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(回答先: 「韓国方式」で日本経済もIMFに降伏しろの国辱 ( グローバルアイ 12月号) 投稿者 TORA 日時 2003 年 1 月 16 日 10:14:37)
山家悠紀夫 「構造改革」という幻想を薦める
後世の歴史家は、現在の日本社会の状況をどのように描くのだろうか。私には、弱いものいじめの蔓延した時代として説明されるように思えてならない。
マスコミは、この数年「構造改革」というスローガン一色だ。中谷巌当たりに始まる「市場主義」「規制緩和」の強調が1980年代には広く喧伝されるようになる。要は、自由競争を妨げる要因として、政治的要因が強い。あるいは日本人気質とでも言うべき「文化的」「構造的」要因が米企業などが日本に進出することを妨げている。その事実が日米構造協議などの場で散々指摘されてきた。にもかかわらず、日本政府の反応は鈍い。しかし、そのことが、日本の消費者にとっても不利益になっている。高い商品を買わされているではないか。また、「官」の行う事業は、官僚や政治家のたかりが上乗せされるため、万事に高くつく。にもかかわらず、「談合」が生じるため、これらを是正することは困難になっている。これらを改めるには、日本社会全体の抜本的な「構造改革」が必要である。
概ねこのような主張がくり返し、テレビ等を通じてくり返されてきた。田原総一朗などは、そのような雰囲気を上手に利用して売れっ子司会者になったタレントであろう。竹村健一などという評論家は先行したタレントだ。それぞれ朝日系列とフジ系列で毎週同じ内容の主張をくり返した。
そのうち「グローバル・スタンダード」という表現が流行った。更に、バブル経済の破綻処理として、銀行の不良債権処理、「経営の存続が厳しくなっている企業を早期に淘汰する」こと、株式市場の活性化、「そのために税制上の措置をとること」が加わって現在の「構造改革」のイメージができあがる。
私のように1960年代の「構造改革」論を知る者にはとてもヘンテコな気分だ。60年代には、独占資本主義の構造を民主的なものに転換するという意味で民主社会主義の立場から主張されたものだったからだ。
また、80年代の「構造改革」でも、「国民生活優先の経済」をこれからは目指そう、という主張であった。それまでの高度経済成長期の生産部門優先を切り替えようということであった。それがいつの間にか、気がつけば、弱いものイジメの「構造改革」に変質してしまっていた。象徴的な事実として「住宅金融公庫」の廃止がある。また、不良債権処理を急ぐと称して不良債権の定義の変更をしている。「自由競争」を「弱者が陶太される」ことと読み替えて、弱者陶太を急がせる。更には、それを政府の手で後押しするという方針のようだ。それは明らかに「市場に委ねる」という姿勢とは180度異なるはずなのだが、端から彼らに論理性を期待することはできないのだ。
私がこの半年、疑問をもって観察してきたのは、どうもこの内閣は「軽い」信用ならないという気分を抱えてのことであった。つまり、生活者としての重みが感じられないのだ。いわばパラサイト・シングルにみられる無責任さというようなものを感じ取ってしまうのだ。そして、そのような連中のやることであるから、「生活者重視の構造」という宮沢喜一が組閣時に述べたような方向には進まないのではないかと危惧したのだが、案の定、森内閣の延長線上を進んでいる様子なのである。小学生のように単純で融通が利かないので、ITと少子・高齢化のなんとかのひとつ覚えをくり返すばかりである。具体的政策のお粗末なことこの上なし。どうやら、放置しておけば、「生産者優位」の過去の日本経済・日本社会の欠点を強化しかねない様子である。
以上のような私の危惧を、実証的にかつ論理的に明快に説明する作業を行っているのが山家悠紀夫神戸大教授の著書である。荒っぽい紹介になるが、簡単に言えば、次のようなことを論証していっているのだ。?@「構造改革」ということばは曖昧である。?A「構造問題」が経済の長期低迷を招いたのだから、その原因を改革しなければ成長はありえないというイメージを振りまいているが、「構造問題」は本当に長期低迷の原因か? ?B「構造改革」としてアメリカの経済政策をまね、サプライサイドを重視するが、それは失政である。?C財政赤字を強調するが、判断に誤りがある。?D現在の方向では景気は更に悪くなる。?Eさらに、そのままいけばカジノ型社会を導き、日本の生活者にとって実に住みにくい社会になる。
?Aについて少し補足をする。95年から97年にかけて日本経済は回復しており、それを再び不況に導いたのが橋本財政「構造改革」であった。90年代前期の不況の原因はバブルの破綻であるが、後期の不況原因は財政「構造改革」である。この2つを一体のものとして捉えてしまうから、事の本質が見えなくなるのだと主張するわけだ。その論証過程は省略するが、私には説得力があった。
?Bについては、むしろ需要の落ち込みと回復しないことが今回の不況の原因とみた方がよい。たとえば、自動車産業などにおいても国際競争に敗れたわけではない。したがって、生産システムが原因で競争力を失ったのだから、その背景にある「構造」を改革しなければならない、というわけではない。つまり、「構造改革」論者の主張は論理的ではない。ムードだけのものであるということになる。
?Cについては、G8で最大の赤字と旧大蔵省、マスコミは宣伝してきたが、政府の総債務残高から政府保有の金融資産残高を差し引いた債務残高の対国内総生産比は、アメリカ、ドイツより低い。つまり借金は多いがそれを返すだけの資産はあるということだ。
通常企業でも、設備投資を大々的にやろうとすれば、多額の借金を抱えることになる。借金だけをやたら恐れるような経営者はどこかおかしい。そう考えれば、この指摘の意味は把握しやすいのではないだろうか。
資産は、年金基金、国の特別会計、自治体の種々の基金、積立金として存在している。外貨残高2880億ドル(99年末)は世界一の規模である。これも国の金融資産である。
さらに、借金は急いで返さなければいけないと思いこむなということを、利息、貸し手の状況から検討し、返済しても家計に戻っていくだけのことであることを確認している。家計、企業ともに貯蓄に回している時期に資金が戻ってきてもあまり意味はない。借金返済を最優先事項にしている政策は不自然で、愚かということになりそうだ。
財政赤字の弊害は、教科書的には、1.金利上昇による民間企業の資金調達困難(クラウディングアウト)2.インフレ3.通貨価値の下落が起こることと説明されている。著者は、これまでのところそれらの現象は起こっていないと指摘する。それは、民間部門の資金余剰が大きい金余り状況にあり、供給過剰のためインフレは起こりにくく、経常収支・貿易収支の黒字から通貨価値も低下しにくいためであると説明する。この基本条件から少なくとも数年は現在の状況は続くと予測される。ならば、財政赤字解消を声高に叫ぶことは誤った判断であると、まともな経済学者ならば理解してしかるべきであろう。
また、高齢化を強調し、それに備えよという主張もあるが、0〜14歳人口を65歳以上人口に加えて総人口比を取ってみるとみごとに一定になる。余りにも「高齢社会」による「国民負担率」の上昇をオーバーに宣伝しすぎたのではないか。また、高齢者人口や逆に低年齢人口がいかに増えようと、それらの人々を支えていくのは当然のことではないか。それを仮に税負担や社会保険料負担を減らしたとしても、個々の生活者が負担しなければならない状況に変化はない。著者は、こういった分析を行っている。
もっと利己的に、姥捨てをやれというのだろうか。「政府は知りませんよ」と言っているだけのことで、いかにも役人の言いそうなことであるに過ぎない。私はそういう言葉をまともに取り上げてしまうマスコミの見識を疑っている。
また、アメリカがサプライサイド重視により成功したのには、基軸通貨国としてドル安やドル高を誘導でき、国際収支の赤字を気にせず政策実施ができるという条件がある。日本にはそれがない。そういう特殊ケースを手本にするのはおかしい。さらに、アメリカの好況は大多数の人の賃金を上げていない。所得格差が広がり、絶えず首切りがあって安心して働ける環境ではなくなっている。一部の金持ちだけのための経済政策だということに気をつける必要がある。
根気がなくなってしまった。言いたいことだけ言う。
現在ムードとして「構造改革なくして景気回復なし」などということばがまかり通ってしまっている。しかし、そのことばに何の論理性もなく、実証的根拠もない。もっと大事なことは、どのような社会を創ろうとしているかということだ。私は、生活者がもっと物質的にも精神的にも時間的にもゆとりがあり、「自分の時間」を保てる社会、経済を作り出したいと考える。
それならば、失業の恐怖・不安、やりたくないような仕事を強制される社会というのはごめん蒙りたい。何も甘えるつもりはない。しかし、定期預金の金利が0.5%で、銀行がつぶれても自己責任だといわれるような社会はヘンだ。それは生産者側には都合のよい社会になるということではないのか。まじめに働いている人間を足蹴にするような社会を理想としているのではないのか。
これまでの言動を観察するかぎり小泉某には「哲学」はない。子供じみた駄々のこねかたがうまいだけの人物のように見える。政治的説得の手腕があるようにも思えない。政策立案能力も極めて稚拙だ。情報操作・イメージ操作の巧みさだけというのは、デマゴーグと形容される人間類型だと私は理解している。このような人物しか日本の政界にはいないのかと思うとがっかりする。