の数を相当数上回るところまで景気は回復
していたのである。
また、99年度の「経済白書」は、日本経済の抱える過剰設備、過剰雇用などを取り上げ、分析した図を掲載しているが、そのいずれを見ても、
97年前後に事態は一度好転していることがうかがえる。
以上、見てきたように、90年代の日本経済の不振は2つの不況が連続して生じたために、結果として長期不況の様相を呈してしまった、という
ことである。90年代前半の不況が日本経済の構造の悪さに起因するものであり、財政支出をしても回復できない、「構造改革」を行わない限り
そこから脱出できないものであると説くと、90年代央の回復がなぜ生じたのか、人々を納得させるような説明ができないのである。
■バブル景気の後遺症としての前期不況
1990年代前期の不況は80年代後半の好景気(バブル景気)の崩壊とともに到来した。長期間にわたる、また、きわめて高水準であったバブル
景気の後遺症として、当然のこととして、その不況は長期間にわたる、また、谷の深い不況となった。同時にそれは株価や地価など資産価格の
大幅下落の影響を受けた不況であった。その分だけ、景気の落ち込みも大きくなった。
例えば経済の実質成長率である。80年代の前半(81〜85年)は年平均3.2%であったものが後半(86〜90年)は5.1%に高まっている。
88〜90年の3年間の平均だと5.7%である。とりわけ民間企業の設備投資の伸び率は高かった。80年代前半は年平均(実質)6.8%で
あったものが、後半は10.5%である。また、新設住宅の着工戸数も大幅に増えた。80年代前半は年平均117万戸であったものが後半は
162万戸となっている。家計における耐久消費財の購入も80年代後半においては高水準だった。
こうした高水準の経済活動はバブルの崩壊とともに水準調整をされることになる。まずは、カサ上げされた需要が剥奪する。同時に、ストックが
積み上げられたことにより新規の需要も抑制されることになる。家計の耐久消費財も、住宅も、企業の設備投資も、90年代初期には既にして
十分、という状況になっていた。加えて、資産価格の下落がある。90年からは株式価格が、91年からは土地価格が、年々大幅に下落するこ
とになった。国民所得統計によってその価格下落の状況を見ると、株価が90年以降92年までの3年間で約460兆円、地価が91年から95年
までの5年間で約650兆円の下落となっている。これだけの資産価格の下落の下では、それによる家計消費の抑制、企業投資の萎縮もまた
相当のものに上ったはずである。
ここで、90年代前期の不況の要因を整理してみよう。
92年、93年の日本経済は2年続けての0%台の成長という、戦後かつてなかった低成長となったが、それは民間需要が落ち込んだためである。
この両年ともに消費の伸びはきわめて低く、企業の設備投資は大幅なマイナスだった。住宅投資も92年はマイナス、93年は小幅なプラスという
状況であった。これらの需要が不振であった背景は先に見た通りである。
なお、「構造改革」論では、しばしば公共投資を中心とする経済対策が効果を発揮しなかったということが言われる。それは不況の因が構造問題
にあるためで、従来型の対策では駄目なのだ、と説かれるわけである。ところが、公共投資を含めた公的需要は、92年において1.3%、
93年において1.5%成長率をプラスにする方に働いている。このプラスがなければ、92年、93年ともに日本経済はマイナス成長に陥っていた
わけである。逆に言えば、これだけの公的需要のプラス寄与がありながら両年の成長率が0%台の低さに止まったのは、それだけ民間需要の
落ち込みが大きかったからなのである。経済政策が効かなかったわけではなく、効いたけれどもその効果を打ち消す要因の方も強かったので
効果の程が目に見えにくくなっている、というのが正しい認識だろう。
■景気回復を遅らせた円高の影響
さて、民間需要の方は94年から寄与度プラスに転じる。消費の伸びがやや回復し、企業の設備投資も95年には前年比プラスに転じる。民間
需要の落ち込みの主因がバブル景気の反動減であり、またその下で積みあがったストックの調整であるとの先の見方に立てば、それは当然の
成り行きであった。時間の経過とともに反動減は吸収され、ストック調整も進むからである。加えて、資産価格の下落幅も、92年よりは93年、
93年よりは94年と小幅になり、家計や企業の行動に及ぼすマイナスの効果も次第に小さくなっていった。さらには、94年に5兆円を越す所得
税・住民税の減税が行われた、その効果もあった。これらの結果として先の景気循環でも見る通り、日本経済は94年から回復・上昇の過程に
入ったのである。
但し、実質成長率の推移で見ると、94年は1%、95年は1.6%とまだ低成長率であった。なぜか。93年から95年にかけて円高が進み、94年、
95年の輸出の伸びが抑えられるとともに輸入が著しく増加し、そのことが低成長をもたらしたのである。構造問題があって景気回復が阻害され
た、というわけではない。
みなみに、円の対ドル相場の動きを見ると、90年の145円(年平均)が93年には111円、95年には94円となっている。月平均で見ると、90年
4月には158円であったものが95年4月には83円である。およそ100%の円高のため、輸入は大幅な増加をみて経済成長率を引き下げた。
しかし、96年になると状況は変ってくる。前年、95年の著しい円高の影響があって輸入は大幅に増加し(13.2%増)、経済成長率を引き下げ
る働きをしたが(寄与度マイナス1%)、民間需要の回復が本格化したからである(伸び率3.8%、成長への寄与度2.9%)。また、前年の阪神
大震災もあって、それからの復興、あるいはそれによる景気の落ち込みへの対処として大規模な経済対策が95年に打ち出されたことも寄与した。
96年の経済成長率は3.5%に達し、この年3.6%であったアメリカと並んで日本はOECD諸国の中でも1、2を争う成長経済となったのである。
このように見てくると、バブル崩壊以降、91年から96年にかけての日本経済の動きは、きわめて自然の流れの中で理解できるのである。
すなわち、バブルが崩壊し、好景気に終止符が打たれた。需要の反動減があり、大幅なストック調整があり、資産価格大幅下落の影響があり、
はたまた著しい円高の影響があった。しかしながら、財政支出の拡大や減税、加えて金融緩和政策の効果などがあり、また、時間の経過ととも
に家計部門や企業部門における調整が進んだこともあって94年から景気は回復に向かい始めた。そして96年には、バブル経済発生以前、
80年台前半並みの経済成長を遂げるに至った、という筋道である。ここには、構造問題が登場する余地がない。
問題があるとすれば、97年以降の経済政策である。一段の景気上昇も可能であった97年になぜ景気の腰の骨が折れてしまったのか?
それには財政、金融「構造改革」が深く関わっているのである。