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「善悪を知る木」の実を食べることによって獲得した能力と
は、まさに分別智のような「理性」のことを指すのだろう。聖
書でも理性の獲得が「楽園追放」の原因となっているのは仏教
と似ていなくもない。
理性の獲得によって直接的経験・情動、すなわち「自然」か
ら乖離した人間は、生殖や排泄という自己の自然たる「本能」
や「生理的行動」を満たしたり処理するための身体部分を露出
させることを恥じるようになった。
自分自身の自然を世界に露出することは自然と自分、世界と
自分、他者と自分との間に距離を置き境界を設ける理性の嫌う
(本質上矛盾・反発する)ところなのであろう。「知恵の実」を
食べた人間はまず、最初の衣服をいちじくの葉でつくって着た
というのはそのような意味であろう。
ここでもまた、人間の迷妄・苦悩の根源に「主客の分離」、「
自他の分離」、「自分と対象世界の分離」などの「二元論的思考
」を見る仏教的伝統と類似性を示している。
(創世記)
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは
土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりにる」
。主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのよう
になり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木から
も取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神
は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕さ
せられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと
、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
理性によって自然から乖離した人間は、自分の自然、すなわ
ち本能や情動を意識的に制御し、言語分節された外の自然に意
志と計画をもって働きかけることによって生活し、できるだけ
苦痛をさけ快を得ようとするようになる。
つまり、自他の区別をし、世界を分節し、そうして成立する
「事物」を概念操作し、また自己を含めた諸事物やそれらの間
の関係についての意味付け・判断を行うこと、こうしたことが
理性であるとまとめることができよう。
理性によって人間はルールと秩序ある社会を形成できるよう
になり、学問(理性による自然の認識)をし、労働(理性によ
る自然への働きかけ)をするようになったのである。聖書の「
地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地か
ら食物を取る。」という話はこのように解釈することもできる
。人間はコミュニケーション手段ともなる言葉を話し、社会を
形成することによって時間や個人の限界を超えた理性の力を発
揮することができるのである。「見よ、彼(人間)はわれわれ
(神々)の一人のようになった。」理性は神的な性質なのであ
る。
あとは「禁断の命の木の実」を取り込んで永遠の命を獲得す
れば、人間は神にますます近づいて(等しくなって?)しまう
のだろうか。