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(回答先: キリスト教信仰の基礎である救世主イエスの実在性 投稿者 あっしら 日時 2003 年 3 月 10 日 04:39:23)
訂正:BC150年頃の「義の教師」は、BC50年頃の「義の教師」の誤りです。
紀元前1世紀をAD100年代と取り違えていました。
● イエス・キリストのでっち上げ
『原始キリスト教』文庫クセジュ マルセル・シモン著 久米博訳
P.40
「最近死海の近くで発見された、西暦紀元より少し前の写本は、「新しい契約」の宗派といわれるユダヤ教の一宗派の蔵書を開示してくれた。この宗派はあらゆる点からみて、フィロン、ヨセフス、大プリニウスたちによって記述されているエッセネ派の一派とみなされる。そこには種々の宗規書と聖書外典の、私たちに手に入る一番古い写本や、それと一緒にハバクク書の注解書がある、これはパリ大学教授デュポン=ソメによって、博識と洞察にとんだ解釈が施された。この注解書によれば、その宗派の首長であるある神秘的な「義の教師」は、紀元前一世紀の半ばと思われる頃、エルサレムの祭司たちの迫害をこうむったことが知られる。なんらかの事情で、彼は死刑に処されたが、彼の弟子たちは彼が昇天したと信じた。弟子たちは、彼が輝かしき復讐のために、終わりの時に再びやって来ることを堅く期待した。そして彼への信仰を、救われて神の国に近づくための条件としたようである。
この驚くべき発見によって起こされる問題のすべては、まだ完全には解明されていない。しかしすでに知られているだけでも、この宗派が原始キリスト教といくつかの点で正確な類似を提示していることを立証するには十分である。イエスと同様、神の国の先触れであり、発頭人であった「義の教師」は、同時に進行と神学的思弁の対象であった。彼にとっても、地上の生涯における試煉は、天に上げられ、栄光の再臨をするしるしなのである。それが及ぼした影響の正確な性質や範囲については、なおあきらかにすべき点が残っている。」
『出エジプト記の秘密 − モーセと消えたファラオの謎 −』原書房 メソド・サバ/ロジェ・サバ著 藤野邦夫訳
P.146
「タルグムとよばれるアラム語訳の聖書が参考にされたのは、それが早い時代のものだったからである。それは前一世紀の日づけを持つ、再発見された最古の記録(死海文書)に先だって消失したヘブライ語の聖書の翻訳だった。一世紀にそれをアラム語に訳したのはオンケロスだった。ヘブライ語の最古の聖書をもとに確定されたこの文書は、一連の聖書研究にもとづいていた。ラシ(引用者注:10世紀のユダヤ教ラビで当該書で数多く引用される(旧約)聖書注釈者)の注釈は、アラム語の聖書を通じてヘブライ語の聖書を説明するものだった。ヘブライ語はナザレのイエスという、イェシュア・ハノツリといわれたキリスト(ヘブライ語表記略)が書いて話したことばだったのだ。
ナザレのイエスが読んだ聖書は、まさに現在のわれわれの聖書を説き明かす。」
『ユダヤ戦記』ちくま書房 フラウィウス・ヨセフス著/秦 剛平訳
第3巻 P.72
「しかし、これらの兆しよりももっと恐ろしかったのは次のものだった。戦争が起こる四年前(六二年の秋)、都が平和と繁栄をとくに謳歌していたときのことである。アナニアスの子イエススと呼ばれているどこにでもいる田舎者が祭(仮庵の祭、スコットを指す)にやって来ると−この祭では神のために仮庵をつくるのが全ユダヤ人の慣習だった−、神殿の中で、突然、大声で、「東からの声、西からの声、四つの風からの声!エルサレムと聖所を告発する声、花婿と花嫁を告発する声、すべての民を告発する声!」と叫び始めた。そしてイエススは日夜こう叫びながら、路地という路地を歩いてまわった。市民の中のその名の知られた者たちは、これらの不吉な言葉に苛立ち、この者を捕まえると何度も鞭打って懲らしめた。しかしイエススは自分のために弁護するわけでもなく、また自分を鞭打った者たちに密かに解き明かすわけでもなく、それまでと同じように大きな叫び声を上げつづけた。
そこで指導者たちは、事実そうだったのだが、ダイモニオン(擬人化された悪霊)か何かに憑かれていると考えて、イエススをローマ総督のもとへ引き出した。彼は、そこで骨の髄まで鞭打たれたが、憐れみを乞うわけでも涙を流すわけでもなく、ただひどく悲しみに打ち震える調子で、鞭打たれるたびに、「エルサレムに呪いを!」と言った。アルビノスが−彼は総督だった(アルビノスは六二−六四年まで総督)−「いったいおまえは何者で、どこからやって来たのだ。何のためにこんなことを口にするのか」と尋問しても、それには答えず、都を呪う言葉を繰り返すだけだった。結局アルビノスは、気が触れていると宣告して男を放免した。以後この男は戦争の勃発まで、市民に接触することはなく、また話しているのも目撃されることもなく、毎日祈りでも唱えるかのように、「エルサレムに呪いを!」と悲しみの言葉を繰り返していた。イエススは連日自分を撃ち打つ者を呪いもせず、また食べ物をくれる者を祝福もしなかった。男はすべての人にあの薄気味悪い呪いの言葉を口にするだけだった。とくに祭ともなれば、一段と声を張り上げて叫んだ。こうしてイエススは七年と五ヶ月、相変わらずの調子で、倦むことなく嘆きの声を上げつづけた。しかし、都が包囲されて呪いの言葉が成就されたのを見ると安息を得た。というのも、そのときイエススは周囲を巡回しながら城壁から「都と民と聖所に呪いを!」と甲高い声を上げていたが、「そしてわたしにも呪いを!」と口にしたとき、投石機から発射された石弾が命中して即死したからである。こうしてイエススは、呪いの言葉をまだ口の端にのせながら、その命を解き放ったのである。
これらの数かずの予兆の意味を考えると、人は次のことを、すなわち神は人間たちの保護者であり、ご自分の民にはあらゆる手段を用いて救いの道をあらかじめお示しになっていたことを、しかしまた人間というものは愚行と自らが選び取った悪とで滅びることを知るのである。」
● イエス・キリストの人となり
キリストは、基本的に、教団組織や家族を否定し、平和主義で共産主義的な世界共同体をめざすことを説いたと考えることができる。
「神と金の両方に使えることはできない」(マタイ伝)
「金持ちが神の王国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうがたやすい」(マタイ伝・マルコ伝・ルカ伝)
「あらゆる貪欲に対して防備を固めよ。なぜなら人の生は、所有物の豊富さによるものではないからだ」(ルカ伝)
「所有するものをすべて売り払い、その金を貧しき者に分け与えよ。そうすればおまえは天国に宝を得るだろう」(ルカ伝・マルコ伝・マタイ伝)
「人々の間で高い価値をおかれているものは、神の目には抱きすべきものでしかない」(ルカ伝)
その一方で、そのような理念とは食い違うイエス像が提示されている。
“自分勝手なイエス”:高価な香油を自分に注ごうとした女性に人々が憤って、香油を無駄にするな。それを売って貧しい人たちに施したほうがいいと咎めると、イエスは、貧しい人はいつでもいるが、私は今しかないからいいんだ。この女性を記念すべきことをしたんだと容認した。
マタイ伝:第26章6−11・マルコ伝:第14章3−7・ヨハネ伝:第12章2−8
※ ヨハネ伝では、裏切り者ユダが女性を責めたことになっており、ユダが盗みを取り繕うためにその香油を売ってお金を手に入れようとしたからだとなっている。
“好戦主義イエス”&“家族破壊主義イエス”:
「地上に平和をもたらすために、私がきたと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにはふさわしくない」(マタイ伝:第10章34−138)
「あなたがたは、私が平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか、あながたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で5人が相分かれて、3人はふたりに、ふたりは3人に対立し、まあ父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に、対立するであろう」」(ルカ伝:第12章51−53)