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(回答先: 「週刊金曜日の前社長・本多勝一が新雑誌を創刊」(月刊リベラルタイム2003/3) 投稿者 YM 日時 2003 年 2 月 25 日 19:08:49)
ちなみに発行元の「あれこれ株式会社」代表は、本多が編集委員をしている『週
刊金曜日』の編集長代理だった山中登志子である。
〈基本コンセプトは「独断と偏見と私憤の雑誌」です。この言葉で硬いイメージ
を持たれましたでしょうか?本多勝一編集長ということで、硬派月刊誌をイメー
ジされたでしょうか?セックスという言葉を思い浮かべてください。あなたは何
を思い浮かぺましたか?挿入行為?愛撫?裸身?キス?様々な想像が働くはずで
す……〉(同)
何度読んでもよく分からない「基本コンセプト」。それでも「ホンカツ教徒」
は、百四十六ページ・五百八十円(消費税込み)の月刊誌に飛びつくのだろう
か。
同じホンカツ教徒を読者層とする『週刊金曜日』と「タコの足食い合戦」をする
だけではないのか。
「本多にとっての悲劇は、ジャーナリストとしては一流でも、社会人・組織人と
しては練れていないことだ」
という元同僚もいる。一匹狼を「群れ」に入れることが無理なように、本多に
とっては自分のやりたいことをやり、書きたい記事を書き、絵を描き山スキーを
楽しむことが「自分の生き方」のようだ。
朝日新聞時代もデスクすらしたことがない一匹狼だった。組織や集団の論理で動
く人間たちを「メダカの群れ」と批判しながら、『週刊金曜日』の立ち上げに
よって、社長や編集長という肩書をつけられていたこの十年は、本多にとって
は,誤算でしかない、というしかあるまい。
すぐ惚れ、すぐ飽き、すぐ批判?
一九三一(昭和六)年、信州・伊那谷で生まれた本多が世の注目を浴びたのは四
十年前、朝日新聞夕刊のルポルタージュ「ニューギニア高地人」の連載である。
千葉大学薬学部を卒業した後、京都大学農林生物学科に学士入学した本多は、探
検部を創立し山登りと山スキーに熱中した。その時に身につけた体力と根っから
の好奇心が、「人の行かないところに行く。何でも見てやろう」と、こうしたル
ポに結びついたのである。
本多の文章は注釈が多いのが目障りだが、分かりやすい。普通の人の普通の視線
で捉えている。特に初期のルポルタージュにおいては、その作品は、表現の激し
さに対する嫌悪感をかき消すぐらいに分かりやすい。
だが、「取材で知り得た事実を積み重ね、時にはえげつない言葉を使って批判す
るのは得意だが、同じ手法で批判される側になると冷静さを失う男である」と評
する人もいる。好例がジャーナリスト岩瀬達哉との「争い」だ。
岩瀬が一九九七年一月号の『ヴューズー(講談社=休刊)に書いた「リクルート
の接待旅行」記事が名誉棄損に当たるかどうか、民事裁判になっている。
そしてこの間、本多は様々な「場外乱闘」を起こしているが、「噂の真相」編集
長・岡留安則との「場外乱闘」は、本多の一面をよく表している、といわれる。
つい数年前、岡留を「名編集長」と持ち上げ、『週刊金曜日』の編集長になって
欲しいと懇願したことなどすっかり忘れたかのように岡留を批判している。「人
を見る目がない」のかもしれないが、「すぐ惚れて、すぐ飽きる」人であるとい
う意見が多い。「飽きる」だけなら害はないが、飽きた途端に「徹底的に批判す
る」ところが、本多の特徴というのである。
かつて、大江健三郎、石原慎太郎批判について「知識人批判の論理」を聞かれた
本多はこう答えている。批判の基準は、ニセモノ性ですね。人間としてのインチ
キ性、それが最大の根拠です」(滅びゆくジャーナリズムー)
岩瀬裁判の判決は、二月二十六日に下される予定だ。
(文中敬称略)